第23話
元聖女のエリアーデが、私の弟子になった。
その信じられない事実は、教室にいた子供たちと大人たちの間に大きな衝撃となって広がった。
子供たちは、何が起こったのかよく分かっていないようだった。
昨日まで自分たちの世話をしていた綺麗なお姉さんが、先生の前にひざまずいている。
その不思議な光景を、ただぽかんとした顔で見つめていた。
しかし事の重大さを理解している大人たちの反応は、全く違っていた。
教室の後ろで授業を見ていたギュンターさんは、口を開けたまま固まっている。
彼の隣にいた村長は、あまりの驚きに腰を抜かしそうになった。
そして、慌てて壁に手をついていた。
「な、何だって。あの聖女様が、嬢ちゃんの弟子に。」
「わしは、夢でも見ているのか。」
彼らの動揺は、もっともなことである。
エリアーデは、最近までこの国の全ての民から尊敬されていた存在なのだ。
その彼女が、追放された公爵令嬢である私の弟子になる。
それはこの世界の身分制度や常識が、根本からひっくり返るような出来事だった。
私は周りの混乱を気にせず、エリアーデを黙って見下ろしていた。
彼女の瞳は、とても真剣だった。
そこには、嘘や計算が見られない。
ただ純粋に、新しい道を歩みたいという強い意志だけが輝いていた。
この村での辛い生活が、彼女の心から余計なプライドを洗い流したのかもしれない。
「顔を上げなさい、エリアーデ。」
私は、落ち着いた声で言った。
「あなたの覚悟は、分かりました。ですが、一つだけ勘違いしないでください。」
「勘違い、ですの。」
エリアーデが、おそるおそる顔を上げた。
「私の弟子になるということは、聖女だった頃の華やかな生活とは無縁になることです。むしろ今以上に辛くて地味な毎日が、あなたを待っているでしょう。それでも、あなたは耐えられますか。」
「はい、もちろんです。」
エリアーデは、迷いなく答えた。
「私はもう、過去の栄光にはしがみつきません。いえあれは栄光などではなく、ただの作り物でした。今の私は、何もないただのエリアーデです。ゼロから、全てを学び直す覚悟はできております。」
その言葉には、確かな重みがあった。
私は、満足してうなずいた。
「よろしい。では今日からあなたを、私の見習い弟子として認めます。ただし正式な弟子になるには、私が出す試練を乗り越えてもらいますからね。」
「ありがとうございます、リディア先生。」
エリアーデは、深々と頭を下げた。
その声は、喜びに震えている。
こうして、私の最初の弟子が誕生した。
それはかつて私を地獄に突き落とした元聖女という、とても皮肉な巡り合わせだった。
その日の午後、エリアーデの最初の授業が始まった。
場所は、教室ではない。
村の家畜たちが暮らす、小屋の中だった。
そこには、山羊や鶏が飼われている。
地面にはたくさんの糞尿が落ちていて、独特の強い匂いがしていた。
「うっ……。」
エリアーデは、思わず鼻をつまんで顔をしかめる。
聖女として神殿で暮らしていた彼女にとって、このような場所は生まれて初めてだったのだろう。
「ここが、あなたの最初の学びの場所です。」
私は、平然と言い放った。
そして一本のシャベルと手押し車を、彼女の前に置く。
「まずは、この小屋を隅々まできれいに掃除してください。動物たちの糞尿は、ただの汚い物ではありません。これから私たちが作る、新しい肥料の貴重な材料になるのですから。」
「え……。こ、これを、わたくしが。」
エリアーデの顔が、恐怖と嫌悪でひきつった。
彼女の白い手は、これまで土や汚い物に触れたことが一度もなかっただろう。
その手が、これから動物の糞を片付けなければならないのだ。
「嫌ですか。それなら、今すぐ弟子入りを取り消しても構いませんよ。」
私が冷たく言うと、エリアーデはぶんぶんと首を横に振った。
「い、いえ。やります、やらせていただきます。」
彼女は覚悟を決めたように、震える手でシャベルを握りしめた。
そして、おそるおそる糞の塊をすくい上げようとする。
そのぎこちない手つきは、見ていて危なっかしいほどだった。
案の定、彼女は足元の糞に気づかなかった。
そして、つるりと足を滑らせてしまった。
「きゃっ。」
短い悲鳴と共に、彼女は派手に尻餅をつく。
その拍子に、シャベルの上の糞が宙を舞った。
そして彼女の綺麗なプラチナブロンドの髪に、べちゃりとくっついた。
「…………。」
エリアーデは、何が起こったのか分からないという顔でしばらく固まっていた。
そして自分の髪についた汚物を見て、その美しい顔を絶望に染める。
その瞳に、じわりと涙が浮かんだ。
聖女だった彼女にとって、これ以上の屈辱はないだろう。
普通の貴族令嬢なら、泣き叫んで逃げ出してもおかしくない状況だ。
だが、エリアーデは違った。
彼女は、唇を強くかみしめる。
そして、その涙をぐっとこらえた。
彼女は何も言わずに立ち上がると、髪についた汚物を無造作に手でぬぐう。
そして再び黙々と、シャベルを手に取った。
その瞳には、さきほどよりもずっと強い決意の光が宿っていた。
