『この猫の名前はコペルニクスだ』
「汽笛の音は物悲しい気分を呼び起こす」
言葉にしてしまってから、僕は気恥ずかしくなった。
僕達の住んでいる《ドーム》は街の中心部から少し離れたところに位置している。そのもっとはずれ、平原との境すれすれのところに線路は敷かれていた。一日に通る列車は二本、早朝に昇る太陽めがけて走るものと、日付が変わる頃に星が沈む方角へ追いかけていくもの。街の境界を越えてから駅へと滑り込む中間、ちょうど《ドーム》から遠くないあたりで、列車は必ず汽笛を鳴らす。まるで破られることのない約束のように。
僕らはいつも初めの汽笛をベッドの中、まどろみと目覚めの狭間で聞く。終わりの汽笛はその逆だ。その合図で、僕らは喋るのをやめ、読んでいた本に栞を挟み、ランプを消した。何があろうとなかろうと、そこで一日に休止符が打たれ、来るべき明日のためにすべては眠りの柔らかな腕にゆだねられた。
僕と同室のルダだけは、その前に一つだけしなければならないことがある。窓際のベッドを確保した彼は、夜の汽笛が響くなり、毛布の中から手を伸ばして窓を細く開けた。
「おかえり、コペルニクス」
挨拶に応えて、小さな黒猫が部屋の中に滑り込んでくる。しばらく確認するようにルダのベッドの上を歩き回ってから、コペルニクスは枕の横から毛布にもぐった。ルダの側で落ち着いて丸くなれる場所が見つかるまで、ルダの横で尻尾や脚を動かす様子が動く毛布の小山からわかる。
「じゃあ、おやすみ」
言いながら、僕がいつもどおりにランプを消そうとすると、「ちょっと待って」とルダが制止の声をあげた。枕元の時計を見て、きちんと上半身を起こす。毛布をはぎとられたコペルニクスが、迷惑そうに緑の目を瞬かせた。
そうしてルダはおもむろに口笛を吹きはじめた。
Happy Birthday to You,
Happy Birthday to You……
誰もが知っているあの曲だ。
三回目のBirthdayの高音部で音がひっくり返ったほかはたいした失敗もなく、吹き終えたルダはしかつめらしい顔を作った。
「誕生日おめでとう、イレク」
「ありがとう」
年齢をひとつ重ねた途端に贈られた祝いの言葉は、くすぐったいような嬉しさを連れてきたが、僕はわざとそっけなく礼を言った。
「なんで口笛なの?」
「音痴だから」
「口笛だとメロディを間違わないわけ?」
「さあ。歌うよりましな気がする」
結局出せない音があるから同じかもしれないけれど、とルダはまじめに答えてから、部屋の隅を指差した。
「プレゼントもある。地球儀」
「でもあれは」
僕は慌てた。
特技といえば、世の中にいろいろなものがあるだろうけれど、ルダの特技は一風変わっていた。彼の才能は、物を拾うという分野に遺憾なく発揮される。つまり、率直に言ってしまえば、ごみ漁り、なのだ。
しかし、ルダのために補足説明しておくと、ごみという言葉から想像されるような陳腐なものを彼は持ち帰らない。どうして前の持ち主はこれを手放したのだろう、と首を傾げてしまうものばかりを見つけるのだ。
そんなわけで実は、この部屋にある調度の大半はルダの拾得物だった。わずかに軋むけれど座り心地のいい揺椅子や、琥珀の塊のような色の燈を点けるランプ、青い塗装が少し剥げただけで性能にまったく障りのないラジオ。きわめつけがその地球儀だ。
天然木で出来たそれは、二階に運ぶのに《ドーム》の仲間五人がかりとなったほど重い。赤みがかったつややかな表面に、大陸から諸島まで様々な陸地が浮き彫りにされている。大きさはといえば、僕とルダが向かい合わせになって伸ばした腕で作った輪より一回り小さい程度だろう。真ん中の、つまり球体の円周が一番長いところを囲むようにして、土星の輪のような枠がついている。そこからキャスター付きの脚が四本伸びているのは、これがオブジェとしての役割だけではなく、本当は移動式のバーとして作られたものだからだ。枠のところで地球儀は半分に割れて、南半球が箱、北半球がその蓋となる寸法だ。ルダが発見したときには、アルコールの空瓶もオリーブの一個も残っていない、空の状態だったけれど。
ルダはもちろん、呼ばれて駆けつけた僕も、即座にそれが気に入った。運び入れたら部屋が狭くなることなど気にも留めなかった。《ドーム》の友人の助けを借りて持ち帰った後は、ルダはニスと磨き布を買ってきて暇さえあれば地球儀を磨き、おかげで現在、その表面は猫の背中のようになめらかだ。
