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厠の華子さん(6)

 今までになく厠全体が大きく揺れた。

「思ったより早かったわね」

 淡々と華子さんが呟く中、音にならない叫びが辺りに響き渡った。

 夜よりも濃い闇が厠の中に流れ込んできた。

 そして、腐臭が辺りに立ち込め、血生臭い臭いも立ち込めた。

 恐怖のあまり、雅琥はその場で腰を抜かしまった。けれど、恐怖に駆られてしまったのは雅琥だけではない。茜もまた床に崩れ落ちてしまった。

 闇の中から巨大な赤黒い手が伸びる。今まさにそれは茜を鷲掴みにしようとしているではないか!

「あたいの聖域で暴れようなんざ、いい度胸してるじゃないか!」

 姉御の声が響き渡った。

 口調の変わった華子さんはすでに柄に手を添え、床を蹴り上げ鬼の手に仕掛けようとしていた。

 抜きの一手が勝負。

 煌きを放つ華子さんの愛刀胴太貫!

 鮮やかに紅く彩られる世界。

 カチリと音を鳴らして、刀は鞘に収められた。そして、大きな音を立てて、巨大な手首が茜の真ん前に落ちたのだった。

 痛々しく呻くような声が厠を震わせ、巨大な木片が雅琥の頭上に落ちて来そうだった。しかし、うつむき震える雅琥は逃げようとしない。

「世話の焼ける子だねえ!」

 華子さんは疾風のごとくは速く駆け、雅琥の頭上に落ちようとしていた木片を微塵斬りにした。が、その不意を突かれてしまった。

 雲状の闇が華子さんの背後に音もなく近づき、そこから巨大な手が飛び出し華子さんの身体を大きく吹き飛ばしてしまった。

 その殴られた衝撃で華子さんの手から刀が離れ、床に落ちてしまったではないか!

「……っ」

 舌打ちをした華子さんに再び襲い掛かる鬼の手。

 かろうじて華子さんは攻撃を躱わすが、武器を失ったうえに、厠の中は狭い。

「ここじゃ蝶のように舞えやしない」

 鬼の本体は雲状の闇の中に隠れ、全身をまだ現してはいなかった。鬼もまた、巨大な全身を出してここで戦うのは不利と考えたのだろう。

 刀はうずくまる雅琥のすぐ横に落ちていた。ゆっくりと雅琥の視線は刀に向けられ、なにを思ったのか、雅琥はその刀を拾い上げた。

 ずっしりとした重さが手に伝わる。

 稲を植えれば、稲が育ち。恐れを植えれば、恐れが育つ。力の使い方を誤ってはいけない。

「さっさと茜を連れて逃げろ!」

 それは雅琥の声だった。今まで震えていた者の声とは思えない声。それを聞いた風彦は茜の腕をつかんだ。

「逃げるでござる」

「でも……」

 茜は雅琥のことを置いては逃げられないと思った。けれど、風彦は強引に茜の腕を引いた。

「狙いは稲葉殿でござる。逃げるでござるよ!」

 風彦と茜が厠の外に逃げ出したの見計らって、雅琥が刀を振り上げて鬼に向かっていった。

 巨大な鬼の手が襲い来る。

 雅琥は思った。

 ――そこにいるのは、ちょっと大きなプロレスラーだ。

 が、闇の中に光る眼を見た瞬間、雅琥に迷いが生じてしまった。

 鋭い爪が雅琥の胸に振り下ろされる。

 生暖かい鮮血が雅琥の顔を彩った。しかし、それは雅琥の血にあらず、華子さんの血であった。雅琥を庇うように抱きしめている華子さんの腕から血が噴出している。

「早くあんたも逃げな」

 華子さんは雅琥から刀を奪うと、雅琥の背中を押して厠の外に向かわせた。

 厠に残るは鬼と華子さん。

「さて、いざ尋常に勝負と行くよ!」

 と威勢よく華子さんは決めたが、鬼は華子さんに構うことなく厠の外に飛び出していった。

 しまった華子さん!

 誰かが言っていた――狙いは稲葉殿でござる。

 華子さんはすぐさま厠の外に飛び出して鬼の後を追った。

 鬼は厠を出てすぐのところにいた。そして、なぜか風彦たちもいるではないか?

