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厠の華子さん(3)

 夕焼けの差し込む教室。

 世界は朱色に染まり、その中で二人の女子は妖しげな儀式に勤しんでいた。

 二人とも学園指定の巫女装束に身を包んでいる。

 ひとりは千早と呼ばれる貫頭衣を着て、下には切袴と呼ばれる少し短めの袴を紅色に染めたものを穿き、上下ともにきっちりとした本来の着こなしをしている。

 もうひとりはイマドキの女学生らしく、切袴の裾を膝上よりも高く上げ、過去に流行ったと云われるルースソックスをアレンジしたルーズ白足袋を履いている。

「召喚術やりたいって言い出したのはあたしだけど、マジやることないんじゃない?」

 イマドキの女学生――茜は、魔導書を片手に儀式の準備をする少女に申し立てをしたが、声をかけられた少女は淡々と儀式の準備をしている。

「ワタシもしたいと思っていたところだから、ちょうどよかったの……」

「だからって……」

 茜は難しい顔をして口を噤んだ。

 午後の召喚実習で失態を犯してしまった茜が、友人のあさみに『笑った奴らを見返してやりたい』と言ったのが事の発端だった。茜の言葉を聞いたあさみは不気味な笑みを浮かべて、召喚術の練習をする運びになったのだ。

 教室にあった机はすべて後ろに下げられ、空いた半分のスペースに儀式の用意がされている。

 赤いクレヨンによって茶色い木の床に魔方陣が描かれていく。

 どことなく鬼気を発している友人あさみの背中に、茜は恐る恐る声をかけた。

「あさみ、やっぱりやめようよ。それにここ召喚実習室じゃないし、なにかあったら危ないよ」

 声をかけられたあさみは作業を一時中断し、物静かな顔をして振り返った。

「もう少しで終わるから、心配しないで、ね?」

 物静かなあさみの笑み。その笑みを見た茜はなぜかゾッと背筋が冷たくなった。

 西洋式の魔方陣を描き終えたあさみは静かに立ち上がり、辺りの気配を探る。

「ミサキ風が吹いた」

 誰もいない場所でなにかの気配を感じ、寒気などを覚えることを『ミサキ風にあった』などと表現するのだが、ミサキとは本来『前触れ』や『予兆』を意味する言葉で、ミサキという小さな霊が現れると、その後に大きな祟りや災いを連れて来ると恐れられているのである。

「ミサキ風?」

「いいの気にしないで、茜はワタシの召喚の仕方を見て学んでいればいいから、ね?」

「……そう」

 召喚術をやりたいと言ったのは茜だが、準備を進めるのはあさみで、茜は立っているだけでなにひとつやっていない。手伝おうにも、黙々と準備を進めるあさみからは手伝わせない雰囲気が出ていた。

 なにも手伝うことのない茜がすることといったら、場が静まるのが嫌であさみに時折、話しかけることくらいだった。

「ねえ、これって西洋魔術だよね。なにを召喚しようとしているの?」

「鬼」

 あさみは短く発し、鬼という言葉を聞いた茜は少し戸惑いを覚えた。

 床に描かれた魔法陣は、どう見ても西洋式の召喚法に用いられるものであった。それにたいして、鬼を召喚するとは、いったいどういうことなのだろうか?

「ねえ、あさみ。西洋式の召喚法じゃ鬼は召喚できないんじゃないの?」

「手順も方法もそれほど重要ではないの。ワタシがもっと高位の使い手だったら道具を使わずに召喚し、使役することだってできる。ワタシは東洋より西洋魔術のほうが得意なの。だから、この方法でやっているだけ」

「よくわからないよ」

「召喚は成功するわ。過程より結果が重要なの」

「……うん」

 この学園は霊的磁場の高い場所に立てられたために、放課後の教室はなにかが起こりそうでただでさえ怖いのに……。

「あさみちょっといつもとなにか違くない?」

「なにがかしら、ワタシはいつもと同じよ?」

 違う、なにかが違う。いつものあさみとはなにかが違う。そう思いながらも茜はあさみが準備を進めるのを見ていることしかできなかった。

 だんだんと茜は口も減り、寒気が全身を襲いはじめた。

 これははたして寒気なのか、恐怖なのか?

