第六章 きみ、大志を抱け①
扉の先、奈緒は息を飲んでしまっていた。
そこには、奈緒が知らない歩が立っていた。
髪を切り、髭を剃り落した歩を見た瞬間、全て納得できた気がする。
清楚な歩が愛の言葉を口にするたび、胸が張り裂けそうになる奈緒。
その様子を遠くで見ていた母親が、家の中へといれてしまう。
固く決心したものが、崩壊しそうになる。
見れば見るほど、不釣り合いな自分を思い知らされてしまう。
涙が零れそうになり、ごくりとそれを飲み込む。
目を逸らしちゃだめだ。
突っぱねて突っぱねて、歩をあの場所に戻してあげられるのは、たぶん私だけ。
絞り出す様に奈緒は、言葉を吐きだす。
憎まれなきゃ。
どこまでもふてぶてしく、嫌な女。
奈緒は歩にそう思われたかった。
歩が一言発するたび、ぐらつく心。
それでも負けちゃだめだ。
みんなが望んでいるのだから。この子の為にも。
「もう帰って」
「奈緒、オレ、絶対にお前を幸せにする。約束する。だから」
「お願い、帰って」
追い立てるように、腕を引っ張る奈緒を見て、母親が顔をに皺を寄せる。
「今日のところは、お引き取り下さい。この子の躰に障ります」
そう言われた歩は、目を大きく見開く。
奈緒も同様の表情を見せていた。
玄関から追い出された歩は、それでも諦めがつかずに言葉を投げ掛けて来ていた。
ドアに凭れかかるように、奈緒はその言葉に崩れ落ちる。
しばらくして、思いがけない人が、奈緒の元を訪れる。
「中島さん」
驚きの表情を見せる奈緒に、中島は優しく微笑む。
「今、大丈夫?」
後ろを振り返る奈緒に、
「どうせなら、甘いものでも食べながら話したいんだけど」
その提案をする中島。
奈緒は思わず頬を緩ませてしまう。
「ここに、歩、来たんだって」
駅前のカフェに向かう途中の会話だった。
少し困った顔で頷く奈緒を見て、中島は小さく笑う。
「驚いただろ。あんな風な歩を見るの、初めてだもんな」
新年を迎えたばかりの街は、どこかのほほんとしているように思える。
お参りがえりなんだろうなと思うような人と、すれ違う。
休むことなく開かれているカフェの一角に腰を落ち着かせ、中島が嬉しそうにケーキに手を付ける。
躰に似合わず、甘いものが好きで、涙もろい。
歩が最初に、中島を紹介してくれた時に教えてくれたことだった。
奈緒も一口口にして、微笑む。
「もう、別れちまったって歩から聞いたんだが、その話、マジ?」
回りくどいことが嫌いな性格。それも聞いている。
目の前の紅茶に目を落としたまま、小さな声で、はいと答えた奈緒を見て、中島はチラッと目を上げただけで、ケーキを食べる手を止めずにいる。
「それ、保留にしてもらえると助かるんだけど」
目を見開き、奈緒は中島の顔を見てしまう。
「奈緒さん、俺等があいつに望んでいる夢みたいなもん、知っているだろ?」
頷く奈緒を見て、中島はコーヒーを一気に流し込む。
「そのためにも、別れる切れるは、お預けにして欲しいんだ」
ゆらゆらと瞳を揺らす奈緒を見て、中島は小さく息を吐く。
「あいつの頑固さは、知っての通りだ。それでもあいつ、あんたの為になら、舞台に立ってもいいと、やっと頷いてくれたんだ」
「嘘……」
「嘘なんか吐かないさ。あんたのために、そのお腹の子のために、あいつ、決心したんだ」
奈緒の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
「それなら尚更」
「そう言うと思った」
そう言う中島の表情は、苦々しいものだった。




