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試合は終わったが帝都探索学園はまだ熱を引かなかった。
廊下の端末では何十台ものリプレイが同時に流れ、同じ瞬間――炎が弾け、少年が無傷で立つ――が、少しずつズレた時差で繰り返されている。
《え、結界ログ出てない?》
《温度計ぶっ壊れてる説》
《#クラッシャー無傷》
「見ろよ、ここ。火柱の立ち上がり波形……結界の減衰が入ってない」
「映像バグじゃないのか?」
「審判席の計測も同じ数値だって。つまり――」
噂は速い。教室からグラウンドへ、購買から医務室へ、言葉が形を変えながら駆け抜ける。
器がSとはいえEランクの《身体能力上昇》が、Bランク相当の熱圧に耐え、《観測防御結界》の介入痕もなく立っていた――その事実だけが、やけに冷たい。
「……“防御した”ようには見えないんだよな」
「じゃあ、何だよ」
「わからん。ただ、当たってるのに当たってない、みたいな」
学園研究棟にある《異能解析室》では、教師とギルド技術班による臨時会議が始まっていた。
壁一面のモニターには、先ほどの試合映像がスロー再生で流れている。
炎の奔流、結界光の波、そして無傷の少年。
「……再生停止。スロー再生でもう一度」
篠原先生の低い声に、研究員の手が止まる。
画面の中、神代の炎が悠真を包む瞬間。防御結界が光るはずの位置――リング外周の柱が、反応していない。
「やはり結界の作動ログがないか」
「はい。温度センサーは最大1620度を検知、空気圧は8.9トン。通常なら第一層《衝撃減衰》が起動するはずです」
「なのに、反応ゼロ……?」
研究班主任の黒羽が、モニター脇のホログラムに数値を浮かべた。
結界出力・選手耐久・環境変動――どの項目も異常値なし。
それなのに、被弾者のダメージログが“空白”になっている。
「炎の粒子は確かに皮膚に触れている。だが、温度低下がない」
「低下してない? つまり……燃焼が成立してない?」
「そうだ。彼の体表で“何か”が起きて、熱伝導が遮断されている」
篠原は腕を組み、静かに息を吐いた。
「防御ではない……まるで“拒絶”だな」
誰も笑わない。
モニターの映像が再び流れ出す。
悠真の皮膚の表面で、炎が淡く歪む――まるで空気の層が境界を作っているように。
「異能分析でEランク登録、能力は《身体能力上昇》。単純な強化系のはずです」
「でも、筋力や反応速度だけじゃない。生体耐熱、衝撃吸収、再生。
これ、全部が“上昇”しているとすれば、理論上は説明できなくもないけど……」
「ただし、その倍率は?」
「出力がSとしても基準値の――約1万倍です」
室内に、短い沈黙が落ちた。
機械の駆動音と冷却ファンの唸りだけが響く。
「……1万倍だと? どんな能力の国家級をもゆうに超えてるじゃないか」
「でも、彼の波長は安定しています。暴走の兆候もない。正直、ありえません」
篠原は無言で映像を見続けた。
少年が拳を振り抜いた瞬間、炎が霧散する。
その光の向こうに立つ姿に、ぞくりと背筋が粟立つ。
「結界が作動しなかった理由を、もう一度整理しろ」
黒羽が小さく頷く。
「……ひとつだけ仮説があります。
結界は“生体の危険度”を自動判断して発動します。
つまり――相原悠真を“危険対象”と認識しなかった可能性がある」
篠原の眉が動く。
「人間としての、生体判定を……外れている、ということか?」
「断定はできません。ただ、解析装置が“分類不能”の波形を検出しています」
黒羽は画面を切り替え、淡い光の波形データを表示した。
見慣れた青のグラフの中に、一筋だけ異質な線が走っていた。
誰も、その意味を口にできなかった。
控室のドアを開けると、軽い拍手と笑い声が迎えてくれた。
リーメイが真っ先に飛び込んでくる。
「ユーマ! また無傷で勝ったアルね!? 炎、熱くなかったアル?」
彼女の目は好奇心で輝いている。
悠真は少し困ったように笑った。
「……ああ。熱は感じた。でも、燃えなかった」
「またそれかよ、お前」
黒瀬がソファの背に寄りかかり、呆れたように肩をすくめた。
「Eランクだって言われても信じる奴いねぇぞ。もう次元が違ぇな」
「たまたまだよ。あの人が疲れてただけかもしれない」
「“たまたま”で火山みたいな攻撃を無視できるかっての」
黒瀬が笑う。だが、その笑みも長くは続かない。
凛がゆっくり立ち上がり、二人の間に視線を投げた。
「……無傷で勝つなんて、また伝説が増えたわね」
「伝説なんて、そんな……」
悠真は苦笑で返すが、凛の目は笑っていない。
彼女はタブレットを操作しながら、淡々と呟いた。
「もちろん、模擬戦やランキング戦は結界が張られてる。
どんな攻撃でも致死ダメージは無効化される。……でも、無傷はありえないの」
静寂が落ちる。
リーメイも黒瀬も口を閉ざした。
「普通ならね、結界の余波だけでも皮膚が焼ける。
それなのに、あなたの制服、焦げたところ以外ほとんど綺麗なのよ。
……まるで、炎のほうが“避けてた”みたい」
凛の声は穏やかだったが、教室で出された数式のような冷たさがあった。
悠真は小さく息を呑む。
(避けてた? ……炎が?)
喉の奥が、乾いていく。
その感覚を隠すように、悠真は笑った。
「考えすぎだよ、凛。たぶん結界のタイミングがズレてたんだ」
「そう、かもしれないわね」
リーメイが空気を変えるように笑い飛ばす。
「まあまあ! 勝ちは勝ちアル! 次は雷の子でしょ? 楽しみネ!」
「葛城颯真か。あいつ、反応速度エグいぞ」
黒瀬が言うと、悠真は短く頷いた。
「……わかってる。次は、ちゃんと“試す”よ」
その一言に、誰も返せなかった。




