終章①
――春一番は吹き抜け、暖かな日差しに包まれて小さな男の子が産声を上げた。
この日を待ちに待った歩は、嬉しくて仕方がなかった。
薫子の口利きで、歩は総合病院で警備員として働かせてもらっている。
本当は、この病院で産む予定じゃなかったが、少しばかり余病が見つかってしまい、こちらでお願いすることになったのだが、歩にとっては、有難い話だった。
余病も、無理をしなければ命に別状ないもので、少し、入院が長引くだけのもの。
勤務地であるこの病院なら、歩も目が行き届く。
一人、ニヤリする歩だった。
オレは警備員。これは見回り。これは仕事。辺りをキョロキョロ見回す。皆、仕事にかまけて見ていない。よし。歩はさっとドアを開け中へ。
「コラ! また仕事をサボって! ダメでしょ!」
背後から叱られ、歩は小さくなって振り返る。
看護士姿の薫子が腰に手を当て立っていた。
「ダメじゃない。勝手に持ち場を離れちゃ。ここを紹介した私の顔を潰す気?」
「だって……」
「だっても、へったくれもない。さ、帰った帰った」
歩は薫子に背中を押され、病室を追い出されてしまった。
「奈緒。また後で来るから」
「来なくてよろしい!」
薫子がぴしゃりと言うと、ドアを閉めた。
奈緒の横で、すやすやと可愛らしい男の赤ちゃんが寝ていた。
「目と鼻が歩にそっくり!」
「ええ。ハンサムさんになりそう」
薫子はここの病院の看護士をしている。
夜勤明けで着替える時間がもどかしくて、その足で病室にやって来ていた。歩のことを言えた義理ではない。二人は見合ってぷっと吹き出してしまう。
昼休み、帽子を取った歩は堂々と病室に現れる。
君江が椅子に座り赤ん坊をあやしていた。
「いらっしゃい。ほら、パパの登場ですよ」
歩は照れくさそうに笑う。
とにかくこの病室は賑やかだった。見舞いの客が多い。入れ替わり立ち代りで大部屋から個室へ移されてしまった。
歩が病室で買ってきたパンを齧っていると、ひょっこりと野村が顔を出す。後ろには愛娘の瑠夏も一緒だった。
「やっぱり、うちの劇団に戻ってこない?」
野村の真剣な眼差しに、歩は苦笑しながら断ると、今度は難しい顔をする。
「失敗だ! 手放すんじゃなかった」
「どこまでが芝居で、どこまでが本気なのか分からないな」
歩はぼやく。
「自分の胸に聞け」
そう締めくくるが、野村にとって無論、全部本気だった。制服姿の歩なんか見たら余計に思ってしまう。実際、病院の中にファンがいるのも知っている。
奈緒が申し訳なさそうな顔をしているのに気が付いた歩。
「気にするな」
そう言いながら、野村を睨む。
「仕方がない。この子で手を打ちましょう!」
野村はそう言いながら、寝ている赤ん坊に唾をつける真似をして見せる。
「あなたたち、見舞いたいのは分かるけど、お産の後は休養も大切なのよ。さ、そろそろお帰りなさい!」
君江は大騒ぎをしている男どもを追い出す。
瑠夏に赤ん坊を抱かせてあげる。
「パパね。おじちゃんのことが大好きだから、ずっと言ってあげるんだって」
愛くるしい笑顔に、奈緒は頷きながらありがとうと言う。
「あの馬鹿息子は幸せね。皆から支えられて。こんな可愛らしい赤ん坊まで授かって」
君江は赤ん坊の頬を突っつき、その小さな手で指を握られ、目を細めた。
――退院の日、身支度をしていると病室のドアが勢いよく開く。
奈緒と君江は一斉にしっと指を口の前に立てて歩を叱った。
「何だ、母さん来てたんだ。奈緒、名前、考えたぞ!」
歩は、じゃじゃじゃーんと嬉しそうに手に丸めて持っていた紙を広げる。
「命名 中田明日歩」
「どうだ! いい名前だろう? 明日、歩むであとむ。明日歩。これでヒーローになれるぞ!」
「歩ったら」
誰もが、明日歩の誕生を喜んだ。
本当は、玄さんにも見て欲しいのだが、行方知れずのままだった。
元気にしていればいいけど。
くじけそうになると、いつもあの笑顔を思い出していた。
大事にしまわれてある、こけしとブローチ。
奈緒の病気が発覚した時、このお守りにどれほど救われたか。
玄さんに会って、お礼を言いたい。
そして、二人がどんな思いでこの名前を付けたのかを話したい。
今日がダメでも明日に向かって歩き出せる。そんな子になって欲しいと願いが込められていることを。