「あんたらさっさと逃げたんじゃ?」

 華子さんの疑問に風彦が答えた。

「それがでござるね、厠を出てとたん、そこにばら撒かれていた赤ペンキに滑って転んでしまって、稲葉殿と六道殿は運悪く頭を打って気絶しちゃったでござるよ」

「それ赤ペンキじゃなくて、血よ。たぶんここに駆けつけた教員が食われでもしたのかしらね」

「ええっ!?」

 とわざとらしく驚いて見せる風彦にたいして、華子さんは鼻で笑った。

「蓮田風彦くん、二人が気絶したなら、そろそろ真剣になさったらどうかしら?」

「わかってるでござるよ。二人が気絶してくれたのは好都合でござった。本当はこの学園で一番安全な本尊に逃げようと思っていたのでござるが……ここでカタをつけましょう」

 風彦はいつの間にか眼鏡をはずしていた。

 雲状の闇の中から巨大な手が出た、足が出た、胴体が出た。

 醜悪な顔に付いた角と肉を食いちぎる牙。

 鬼の姿がそこにはあった。

 どこからか出る熱気を顔に浴びせられながら、風彦は髪をなびかせ鬼を見上げた。

「西洋ではこれを悪魔と呼び、東洋では鬼。見え方は人それぞれ、《向こう側》のモノを、こちら側に住んでいるモノが正確に〈視る〉のは難しい。同じ世界に住んでいるボクのことすら人間は正確に〈視る〉ことができてないというのに……」

 斬り落とされたはずの鬼の手首はすでに復元され、巨大な身体を揺らしながら鬼が風彦に襲い掛かってきた。

 衣が風に揺れるように、風彦は鬼の攻撃を躱わし、反撃に打って出た。

 鱗のようなものが付いた鞭状物体が風彦の手から放たれ、鬼の胴から肉を抉り取る。その攻撃は幾つの幾つも放たれ、鬼の肉を削ぎ落としていく。鬼はたまらず痛みに耐えかね、床に膝を付いて倒れた。

「……お……お腹痛くなってきちゃいました」

 そして、風彦もまた地面に崩れ落ちた。

 その様子を見ていた華子さんは微笑を湛えた。

「不条理だわ、この世界は不条理に満ちているわね。あるときは魔導学園学生、あるときは公儀隠密、あるときはハスターの末裔。そのあなたがたかが腹痛に倒れるなんて、不条理だわ」

「だめです……申し訳ない……お腹痛くて戦えそうもありません」

 バタンと音を立てて風彦はうつ伏せに床に沈んだ。そこ口元からはうめき声が聞こえてくる。本当にお腹が痛くて死にそうだ。

 情けなすぎる風彦。

 そんな風彦の代わりに華子さんが刀に手をかけた。

「仕方ないわね、わたくしが殺るわ。これでもこの学園の守護神ですもの。ところで、なぜ鬼さんは、そこにいる茜ちゃんを狙っているのかしら?」

 華子さんの視線が床で気を失って倒れている茜に向けられた。すると、今まで一言しゃべらなかった鬼が、野太い声で人語を話しはじめたではないか!?

「我、ソノ娘、先祖、使役サレタ」

 片言の日本語に生き絶え絶えで真っ青な顔をしている風彦が補足をした。

「つまり平安時代、稲葉家のご先祖様がそこにいる鬼を使役してこき使っていたので、その仕返しに来たそうです。ちなみに、稲葉殿のお父上が謎の病によって床に臥してしまったのも、その鬼の呪のせいですよ」

