終章③
商店街とは反対方向に自転車を走らせ、国道を渡る。
閑静な住宅街を抜け、隣町の駅が見えた。
明日歩はアイス屋の看板を探す。
「父ちゃん、店ってどこ?」
「うん。そこの角を曲がればすぐだ」
自転車は角を曲がってすぐ、ブレーキをかけらる。
その瞬間、明日歩は躰を固めてしまう。
明石道場の、道場の文字は前にも見た事がある。
歩はそんな明日歩を抱きかかえたまま、中に入って行く。
「こんちは!」
歩が声を張り上げると、しーんとした道場に響いた。
「うちに何か御用ですか?」
後ろから話しかけられ、振り向くと怖そうな口ひげを生やした、老人が立っていた。
「すいません。練習を見学に来たんですけど」
老人はぼうぼうの眉毛を、ぴくりとさせると、二人を中へ通した。
「もうじき、小学生達が来ますから、そこで待っていてください」
明日歩に笑いかけるが、明日歩には恐怖にしか感じられずに歩の陰に隠れた。
小学生の元気な声が、ビリッとした道場に響き渡って行く。
あの老人の目つきも変わり、指導する声は獣のように、明日歩には聞えた。
来てはいけない所に来てしまった。と悟った明日歩は、歩の袖を引張っる。
「明日歩、日本人男子と言うものは、こうでないとな」
歩は感動しきっていた。
一通り稽古をつけ終わった老人が、歩たちの傍にやって来た。
「どうなされます?」
老人の目がキッと、明日歩を捕える。
明日歩は首を大きく横に振って、嫌がった。
「一度、竹刀を持たせてもらっていいですか?」
「構いませんが……。おい、隆、おまえの竹刀をちょっと貸してくれ。それと……杏子、おまえこの子の相手をしてやれ」
明日歩の意志に反して、事態は悪化している。
無理やり竹刀を持たされた明日歩は、手厚く構えや振りを老人に教わり、見よう見まねで構えた。
「始め!」
老人が叫ぶと、相手に杏子が竹刀を振りかざしてきた。
怖い。
明日歩は泣きながら必死で杏子の竹刀を振り払う。
道場の端まで行って、老人はやめっと言う。
ほんの数秒だったが、明日歩には何時間にも感じた。
「この子は素質がある」
老人の目が垂れさがり、優しくなっていた。
その根拠は何だと聞きたかったが、明日歩にそんな度胸はない。歩は嬉しそうにそうですかと、稽古に通わせる約束をしてしまう。
家に帰ってきた明日歩を見て、奈緒は驚く。
とても五歳児には見えない暗さを漂わせていた。
「明日から道場通いだ。な、明日歩。おんなの子になんか負けていられないよな」
歩は嬉しそうに、奈緒に報告する。
奈緒は少し心配になった。
翌日、明日歩は仮病を使った。
幼稚園だけでも試練が続いているのに、あんな危ない競技を習いに行くなんて考えられない。
が、歩はそんなのが通用する相手ではない。
ニコニコとお腹が痛いと言えば、トイレに行って来いだし、頭が痛いと言えば、おまじないを掛けて、気合で吹き飛ばせ。と聞き入れてもらえない。
「スポーツって最初はつまんないと思っていても、出来るようになって来ると、楽しいもんだ。明日歩も、ちょっと頑張ってみろ。そうすれば楽しくなるから」
歩は毎回、そう言って聞かせた。
満更嘘じゃないと思ったのは、道場に通いだして一年後だった。
明日歩は剣道に向いていると師範が言ったとおり、めきめきと腕を上げだす。
富山杏子とも対等に戦える。
歩も一安心する一方、奈緒は心配で仕方ない。
仕事の都合で送り迎えが出来なくなった歩に代わって、奈緒と電車で通うようになっる。
その頃からだった。明日歩の様子がおかしくなったのは。
最初は気にも留めなかった奈緒だが、明日歩が決まって熱を出す日が、稽古のある日だと気が付いたのは、昨日の事だった。
何気にカレンダーを捲ってみると火曜日と金曜日。
やはりと、奈緒は思う。