「どうしたの茜?」

「ううん、なんでもない」

「いつもの茜らしくないわね」

 それはこっちのセリフだと茜は言いたかった。

 どことなく暗い雰囲気を持っているあさみにたいして、茜は気後れすることなくいつも明るい態度で接している。しかし、今はどうだ。完全に相手の陰の気に押されているではないか。

 夕焼けが地に沈む。

 夜闇が刻淡々と訪れようとしている。

 蝋燭に火を灯し、香を焚いたあさみは、静かに目を閉じて呪文を唱えはじめた。

 力を持った言葉が室内に反響し、茜の耳の中でも木霊する。

 背中に冷たい汗をかき、茜はここから逃げ出したい気分だった。しかし、恐怖が彼女の縛りつけ、茜は震えることはできても、逃げ出すことはできなかった。

 しばらくして、あさみが呪文を唱えるのを止めた。

「すぐそこまで来ているわ。長かった、本当に長かったわね。いくつもある地獄の層を登り、すぐそこまで来た。空間の壁が弱くなっている今なら、あちら側から鬼門を開くことができるわ」

「あさみ……なにを言ってるの?」

「開くわ」

 静かに扉は開かれた。

 じめじめした風と一緒に、重々しい影が室内に入ってくる。

 茜は唾を呑み込み、影から目を離せなくなっていた。この世ならぬモノの気配を感じてしまったのだ。恐怖のあまり声も出ない。

 影が震えた声を発した。

「あ、あのぉ〜、お取り込みのところ申し訳でござる」

 声が震えているのは恐縮しているからだった。

 茜はこんな情けない奴、一人しかいないと思い、その名を呼んだ。

「蓮田くん?」

「は、はい!?」

 身体をビクつかせ、蓮田風彦は宙にジャンプした。

 開かれた扉――教室の戸を開けて入ってきたのは風彦だったのだ。

「あ、えっと、ちょっと忘れ物を取りに来ただけでござるので、すぐに、で、出るでござる」

 ものすご〜く申し訳なさそうに身体を小さくして、風彦はゴキブリのようにサササッと動き、自分の席に忘れていった下痢止めの薬を取ると、サササッと教室から出て行こうとした。

「では失礼したでござるぅ……あれ? あれれ、開かない?」

 風彦は取っ手に手をかけて戸を開けようとしたが、うんともすんともビクともしない。

「ここの扉って鍵があったでござるか?」

 顔を向けられた茜はばからしいと言わんばかりの顔をして、

「そんなのあるわけないじゃない」

「そうでござるよね」

「開かないなんてことがあるわけないじゃない」

「でも、開かないんでござるよねぇ」

 苦笑する風彦を急激な悪寒が襲い、腹の虫がぐぅと奇声を発した。

 腹痛に襲われた風彦は床に膝を付き、腹を押さえながらも必死に声を絞り出した。

「この部屋には陰気が漂っているでござる。早くこの場所を離れたほうが……」

 実は、風彦は邪気を感じると腹痛を起こす特異体質だったのだ。

 呪術に使う短剣を持ったあさみが膝を付く風彦に近づく。その顔は鬼気に満ち溢れていた。

「もう遅いわ。そして、不運にもこの場に居合わせてしまったあなたにも……」

 風彦の頭上に短剣が振りかざされた。

「あさみ、なにするの!?」

 友人が人を刺そうとしている!?

 止めなくてはいけないと思った。けれど、身体が動かない。

「蓮田くん!」

 茜の叫び声とともに、風彦が動いた。

「御免、白衣霊呪縛!」

 風彦が着物の懐から経典らしき物を取り出した刹那、折りたたまれていた経典が蛇腹状に開き、鎖のようにあさみの身体に巻き付き縛り上げた。

「くっ、なにをする小僧!」

 あさみの口からあさみの声ではない別の女の声がした。それを聞いた風彦は確信したように頷いた。

「ふむ、新垣殿は憑かれてるみたいでござるな――悪霊に」

「くくくっ、そのとおりだ。この娘の身体は今や私のもの」

「わかってるでござるよ。……だから除霊させてもらうよ」

 誰知れず気を孕んだ風が吹いた。

「ただが魔導学園の生徒ごときが私を祓うだと?」

「たかが低級霊ごときを祓うなど造作もない」

 流れる映像でも観るかのように、茜は一部始終を整理しきれていない頭で眺めていた。今わかることは、あさみがいつものあさみじゃないことと、風彦がいつもの風彦じゃないことだ。

 そういえば、風彦はいつもかけている牛乳瓶の底みたいなレンズの眼鏡をかけていない。前髪で目元を隠してしまっているので、いつもとさほど変わらないが、もっと根本的な部分でいつもの風彦と違うような気がする。いつもはもっと陰湿で人としゃべるのが苦手で度胸もない。

 でも、今の風彦は?