私は、そんな彼女の様子をただ黙って見ていた。
口出しも、手助けもしない。
これは、彼女が自分自身で乗り越えなければならない最初の壁なのだ。
過去の自分と別れて、新しい自分へ生まれ変わるための大切な儀式だった。
エリアーデが家畜小屋で苦労している頃、村では別の大きな動きが始まっていた。
アルブレヒトの交易部隊が持ち帰った大量の銀貨を元手にして、私たちは本格的な貨幣経済の導入に着手した。
そして、村の基盤を整える計画も始めたのだ。
校舎の一室に、臨時の役場兼銀行が作られた。
責任者は、アルブレヒトである。
彼は騎士としての力だけでなく、意外なことに数字にも強いことが分かった。
彼と彼の部下たちは、村の生産量や人口を正確に調べた。
そして労働の対価として村人たちに初めて「給金」という形で、お金を支払う仕組みを作り上げた。
最初はただの金属の円盤に戸惑っていた村人たちも、その貨幣で村の店から食料や道具を買えるようになった。
すると、その便利さをすぐに理解した。
物々交換の経済から、お金を使う新しい経済へと村は急速に変わっていく。
それは人々の労働意欲を刺激し、村全体の生産性を大きく向上させる結果となった。
経済が回り始めると、次の課題は物や情報を速くやり取りすることだった。
村は、日に日に大きくなり人口も増えている。
村の端から端まで、伝言を伝えるだけでも一苦労だ。
交易で外部との交流が活発になれば、その問題はさらに深刻になるだろう。
「リディア先生、何か良いお考えは。」
役場で帳簿の整理をしていたアルブレヒトが、私の元へ相談にやって来た。
彼の顔には、嬉しい悲鳴のような疲れの色が浮かんでいる。
「ええ、もちろんありますよ。」
私は、にやりと笑って一枚の設計図を広げてみせた。
「これから私たちは、この村に『情報網』を張り巡らせます。遠く離れた場所にいる人間と、すぐに言葉を交わすことができる魔法の道具を作るのです。」
「すぐに、言葉を交わす。」
アルブレヒトが、信じられないといった顔で設計図をのぞき込む。
そこには、奇妙な記号と線で構成された複雑な回路図が描かれていた。
「電気、という力を使います。」
私は、説明を始めた。
「以前、雷が電気の正体だという話をしましたね。あの莫大なエネルギーを、人間が扱えるように制御するのです。そしてその電気の流れに乗せて、私たちの言葉を遠くまで運びます。」
私が説明しているのは、前の世界で「電信」と呼ばれた技術の基本原理だ。
電池や電線、そして電磁石。
それらの部品を組み合わせれば、実現は決して不可能ではなかった。
電池は、レモンと銅板と亜鉛板があれば作れる。
もっと強力な化学電池の設計図も、私の知識の中にはいくらでもあった。
電線に必要な銅も、このあたりの鉱山で採れることが分かっている。
問題は、電気という目に見えない力を彼らにどう理解させるかだった。
「電気……。雷の力、ですか。そんな恐ろしいものを、本当に人間が操れるのですか。」
アルブレヒトの声には、恐れの気持ちがこもっていた。
「ええ、操れますとも。科学とは、自然という暴れ馬を乗りこなすための手綱のようなものですから。」
私は、彼を安心させるようにほほえんだ。
「まずは、小さな実験から始めましょう。百聞は一見に如かず、です。実際にその目で見てみれば、電気の力がどれほど素晴らしいものかきっと理解できますから。」
私はアルブレヒトを連れて、工房へと向かった。
工房の隅では、ギュンターさんが新しい炉の製作に取り組んでいる。
銅を溶かして、細い線へと加工するための特別な炉だ。
私が工房に入っていくと、彼は汗だくの顔を上げてにやりと笑った。
「よう、嬢ちゃん。ちょうどいいところに来たな。見てくれよ、試作品の銅線ができたぜ。」
彼が指さす先には、美しい赤褐色の輝きを放つ細くしなやかな金属の線が巻き取られていた。
それは私たちの村に新しい神経網を張り巡らせるための、記念すべき最初の血管だった。
その銅線を前にして、私はアルブレそれに電気の最初の実験を見せてやることにした。
カエルの足の筋肉が、二種類の金属に触れるとぴくりと動く。
昔の偉大な学者が発見した、有名な現象の再現だ。
この現象こそが、人類が初めて「生体電気」を発見したきっかけとなった歴史的な実験である。
私は近くの小川で捕まえてきたカエルを使い、その準備を始めた。
アルブレヒトは、私が一体何をしようとしているのか分からない。
そして、不思議そうな顔で私の手元を見つめている。
彼の常識が、また一つ大きな音を立てて覆されようとしていた。
その頃、家畜小屋では。
エリアーデが、ようやく半分の掃除を終えようとしていた。
彼女の体は泥と糞尿で汚れ、髪からはひどい匂いがする。
だがその顔には、不思議な達成感が浮かんでいた。
彼女は額の汗を手の甲でぬぐうと、自分が綺麗にした小屋の半分を誇らしげに見渡した。
そして空になった手押し車を手に取り、残りの半分へと向かう。
その足取りには、もはや何の迷いも見られなかった。