「貰えないよ」
「いいんだ、イレクだって気に入ってるじゃないか」
指摘されて、僕は断り文句につまってしまった。確かに僕は考え事をしている際など、気付けば無意識にその感触を楽しみながら地球儀を回していた。しかし、自分が気に入っているからといって、ルダの宝物を横取りするような真似はしたくない。ルダはそんな僕には構わずに、また寝床にもぐった。
「貰ってほしいんだ、どうせ持っていけない」
「持っていくって、どこに」
訊くと、ルダは毛布から顔を上半分だけ覗かせた。
「《オリエント》」
「オリエント……ってあの、東の果ての?」
うん、と答えて、ルダは観念した顔でうつ伏せになった。頬杖をついて、もう片手で前髪をかきあげる。落ち着いて眠れないコペルニクスが床に下りて、僕達を不満げに眺めてから部屋の隅においてある平皿の水を飲みに行った。
「この前、数学コンテストで優勝したから。内示が出たんだ。とりあえず一年間、向こうに留学する」
「いつから」
「二日後」
「……すぐじゃないか」
「そう、すぐなんだ」
「大丈夫なのか?」
「何が」
「だって、あれだろ、《オリエント》っていえば、魔法じゃないか」
「その勉強をしに行くんだよ」
理論とか、発声学とか、とルダは指折り数えた。
遥かなる《オリエント》は、謎に満ちている。肌の色も言語も異なる人々の住む彼の地をつかさどる原理は魔法。それこそが機械を動かし、不可能を可能にし、生活の基盤を形作るという。
あらゆる情報が伝聞形でしか運ばれてこないのは、こちらと《オリエント》を繋ぐものが二つしかないからだ。間を横たわる平原の上を駆け抜ける風と、それよりはもっと遅いペースながら確実に進む日に二度の定期列車。その列車さえも、《オリエント》に入ったところで、先に進むためには動力機関の取り替えを余儀なくされるという。
嘘とも真実ともつかぬ噂に取り巻かれたその土地は、これまで限りなく閉ざされた場所だった。それが何の拍子か、お互いに留学生を送りあう協定が結ばれたことは知っていたが、誉れあるその第一期生が誰あろう、僕のルームメイトだとは。僕はどう反応していいかわからないほど驚いた。
「ルダが、魔法使いになるとは」
「まだそうとは決まってない」
「……てっきり科学者になるのだと思ってた」
数学の定理や物理の法則の理路整然とした美しさを愛する彼が、魔法のようなものに興味があるとは想像もつかなかった。呆然としたままの僕がそういった意味のことを告げると、ルダは戻ってきたコペルニクスのために毛布を持ちあげてやってから、説明のための言葉を探した。
「向こうでは、天動説を信じるっていうだろう」
「世界が平らで、天体が周りを動いているっていうやつ?」
「そう。僕達は地球は球体で、そして太陽の周りを回転していると信じている。信じているというよりも、それは知っていて当然の真実だ」
そこでルダは自分の発言を反芻してから、いつになく饒舌に先を続けた。
「日が昇って、日が沈む。朝になって、夜になる。一日が過ぎる。それはまったく同じだ。僕達はそれが地球の自転によるものだという。彼等は天が動くからだという。まったく違う原理を信じていても、文化は同じくらいの発展を遂げている。それはどうしてだろう、と思う。そこにこそ、この世界の原点のようなものがあるんじゃないか、とも。どこで何を信じていても、異なった教育を受けていても、地球上に生きている限りは誰にでも通用する何かが。全世界に共通する、真理と呼んでもいいような、絶対的なものが」
それが知りたいんだ、とルダは言った。
「向こうからの視点も理解できたら、それに一歩近づけるような気がする。……でも結局はただ単に興味からかもしれない。魔法とはどんなものか、自分の目で確かめなくては気が済まないんだ」
言い終えてちょっと笑ったルダの顔を見て、僕が思い出したのは全然別のことだった。きっと地動説つながりで記憶の底から浮かび上がったのだろう。何年か前、ルダがコペルニクスを連れてきた日のことだ。
拾った、とも、飼いたい、とも彼は言わなかった。自明の理を述べるような口調で、ただ一言とともに黒い仔猫を指し示した。
『この猫の名前はコペルニクスだ』