「なるほどね。この鬼を退治すれば茜ちゃんのお父上のご病気も治るってことね」

 鬼の手が振り上げられ、華子さんの頭上に落とされる。だが、華子さんは蝶のように華麗に舞い、芳しい花の香りを振りまきながら、鮮やかに美しく鬼の攻撃を躱した。

 紅い蝶の舞う黒地の着物が揺れる。

 そして、舞い踊る華子さんが煌きを放つ。

「華月流――華蝶風月!」

 一刀の煌めきが三日月を描くように繰り出され、華やかに美しく血の華を咲かせた。

 真っ二つになり、もがき苦しむ鬼の前に腹を押さえる風彦が立つ。

「再び地獄に堕ちるがい……痛い、お腹痛くて死にそう……」

 風彦の声とともに風が吹き荒れ、空間を切り裂いた。

 裂けた空間はこの世界と《向こう側》を繋ぎ、空間からは悲鳴が、泣き声が、呻き声が聞こえ、どれもが苦痛に悶えていた。

 そして、鬼は《向こう側》へ堕ちて逝った。リンボウに堕とされた鬼は二度とこちら側にやって来ることも、勧誘してくることもないだろう。

 一件落着というように風彦と華子は互いに向かい合った。しかし、まだ終わりではなかったのだ。

 華子さんが風彦を見つめ、無邪気に微笑んだ。

「さて、邪魔者のもいなくなったことだし、わたくしとお遊びしてもらいましょうかしらね」

「それが召喚の代償ですか?」

「そうよ、わたくしがあれを退治してあげたのだのだから、代償を払って頂戴」

「いいでしょう、望むところです」

 対峙する二人は互いに牽制し合い、構えを取った。

 そして、華子さんが聞く。

「ところで風彦くん」

「なんですか?」

「茜ちゃんにほの字でしょ」

「な、なにを突然!?」

「ま、いいわ。いざ、尋常に勝負!」

 取り乱す風彦をよそに華子さんの鞘から煌きが放たれたのだった。


 前髪と眼鏡で目元を覆い隠し、黒い影を背負う幸薄そうな少年――蓮田風彦。

 彼は自宅の廊下を這うよう歩いていた。

 風彦は歯を食いしばり、片手は腹部を押さえている。もう言うまでもない。

 「ちぬ……お腹……痛くて……死にそう」

 ――腹痛だった。

 昔から身体が弱く、特にお腹はしょっちゅう壊している風彦だが、あの一件からは特に虚弱体質が悪化しているようだ。

 厠の前に立った風彦は、苦痛で震える手を押さえながら、ドアを三回ノックした。

 ――返事はない。

 誰もいないことを確認した風彦は勢いよくオープン・ザ・ドアした。

「きゃ〜〜〜っ!」

「ぎゃ〜〜〜っ!」

 家中に響き渡る女の叫び声に仰天した風彦は腰を抜かして床に尻餅をついた。

 厠の中には先約がいたのだ。

「ふふ、冗談よ。それより漏らしてないかしら、大丈夫?」

 と冷たい水のような声が厠の中からした。

「大丈夫でござる。倒れる瞬間にキュッと絞めたでござるよ。そんなことより、どうして華子さんが、拙者の家の厠に?」

「さあ、どうしてかしら?」

 意味ありげに華子さんは朱唇を吊り上げた。

 厠の中にいたのは、なんとあの華子さんだったのだ。しかも、なぜか手には欧米渡来のティーカップを優雅に持っている。

 便器には座っているが下着を脱いでいる様子もなく、用を足していたのではないことは一目瞭然だった。

 では、なぜここに?

 華子さんは音も立てず軽やかに、気品よく便器から立ち上がった。

 そして、濡れた唇が玲瓏たる声を響かせた。

「しばらくの間、この厠に棲まわせてもらうわよ」

「へ?」

 風彦は目を丸くした。目は前髪で隠れているので、外からは表情が変わっているように見えない。だが、風彦は心底驚愕した。そりゃもう、チョービックリって感じ。

 蒼白い顔がぬっと風彦の眼前に迫った。

「聞こえていたでしょ?」

 深さのある黒瞳で見つめられた風彦は瞬時に視線を逸らした。前髪があっても、華子の瞳だけは長く見ていられない。この瞳には底知れぬ力があるのだ。

「聞こえていたでござるが、どうして拙者の家の厠に?」

「仕方がないでしょう。学園の厠が、あんな風になってしまったのだから、ね?」

 淡々と語る華子は月のような白い顔に紅い唇を浮かばせて嗤った。

「それに、あのときの勝負、勝ったのは――。だから、あなたに一生取り憑かせてもらうわ」

「そ、そんなぁ」

 華薫る中、風彦の情けない声が虚しく響いては消えた。

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