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46 新たな生活(3)

それから数日、アリーシアは侯爵邸の生活に徐々に馴染んでいった。


執事の名はジーンといい、三人のメイドは水色の髪の娘がアン、青色がドゥ、藍色がトロワという。

そしてこの娘三人ともが執事の娘である。執事の妻はユーインといい厨房で料理の腕をふるっている。

長女であるアンには夫がいて、邸宅では庭師のほか力仕事などを一手に引き受けて勤めている。


誰もがその立場をわきまえ、職務に忠実で勤勉であった。


さすがにアリーシアも使用人であったころのように朝早く起きる事もなくなり、侯爵夫人としてのふるまいを身に着ける事に勤しんだ。


これが己に与えられた役割であり仕事であると固く信じて。


空いた時間には書庫で借りた歴史書を部屋で読み進めていた。

そうするうちに気づいたのは、最も知りたい情報が削除されているということだ。

だがこれだけの厚さをもつ上に数十巻にも及ぶ書物の校閲も完全ではなかったのだろう。ぽつぽつと単語を拾っていくとおのずと情報が浮かび上がってくる。


この世界で、常に氷に閉ざされ冷たい雪が吹きすさぶ国があるのだと。


その国を、冬の国という。


それ以外については特に際立った要項は見当たらなかった。


今読んでいるのは5巻目である。読み進めれば、また新たな事がわかるだろう。


次の巻を借りようと書庫室へ赴いた。が、今日は鍵がかかっている。

執事のジーンに尋ねると、今、邸宅の扉全ての鍵は侯爵が所持しているらしい。

とくに急いでいるわけでもないので食事のあとにでも閣下にお願いしてみよう、と考えて自室へと踵を返そうとした。すると執事が、旦那様は今は修練場にいますと伝えてきた。


修練場、と聞いてアリーシアは思い当たるものが脳裏に掠った。


そこが訓練する所であるのなら、もしかして他の傭兵の姿を見る事ができるかもしれない。


(たとえば、白銀の髪と、白銀の鎧を身にまとうような…)


抱える本をぎゅっと握り締めて、アリーシアは執事に修練場へ行けるかどうか尋ねてみた。

ジーンは快く頷いていそいそと案内をした。


修練場は邸宅を出て裏手にまわり、少し歩くと邸宅ほどではないが黒く硬い石で造られたそこそこの広さをもつ建物がある。その入り口は重たく黒い金属の扉があり執事がそれを難なく開けてアリーシアを促した。


中は想像以上に広く入り口から円形状の窪みがあり、そこで鍛えられた半裸に近い男性達が複数、剣をふるったりあるいは格闘しあったりとそれぞれに訓練をしている最中である。


その中央付近で侯爵が冷厳な面持ちで腕を組んでいる。


アリーシアは見渡したがあの白銀の甲冑に似た者は見当たらなかった。


そうすると距離があるのに、なぜか侯爵と目があった。

すると鋭い声で何かを発し、それから訓練していた男達がぞろぞろと建物の裏手の出口のほうから出て行った。訓練が終わったのだろうか。


振り返ると執事の姿はもうなかった。

侯爵を見やると、汚れたシャツを着替える為か半裸の状態になっている。

おずおずと歩み寄っていたアリーシアはわずかに息をのんだ。


鍛え抜かれた精悍な肉体のその広く大きな背中には十文字に切り裂かれたような深い傷跡があったからだ。その他にもこまごまとした傷跡がこの距離でも見て取れる。

羽織ったシャツの隙間から覗く腹部にも、やはり消えない傷跡が確認できた。


(これほどの傷を全身に受けていたとすれば閣下はこれまでどれほどの苦難を越えてこられたのだろう…)


