第六章 きみ、大志を抱け②
しばしの沈黙が二人の間に流れる。
店内は、子連れやら友達同士やらの声で、騒々しいくらい賑やかだったはずなのに、まったく二人の耳には入っていなかった。
「奈緒さんよ。別れちまうのは早すぎると、俺は思う」
「でも……」
一度開きかけた口を閉ざす奈緒を見て、中島は自分の携帯を目の前に差し出した。
それは歩が稽古をしている姿だった。
「結構マジだろ。ここまで出来るって。俺ら、実は思っていなかったんだ。確かに面白い奴だから、どうなるんだろうって楽しみは有ったんだけどな。だけど、これってみんなあんたの為であって、俺等が望むものとは全く違う、違うんだ。あいつは、歩は、きっとそう言う男なんだ。自分の為とかだとからっきしのくせして、誰かの為とかになると、実力以上のものを発揮しやがるんだ。この舞台で、奴は演劇界から足を洗うって言っている。たぶん、奈緒さん、あんたと寄りが戻らなくても答えは同じなんだ。だから、せめてあいつに希望だけは、持たせてやって欲しい。この舞台が終わるまで、なっ、この通りだ。頼む」
中島が頭を下げ、頼む姿を、奈緒は固唾を飲んで見つめていた。
歩を知れば知るほど、その大きさを思い知らされてしまう。
そしてー―。
奈緒は、必死で頼む中島を黙ったまま見詰めてしまう。
この愛には絶対、叶わない。
ずっと分っていた。
いつでも中島の頭の中には、歩が住んでいる。また、歩だって分かっているはず。なくてはならない存在。もしかしたら、奈緒との関係を盛り立てようとしているのは、そんな自分を認めたくないからではと、疑ったことさえある。
そんな器用な人じゃないって、充分知っているのに。
しばらく携帯画面の歩を見ていた中島が、フーッと長い息を漏らし席を立ち上がった。
「とにかく、早まんないで欲しい。お腹の子のこともあるし、どっちにしろ、その責任はきちんとあいつに取らせるから」
そう言いきって店を出て行く中島を見ながら、奈緒は、あっとあることに気が付く。
そうか、あの人も玄さんと同じなんだ。
玄さんもガサツに生きているようで、繊細だった。
口にはしなかったけど、何か、心に秘めていたようだし。
奈緒は、胸が詰まる思いで俯く。
急に、玄さんに会いたくなってしまった奈緒は、ふらりと電車に乗り、あの場所へ出向く。
カイトを上げている親子連れを横目に、奈緒は玄さんの姿を探す。
正月早々、店を出しているはずはないと、そんな事は分かり切っていた。
でも玄さんなら、今の奈緒の気持ちを一番理解してくれるはず。
日が当たらない道に、薄っすらと三日前に降った雪が残っている。
吐く息が白く濁り、それでも奈緒は玄さんを探し続けた。
「あらあなた」
その声で奈緒が振り返ると、ニット帽をかぶったおばあさんがプードルを抱いて立っていた。
「あっ! 私のこと、覚えててくれたんですか?」
「ええその可愛らしい姿、なかなかのものですもの。私も服を作るの好きだからね。でもいつものと感じが違うわね。もしかして、おめでた?」
「はい。それであのおじちゃんに報告したくって」
「あああの自転車屋さん」
「はいそうです。あの人、どこへ行ったか知りませんか?」
「そう言えばしばらく見ていないわね。沖縄に、娘夫婦がいるようなことをチラッと話していたから、もしかしたらそっちへ移ったのかもしれないわね」
「そうですか」
「あらごめんなさい。ミミ、そんなぐずらないの」
腕の中でもぞもぞしだす犬に、おばあさんは目を細める。
「この子、もう歳だから、目も見えなし体もすっかり衰弱しちゃって、一人で歩けないの。じゃあこれで」
立ち去るおばあさんに頭を下げた奈緒は、改めて時間の流れを感じさせられてしまう。
そうか。玄さんにもう会えないのか。
心の中で呟き、奈緒は込み上げてくる感情を、必死で堪える。
自分で、決めなきゃね。
所々雪が残る道を、奈緒はゆっくりと歩き、以前住んでいたアパートを見上げる。
歩に初めてここへ送って来てもらった時、どれほど心を弾ませたことか。
嬉しくって、あの日も、会社へ向かう途中、玄さんにピースサインを送ったんだっけ。
踵を返し、奈緒は来た道を戻って行く。
もう後戻りはできないと思った。
中島の言うことも分かる。
それでも、グスンと鼻を鳴らした奈緒は、振り返る。
歩には歩の相応しい場所がある。
その決意を知ってか知らずか、お腹で暴れる我が子を、手で撫でた奈緒だった。




