第1章:くじ引きと自己紹介
小さな紙の箱は、一番後ろの列にはほとんど最後のほうで回ってきた。
僕は何も期待せずに手を突っ込んだ。期待しない人間は失望しない。去年から頭の中に書きためてきたルール帳の、第一条だ。四つ折りにされた紙を一枚つまみ出し、広げてみる。
30番。
「おっ! 最後の番号じゃん!」背後から海斗の声がした。頼んでもいないのに、僕の手元の紙をのぞき込んでくる。「ちょうど角の席だ。運いいな、黒沢」
「運がいいんじゃない。ただの偶然だ」
「それ、同じ意味じゃね?」
「違う」そう答えてから、こんなことで言い争うのは時間の無駄だと思った。
林田先生は、黒板に座席表を書いた。六列、五行の升目。30番は右下の角、窓際だった。ついさっき僕が立ち上がったばかりの、まさにその席だ。
悪くはない、と認めざるを得なかった。少なくとも、あの桜の木は引き続き見られる。もっとも、それに意味なんてないけれど。
海斗が引いたのは24番で、僕のすぐ前の席だった。振り返って、頼んでもいないのに親指を立ててみせる。
「俺たち、前後の友達だな!」
「友達じゃない」
「なんでもいいよ。俺はそう数えるから」
僕は小さく息を吐き、椅子を引いて腰を下ろした。そこで、隣の椅子がまだ空いていることに気がついた。今のところ、誰も座っていない。
僕は、それを特に気にも留めなかった。
秋子は、手の中の紙を丁寧に広げた。
29番。
顔を上げて黒板を見上げ、自分の席を探す。一番後ろの列、窓際から一つ隣。
先生から一番遠い。ちょうどいい。
紙を胸ポケットにしまい、番号どおりの机へ、急ぐでもなく歩いていく。途中、向こうから来た女の子とすれ違いざま、その子がぴたりと足を止めた。
「あっ! さっき掲示板の前にいた人だよね! 私がぶつかりそうになった!」
さっきと同じ短髪の女の子だった。今は目が線になるほど満面の笑みで、照れるという言葉を知らない人のようだった。
「……はい」秋子は短く答えた。
「私、河野ゆず! よろしくね! 名前は?」
「白川です」
「白川さん! いい名前! 私、23番で、ちょうど白川さんの前の席なんだ!」ゆずは弾むような声で言った。「よろしくね、白川ちゃん!」
秋子は一度うなずいて、歩き出した。「よろしく」を返すことはしなかった。あまりにも重い言葉に思えたからだ。彼女が相手に持たせたい重さを、超えてしまう。
29番の机まで来ると、隣の席はやはりあの男子だった。毎朝鏡の中で見るのと同じ目をした、あの少年。
彼は顔を上げなかった。彼女も彼を見なかった。
椅子の背に鞄を掛け、椅子を引いて座り、まっすぐ前を見る。まるで隣に誰もいないかのように。
私には関係ない。
彼女は、もう一度自分にそう言い聞かせた。
全員が席に着いたところで、林田先生がぱん、と一度手を叩いて注目を集めた。
「はい、それでは自己紹介の時間にしましょう。一人三十秒以内。名前と出身中学、それから、みんなに知ってほしいことを何でも。1番からお願いします」
またひとしきり不満の声が上がったが、それでも自己紹介は始まった。
1番の女子は、つっかえながら顔を真っ赤にして話した。2番の男子は、日本代表のサッカー選手になると大声で宣言して、教室じゅうを笑わせた。3番は寝るのが好きだと言い、4番も寝るのが好きだと言った。二人は目を合わせ、同志を見つけたような顔をした。
僕は、何かを覚えるつもりもなく座って聞いていた。
それでも、耳が勝手に拾ってしまう人たちがいた。
眼鏡をかけた11番の男子が、落ち着いた様子で立ち上がった。まくる必要のない袖をまくり上げる。「高城陸。緑中学出身です。読書と、人間観察が趣味です」彼は少し間を置いた。「僕が長く見つめていても、驚かないでください。失礼のつもりはありませんので」
教室が笑いに包まれた。陸は顔色一つ変えずに腰を下ろした。こいつは海斗よりも危ないやつだ、と僕は思った。
背の高い14番の男子が、椅子をがたんと大きく鳴らして立ち上がった。頭をかきながら言う。「ま、松本蓮! 東中学出身です! バスケ部に……あ、まだ入ってないけど、入るつもりです!」何人かの女子がこちらを振り向くたびに、彼の顔はどんどん赤くなっていく。「よ、よろしくお願いします!」
早口すぎて、ほとんど異星の言葉のようだった。けれど、裏表のなさそうなやつだ。
長い髪の17番の女子が立ち上がり、教室に向かってぴしりと一礼した。背筋はまっすぐで、作法の手引きから抜け出してきたような立ち姿だ。「日向澪。清明中学校出身です。生徒としての務めを精いっぱい果たしたいと思います。そして、このクラスを、みんなが心地よく過ごせる場所にしたいです。よろしくお願いします」
教室から小さな拍手が起こった。海斗が「あれ絶対クラス委員長になるやつだ」とささやくのが聞こえた。僕も同じことを思ったが、返事はしなかった。
20番の女子は、ほとんど聞き取れないほど小さな声だった。「森本咲。本を読むのが好きです」本当に、それだけだった。彼女は静かに腰を下ろした。ところが、前の列にいた陸が、ちらりと彼女のほうを振り返り、興味深そうな目を向けていた。
続いて23番。
「河野ゆず! 風見中学出身! 恋バナがいちばん好きです!」彼女は片手を高く突き上げた。「そういう話がある人は、いつでも聞かせてね! どんな話でも聞くよ! 恋のお手伝いもできます!」
