番外編「銀の軌跡」
夜明け前の空気は、肺の奥が凍りつくほどに冷たい。
セリアは女子寮の自室のベッドの上で、静かに姿勢を正して座っていた。
薄暗い部屋の中で、彼女はゆっくりと息を吸い込み、限界まで長く、細く息を吐き出す。
かつての彼女の呼吸は、常に焦りと重圧によって浅く、乱れていた。
王都屈指の権力を持つローゼンバーグ公爵家の令嬢という立場。
幼い頃から天才と持て囃され、周囲の期待に押し潰されそうになりながら、完璧であることを自分に課し続けてきた。
魔法の技術は確かに向上したが、ある地点からパタリと成長が止まってしまった。
どれだけ魔力を練り上げても、どれだけ複雑な詠唱を記憶しても、自身の内側にある壁を越えられない。
その見えない壁の前で立ち尽くし、ただ冷たいプライドの鎧を着込んで周囲を威圧することしかできなかった。
あの不器用で気怠げな青年に出会うまでは。
セリアはそっと目を開け、自身の両手を見つめた。
指先には、日々の鍛錬によってできた小さな固い部分が居座っている。
貴族の令嬢としてはあるまじき汚れだが、彼女にとってはこの指先こそが、自分が前に進んでいるという確かな証だった。
あの日の夕暮れ。
木刀の振り方を教わった時、レオンは彼女の呼吸の乱れを的確に見抜き、魔法の真理を極めて物理的な視点から解き明かしてくれた。
彼の手は節くれ立って無骨で、どれだけの時間を鍛錬に費やしてきたのかが一目でわかるほど分厚かった。
その手が自身の肩に触れ、重心の落とし方を教えてくれた時の、木肌のような温もりを今でもはっきりと覚えている。
セリアはベッドから降り、木製の杖を手に取って部屋を出た。
◆ ◆ ◆
まだ誰もいない早朝のグラウンドは、朝露に濡れた土の匂いが色濃く立ち込めていた。
東の空がわずかに白み始めたばかりの薄明かりの中、すでにそこに先客がいることにセリアは驚かなかった。
乾いた土を一定のリズムで踏みしめる音と、空気を鋭く切り裂く木刀の低い音が響いている。
レオン・バルディアが、たった一人で素振りを繰り返している。
彼は魔法適性ゼロと診断されて入学してきたが、その肉体にはどれほどの高位魔法使いも届かない極限の技術が宿っていた。
セリアは校舎の陰に身を潜め、呼吸を忘れて彼の動きに見入った。
右足が滑るように前に出たかと思うと、腰の回転が水流のように腕に伝わり、木刀が残像を残して跳ね上がる。
その動作には、ただの一ミリの無駄も、一切の迷いもない。
彼の周囲だけ空間の法則が書き換えられているかのように、静と動が完璧な調和を保って入れ替わっている。
魔力という不可視の力に頼り切っていたセリアにとって、それは純粋な暴力であると同時に、目が離せないほど美しい光景だった。
あの大規模襲撃の日、中枢管理棟の地下で彼が放った一撃。
巨大な破壊の球体を、ただの物理的な剣圧だけで両断したあの瞬間の横顔が、セリアの記憶に焼き付いて離れない。
あの時の彼は、普段の気怠げな様子とは全く違う、底知れない深みを持つ瞳をしていた。
彼が背負っている過去や、その強さの本当の理由はわからない。
ただ、彼の背中を見ていると、自身の抱えていた悩みがひどくちっぽけなものに思えてくるのだ。
ひときわ鋭い音が鳴り、レオンの動きがピタリと止まった。
彼は木刀をゆっくりと下ろし、振り返ることなく静かに口を開く。
「……そこにいるのはわかっている。隠れていないで出てきたらどうだ」
自身の気配を完全に殺していたはずだったセリアは、心臓を跳ねさせながらゆっくりと校舎の陰から姿を現した。
朝の冷たい空気が、彼女の火照った頬を撫でていく。
「おはようございます、レオンさん。お邪魔をするつもりはなかったのですが」
レオンは木刀を帯に差し、額に浮いた汗を手の甲で無造作に拭った。
「こんな朝早くから、公爵令嬢がグラウンドで泥遊びの真似事か」
「泥遊びではありません。あなたに教わった基礎を、身体に馴染ませようとしているだけです」
セリアが少しムキになって言い返すと、レオンの口元にわずかな笑みがこぼれた。
その笑みは、大人びていて、どこか保護者が見守るような優しさに満ちている。
「呼吸の乱れはなくなってきたな。魔力の波長も、以前よりずっと澄んでいる」
その一言だけで、セリアの胸の奥がじんわりと温かくなった。
彼は多くを語らないが、彼女の努力の過程を誰よりも正確に見て、評価してくれている。
セリアは手にした杖を強く握りしめ、レオンの目を真っ直ぐに見つめ返した。
「私は、強くなります。誰かに守られるだけの存在にはならない」
公爵家という鳥籠の中で、他人の評価だけを気にして生きてきた自分への決別。
レオンは少し驚いたように目を見開いた後、満足げに小さく頷いた。
「いい目だ。だが、焦りすぎれば足元をすくわれる。まずはその杖の握り方から直すぞ」
「はい、お願いします」
セリアは杖の構えを直し、朝日が差し込み始めたグラウンドで深く息を吸い込んだ。
彼の隣を歩くには、まだ果てしない距離がある。
それでも、彼が指し示してくれたこの新しい道を、自分の足で一歩ずつ進んでいこうと彼女は固く誓っていた。
澄み切った朝の空気に、若い決意を秘めた魔力の光が静かに、そして力強く輝き始めていた。