わけもなく、胸がツンと痛んだ。


無造作に束ねられた髪を整え、レイムナートは改めてアリーシアを呼び、微笑みかけた。


本を借りるという些細なことで、大事な訓練を妨げてしまったのだろうか。

アリーシアは居たたまれず、瞳を伏せる。


侯爵は気にすることなく嬉しそうにその手をとった。


アリーシアが自分に会いに来てくれた、そんなささいな事でレイムナートの心は喜びで浮き立っていたのだ。


さすがに本の事をいきなり口に出せず、アリーシアはこの修練場について尋ねてみた。


貴族が傭兵を雇う事は少なくない。


特にエンド侯爵家のように辺境で害獣を駆除するような危険と常に隣り合わせのような任務についている場合は当然である。

前エンド男爵まではそうだったがレイムナートは一切傭兵の類は雇わず、この辺境の地域で暮らす若者を募って訓練をしているのだという。

害獣が出没する範囲は広く、そのたびに出動しても間に合わない事が多い。それならば民を修練したほうがずっと効率的だというのだ。

それは長期的な時間を視野にいれなければならないが成果は目に見えてあがり、今では数十日に一度程度の見回りだけで済んでいる。


アリーシアは静かに頷いた。


ほんの少し覗いただけだが、訓練されている者は誰もが鍛え上げられた肉体であり、そして怠ける者は一人も見当たらなかった。侯爵の教え方がとても上手いのだろう。


ふと脳裏に侯爵の精悍な肉体とその傷痕が浮かんだが眉根を寄せて、打ち消した。


目の前でレイムナートが心配した表情で覗き込んでいる。


(どうしてこんなにも後ろめたい…ばつの悪い気持ちになるのだろうか…)


アリーシアにはわからなかった。



気まずい気持ちをごまかすため、アリーシアは傍の台に置かれたクロスボウの方へ近づいてみた。


剣をふるう事はできそうもないが、クロスボウであれば扱えるかもしれない。

興味深く見つめるアリーシアの背後からそっとレイムナートが耳元で優しく囁く。


「やってみますか?」


アリーシアは振り向いて、こくりと頷いた。


クロスボウはその小さい手にはあまりにも重く、支える事さえ震えておぼつかない。

ボウが下がりそうになるのをレイムナートが背後から手を伸ばし軽く手を沿えて持ち上げた。


背中に男の硬い胸板があたるのをアリーシアは感じた。


吐息は耳元をかすり、指先は引き金をひこうとするアリーシアの小さい指を覆うように重ねられている。

息を整え、前方数十歩ほど先の的を狙う。


瞬間、強い腕の力がこめられて、まるで抱きしめられたような衝撃が身体中に走った。

放たれた矢は的を中央のわずか右にそれて打ち抜く。


クロスボウの重さは今はまるで感じない。打った衝撃で手が跳ね上がるはずが侯爵の大きく広い手が覆い、微動だにしなかった。


「上出来です」


穏やかにレイムナートが微笑みかける。


それまでアリーシアの眼には、クロスボウを打つというものはそれほど難しい事に見えていなかった。

だが実際にはどうだろうか。

侯爵の添えた手がなければ、自分は怪我をしていたのかもしれない。


何かしら少しでも、武芸を身に着けて役に立とうなどと甘く考えていた自分が恥ずかしい。


アリーシアは静かにクロスボウを元の場所へ丁寧に置いた。

白いまつげを伏せ、消沈したような面持ちにレイムナートは不安げに顔を覗き込む。


「アリーシア、どこか怪我でもしたのですか?」


どこまでも優しく気遣いに溢れたその声がアリーシアの胸にじんわりと広がっていく。

そうして、その広く節くれだった指先にそっと両手で触れて、白く小さな手の平で優しく撫でた。


「閣下の強さに、憧れたのです」


見上げるアリーシアの瞳は白く輝き、青と紫の光彩がまたたき白くすべやかな頬は薄紅色にほんのり染まって唇は薄く開き、柔らかい微笑みをたたえている。

はっ、と男の眼が見開かれ、一房の前髪がさらりと額にすべり落ちた。


震えるようにもう一方の手で、アリーシアの手を優しく包み込む。



アリーシアから触れられたのは、それが初めての事だった。


それは夢ではないかと思うほど、レイムナートは恍惚と陶酔で甘く酔い、頭の中は痺れるほどに眩暈がするようだった。そして確信した。


(彼女が私に心を開きかけている…!)



その日から、互いの距離がさらに近づいたのだった。

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