教室は一秒だけ静まり返り、それから爆笑に包まれた。林田先生まで、口元に手を当てて笑っていた。
「河野さん、初日から縁結び事務所を開くのはやめておきましょうね」先生は笑いながら言った。ゆずは、少し残念そうな顔で腰を下ろした。
次に立ち上がったのは、やはり相変わらずの大声の海斗だった。「七海海斗! 松本と同じ中学出身! 食べるのは何でも好き、頭を使わないことなら何でも得意です! よろしくな、みんな! 特に、俺の後ろのやつ!」
立ったまま、こちらを指さしてくる。教室じゅうの視線が、一斉に僕へと向いた。
僕は、「さっさと座れ」という意味を込めた目で彼を見た。海斗の笑顔は、二倍になった。
「次、29番」
先生の声がした。秋子は迷わず立ち上がった。
教室じゅうの視線が彼女に注がれる。四方八方から当たるスポットライトのようにそれを感じたが、彼女の顔は微動だにしなかった。中学最後の三年間、ずっと練習してきたとおりに。
「白川秋子です。白金中学出身です」
彼女は言葉を切った。
普通なら、ここでもう一言、続くはずだ。好きなこと、やりたいこと、何でもいい。みんなが近づきたくなるような何かを。
けれど、彼女にはそんなものを差し出すつもりはなかったし、持ちたいとも思わなかった。
「よろしくお願いします」
軽く頭を下げて、腰を下ろす。教室が一瞬しんとなり、前のほうからひそひそ声が聞こえてきた。「なんか怖い……」「冷たそう」。はっきり聞こえたが、彼女はいつものように聞き流した。
前の列のゆずが、こちらを振り返った。怖がる目でも、いぶかしむ目でもない。何かを考えている人の目だった。
秋子は顔をそむけた。
そのとき、もう一つの視線が頬にそっと触れるのを感じた。ほとんど気づかないほどの、かすかな視線。
彼女は、振り向かなかった。
「30番」
僕は立ち上がった。
さっき海斗に指をさされた男子が何を言うのか、教室じゅうが待っているのが分かった。一秒以上、間が空いてしまっているのも分かっていた。
「黒沢布施。田園中学出身です」
僕は黒板をまっすぐ見つめた。誰の顔も見なかった。
「……よろしくお願いします」
腰を下ろすと、教室はまたしんとなった。笑い声も、ひそひそ声もない。窓の外で風が木の葉を揺らす音だけがしていた。
ほっとするだろうと思っていた。けれど、先生が次の人を呼ぶのかどうかを確かめようと、ちらりと横に目をやったとき、僕の目に入ったのは、29番の席の女の子だった。
背筋を伸ばし、まっすぐ前を見つめている。表情はまったく変わらない。まるで、黒板よりずっと遠くにある何かを見ているようだった。
そのとき初めて気づいた。膝の上に置かれた彼女の指が、わずかにきつく握りしめられていることに。
どうしてそんなことに気づいてしまったのか、自分でも分からなかった。
僕は慌てて、黒板のほうへ顔を戻した。
僕には関係ない。
この一文を、僕はもう一度心の中で唱えた。この一年、ずっと唱え続けてきた言葉だ。それなのに、今日ほどこの言葉が信じられなく響いた日は、一度もなかった。
自己紹介が終わると、林田先生は出席簿を置いて、もう一度教室全体を見渡した。相変わらず、ほんのりと笑みを浮かべている。
「ありがとう、みなさん。全員、覚えましたよ。短く話してくれた人のこともね」先生は間を置いた。視線が、後ろの列をほんの一瞬だけかすめる。「心配しなくていいですよ。たくさん話さなくても、面白い人にはなれますから」
その言葉が誰に向けられたものなのか、僕には分からなかった。
「今日くじで決めた席は、月末まで使います。そして明日は……」先生は、おもちゃをポケットに隠した子どものように、にっこりと笑みを広げた。「クラス委員長を決めて、係の分担もしましょう。覚悟しておいてくださいね」
またしても、不満の声があちこちから上がった。海斗が振り返って、「聞いたか、楽しくなってきたぞ」とささやいた。僕には、どこが楽しいのかさっぱり分からなかったのだが。
僕は、もう一度窓の外に目をやった。
桜の花びらが、一枚、また一枚と、ゆっくりと舞い落ちていく。四月初めのやわらかな日差しに満ちた校庭の地面へと。
隣で、29番の女の子の椅子が小さく動いた。彼女はノートを取り出して机の上に置き、そしてちょうど僕が振り向いたのと同じ瞬間に、ふとこちらへ視線を向けた。
深い色をした瞳が、二秒ほど、僕の目と重なった。
それから、彼女のほうが先に顔をそむけた。
「白川」気づけば、僕は彼女の名前を呼んでいた。
彼女は一拍だけ動きを止め、こちらを向かないまま答えた。
「……何ですか、黒沢さん」
何でもない、と言おうと口を開いた。けれど、出てきたのは別の言葉だった。
「鉛筆、落ちてる」
彼女は床に目を落とした。黒い鉛筆が転がって、僕の足元で止まっている。手を伸ばして拾い、差し出す。彼女は目を合わせないまま受け取り、平坦な声で「ありがとう」と言った。
それから二人とも、また自分の前を向いた。
何も起きていない。見知らぬ者同士が、毎日どこかで交わしているような、たった三言の会話にすぎない。
僕は、そう自分に言い聞かせた。
けれど、隣から漂ってくるほのかなシャンプーの香りは、本来そうあるべきよりもずっと長く、空気の中に残っていた。




