第一章 謎の住人玄さん①
玄さん登場です。ここからが本番。奈緒が主体の物語の始まりです。
--新しい生活。
奈緒は心を弾ませていた。
この日を指折り数え待っていたのだ。
折り合いが悪い母親から脱出。父親の悪態も見ずに済む。それを考えただけで、顔がにやけてきてしまう。
生活はぎりぎりだろうけど、今まだって裕福にしてきたわけじゃない。それにここなら.かなで達を気兼ねなく呼べる。
古くて狭い部屋だけど、充分に奈緒の心を満たしてくれるものだった。
奈緒の住む街には、不思議な人が住んでいる。
毎日、グレーのチェック柄のシャツとどこかの工場の帽子。笑うと前歯が何本かない。見るからに怪しいおじさんが、道端で簡易的な店を開いているのだ。
奈緒は、その人を密かに玄さんと呼んでいる。
なんとなく玄人っぽいから、玄さんだ。単純すぎるけど結構自分ではナイスなネーミングだと思っていたりしている。
週末、一緒に過ごしてくれる人もいない奈緒は、手作りのドレスに身を包み、部屋を出る。
誰に何を言われても、この趣味だけはやめられない。
道を挟むように立ち並ぶ団地。その敷地内に作られている公園を歩く。
木々に囲まれ薄日しか入らない道だけど、奈緒は、この道を歩くのが好きだった。
少女漫画のヒロインになったような、気分に浸れるからだ。
所々に設置されている、木のベンチ。
のんびり、犬の散歩していくお年寄り夫婦。
どんぐりや木の葉を拾っては、嬉しそうに母親へ渡す、少年。覚えたての自転車を、漕いでいく少女。その後を追いかけていく父親。すべて、奈緒が憧れていた物ばかりが、この公園には詰まっている。
そして――。
「おおねぇちゃん。別嬪さんだね」
そう言って、いつものように自転車のパンクを直す玄さん。
会社の近くという理由だけで、いくつかの部屋をピックアップし、下見に歩いていた。
この場所は三か所目だった。
あの日も薄日が差し込むだけで、少し危険かな。と思いながら奈緒は、子供の笑い声に誘われて、この公園へ足を踏み入れていた。
公園と公園の間にある道路。
そこが、玄さんの店がある場所。
店と言っても、ビニールシートを一枚広げただけで、段ボールに自転車修理。刃物とぎと書いておかれているだけ。しかも、人の通りがあまりない、一番端っこの場所で広げられている。
その日も、今と同じように店を広げた玄さんが、奈緒に声をかけてきた。
「ねえちゃん、どこの人だい」
この玄さん、なかなかのもので、ここら辺を歩く人の顔を覚えている人らしい。
急に声を掛けられた奈緒は面を食らって、何も言わずにその場を立ち去ろうとしていた。
「ここら辺で悪さ、すんなよ。おいら、ここいらでは顔が利くからな」
そんなこと言って大丈夫なのかしら。
顔を赤くした奈緒は、そんなことを思いながら振り返った。
「おじさんこそ、怪しいんじゃありません。ここでの営業、許可されていないでしょ。何なら私、管理人に聞いたって構わないのよ」
今思えば大胆な行動だったと、今では反省をしている。これが暴力行使の人だったらと思うと、後で背筋が寒々とさせられてしまうが、もしかしたら、この街の住人になるかもしれない奈緒としては、忠告の一つでもしてやらないと、気がおさまらなかったのだった。
「随分と鼻柱がつえー御嬢さんだな。気に入った。いつでも話においで。暇はたくさんある。愚痴でも悩みでも何でも聞くぜ。おいらは」
「ああ居た居た。おじさん、この自転車、直してください」
子供用自転車を引っ張ってきた女性に話を中断され、それっきり名前を聞き損ねている。
それがここへ住むきっかけになったのは確かだった。