「貴様の身体を縛っているのは白衣神咒。一字一句に霊を封じる力がある除霊専用の経文のようなものだ」

「小僧、早く私を解放しろ!」

 経典に縛られた身体を動かそうとするが、思うように身動きが取れない。憎悪に顔をゆがませ、あさみが歯を鳴らしながら風彦を睨んだ。

 いつも猫背の風彦が今は背筋を伸ばして立っている。意外に長身で、普段はやせ細っているようにしか見えない身体が、スリムに綺麗に見える。

 今の風彦はいつもと違ってカッコイイ――そんなことを思いながら茜は少し顔を赤らめ、ばからしいと思って頭を振って気を取り直した。

 前髪で目元を隠し、唯一風彦の表情を読み取れる口元が緩んだ。

「仮初の客を相手している暇はない。南無大慈大悲救苦救難……」

「くっ、くわぁっ!?」

 風彦が呪文を唱えはじめてすぐ、あさみの身体からなにかがすっと抜け、巻きついていた経典が消え、力を失ったあさみは崩れるように床に倒れた。

 そして、風彦もまた、力を使い果たしてしまったのか、床に膝を付いて倒れてしまった。

「大丈夫、二人とも!?」

 すぐに駆け寄って来た茜に、最期の言葉かのように風彦が喉の奥から声を発する。

「……お、お腹痛くて死にそう」

 持病の腹痛が再発したのだ。

「やっぱカッコ悪……蓮田くん」

 一〇〇年の恋も醒めてしまうような感じだったが、それでも友人のあさみを助けてもらったこともあるので、床に膝を付いて風彦の身を案じようと手を伸ばした瞬間だった。

「ぐはーっ!」

 真っ赤な血飛沫が風彦からほとばしった。

「どうしたの蓮田くん!?」

 まさか、風彦の身体に悪霊が!

「パ、パンツ見えているでござるよ」

「は?」

 風彦から出た血は、極度の興奮による鼻血だったのだ。

 沸々と湧き上がる怒りが、今、拳に宿る!

「ふざけんな!」

 茜パ〜ンチ、炸裂!

「ぐはーっ!」

 再び風彦の鼻からほとばしる鼻血。

 放物線を描いてぶっ飛ばされた風彦の身体は、床にドスンと落ちてノックアウト。口から泡を吐いて、身体を痙攣させている。

 一発KOウィナー茜!

 カンカンカンカンと終了のゴングが風彦の耳には聞こえた。もちろん幻聴。

 怒りを拳に込めて放出させた茜は、すぐに冷静さを取り戻し、そのことによって混乱してしまった。

「だ、大丈夫、蓮田くん!?」

 気絶した風彦に駆け寄り、茜は彼の頭を抱きかかえた。

「しっかりして、殴っちゃったのは、つい出来心で悪気あったわけじゃないの……あれ?」

 ――眼鏡をかけている。

 さっきまで眼鏡をかけていなかったはずの風彦が、いつの間にか眼鏡をかけている。

 眼鏡の奥に隠された素顔を見たい。そんな衝動になぜか茜は駆られ、風彦の眼鏡に手を伸ばした、そのときだった。

「……お……おっ……」

 風彦の口元が微かに動いた。意識を取り戻したのか?

 なにかをしゃべろうとしている風彦の口元に茜は耳を近づけた。

「お、お腹……痛い……死にそう」

「は?」

「危ない……早く逃げるでござる」

「えっ?」

 茜には風彦の腹痛の意味がわからなかった。邪気を感じると腹痛を起こす特異体質。そのことを茜は知らない。

 ミサキ風が吹いた。

 空間が《向こう側》から破られる。

 音にならない悲鳴がどこからか聞こえ、茜はわけもわからず両耳を強く塞いだ。

 鬼門が無理やりこじ開けられたのだ。

 紅いクレヨンで描かれた魔法陣の真上になにか巨大なモノが現れた。

 それは巨大な手だった。

 赤黒く筋肉質な手に肉を引き裂くための鋭い爪が生えている――鬼の手だ。

 鬼気が吹き荒れ、人間など一掴みにしてしまう巨大な鬼の手が、恐怖のあまり身動きできない茜の身体に伸ばされた。

「いやーっ!」

 絶鳴が木霊した。

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