「ねぇ、歩。明日歩の剣道、辞めさせない?」
仕事から帰って来るなり、奈緒は歩に提案した。
「明日歩がぐずっているのか?」
「違うわ。あの子は頑張っているの。昨日も師範に褒められていたし」
「じゃあ、何で?」
奈緒は暗い顔をする。
「あの子、無理をしていると思うの。最近食欲もないし、熱がね、大した事じゃないんだけど、よく出すようになって……。お医者様はどこも悪くないって。考えられるのは精神的なものじゃないかって、言うのよ」
奈緒はカレンダーを歩に見せる。
「これね、明日歩が熱を出した日なの。微熱だから、本人も稽古に行きたがるし、連れて行ってたけど、殆どが稽古の日なのよ」
「精神的なもの?」
奈緒は頷く。
「明日歩、話があるんだけどいいかな?」
歩は起きだして来た、明日歩を膝の上に座らせた。
「あのさ、剣道辞めるか?」
歩は試しに訊いてみた。
明日歩は一瞬、驚いたように動きが止まり、歩の顔を見上げる。
「オレの事は気にすんな。おまえの気持ちを、正直に言ってごらん」
明日歩は口を真の一文字に結んだまま、しばらく何も喋らなかった。
「どうした?」
歩が訊くと、明日歩の顔が見る見る崩れ、ビエーンと大きな声を上げだす。
理由は分からないが、明日歩に負担が掛かっていたのは確かだった。
惜しむ師範に頭を何度も下げて、歩は剣道を辞めさせた。
がっかりしていたのは束の間だった。
今度は切実な問題で、二人は明日歩に嘘を吐く。
もうじき小学生になろうとする子が、頭を洗うたびに近所に響くような声で泣くのは、深刻な問題である。
学校の授業には水泳がある。
幼稚園の水遊びとは桁が違う。
明日歩もだいぶ知恵が付き、慎重に連れ出さないと簡単に見破られてしまう。勘が鋭くなっている。剣道をたしなんだせいで、その嗅覚はやたらに鋭い。
静岡のおばあちゃんに会いに行こう。と明日歩を車に乗せ、急に思いだしたように、奈緒が駅前のショッピングモールに寄って。と歩に頼んだ。
「グルグルと遊園地みたいね」
奈緒は明日歩に話しかけた。
明日歩は満面の笑顔で頷く。
歩はバックミラーで、様子を伺う。
車を降り、すぐにエレベーターを呼ぶと、歩はニッコリと明日歩を抱き上げ、近くに停めてあったカートに座らせる。
チン。
エレベーターが開き、明日歩は息を止める。
想像していたおもちゃ売り場でも雑貨売り場でも、ましてや食品売り場でもない。
ガラス張りにされて、プールが展望できるようになっている。ベンチが何個か設けられ、入り口にはカウンターがあり、ラフな格好をした若い女性と少し年季が入った女性がニコニコと挨拶する。
「こんにちは」
奈緒は二人に何か話しに行く。
歩は逃げようとする明日歩を押さえつける。
「大丈夫。すぐに体験させてくれるって」
奈緒が戻ってくるなり、歩に言った。
明日歩は、体験と言う言葉にビクンと反応する。
聞き覚えのある言葉だ。泣きながら竹刀を振り回した苦い経験が、頭に浮かんだ。
「駄目。ダメダメダメ。そんな事をしたら、溺れて死んじゃう」
明日歩は絶叫した。
ベンチで練習を見ている人がこっちを見て、笑っている。カウンターの二人も笑いを堪えきれずに、グググと下を向いてしまう。
「馬鹿。溺れない為に、ここへ来たんだ」
歩はガラス越しのプールを、明日歩に見せる。
「オレは柔道や空手、出来れば剣道をもう一度やったほうが良いと思うけど、奈緒はおまえの将来には水泳だって言うんだ」
明日歩は奈緒の方を見た。奈緒が珍しく怒った顔をしていた。
「どうする? 決めて良いぞ明日歩が」
半べそをかきながら、明日歩は水着に着替えた。
更衣室からプールに続く階段は、滑り台の階段と同じくらい怖かった。
泳ぐ前から明日歩の唇は真っ青になっていた。




