序章:桜の散る日
僕は、桜が好きだったことがない。
こんなことを言うと、天邪鬼を気取っているように見えるかもしれない。けれど、これは好き嫌いの問題ではないのだ。ほんの数日だけ美しく咲いて、風がひと吹きすれば散ってしまう花。そんなものを、日本人は大げさなほど持ち上げている。「新たな始まり」も「友情」も「人生で最も美しい三年間」も、始業式で先生たちが決まって口にするその言葉と同じだ。
四月八日の朝、僕は桜ヶ丘高校の校門の前に立っていた。真新しいブレザーの肩に花びらが一枚舞い降りてきた。まだ店の匂いが抜けないその生地から、僕は見向きもせずにそれを払い落とした。
あたりは笑い声であふれていた。女子のグループが桜の木の下で並んで写真を撮っている。中学からの知り合いらしい男子が二、三人、大声で冷やかし合っている。フェンスのそばにはカメラを構えた保護者の姿もあった。誰もが浮き立ち、誰もが希望に満ちた顔をしている。
僕は、そのあいだを黙って通り抜けた。
友達はいらない。面倒事もいらない。誰にも期待しない。だから、誰にも失望しなくて済む。僕の計画はそれだけだ。三年間を過ごして、高校を卒業して、その先へ進む。
簡単なことだ。
あの瞬間、僕は本気でそう思っていた。
白川秋子は、クラス分けの掲示板の前に立っていた。新入生たちがぎゅうぎゅうに押し合い、隙間もほとんどない。
彼女は人混みに割り込まなかった。人がまばらになるのを待ってから、静かに一歩進み出て、自分の名前を読んだ。
一年B組、出席番号12番、白川秋子。
それだけだ。何も感じる必要はない。
踵を返したところで、慌てて駆け込んできた短髪の女の子と危うくぶつかりそうになった。
「ごめんなさい! わざとじゃないんです!」
その子はぱっと頭を下げ、すぐに顔を上げて満面の笑みを向けた。見知らぬ相手でも、つられて笑ってしまいそうな笑顔だった。
秋子は笑い返さなかった。小さくうなずき、平坦な声で「大丈夫です」と言うと、振り返りもせずに歩き去った。
あの子はきっと、冷たい人だと思っただろう。彼女にはそれが分かっていた。分かっていて、気にもしなかった。
近寄りがたい人間でいることには、一つだけ良いところがある。周りの人は、そのうち勝手に近づくのをやめてくれるのだ。それは、あまり思い出したくない形で彼女が学んだことだった。
階段を上がって二階へ。窓から差し込む淡い日の光が、廊下の床に細長い帯を作っている。チョークとモップの匂いがかすかに漂ってきた。学校というものは、どこも同じ匂いがするのだろう、と彼女は思った。
そして、もう一度思う。この三年間、私は何にも縛られずにやり過ごしてみせる、と。
1年B組は、思っていたよりずっとうるさかった。
戸を開けて中に入ると、教室のあちこちで小さな輪になって話す生徒たちの姿があった。まだ席も決まっていないのに机に腰掛けている者もいれば、校門前のパン屋で買ったパンを手にしている者もいる。バターの香ばしい匂いが、教室じゅうに満ちていた。
僕は迷わず、窓際の一番後ろの席を選んだ。こういう場所は誰も気にしない。それに、外を見れば桜の木がちょうど目に入る。もっとも、そんな理由で選んだわけじゃない。少なくとも、自分にはそう言い聞かせた。
鞄を置き、薄い教科書を取り出して開く。誰に言われたわけでもないのに。これは昔から効果のある手だ。うつむいて本を読んでいる人間に、声をかけてくる奴はいない。
……はずだった。
「おーい! そこの君! 窓際の席の!」
教室の前のほうから、よく通る声が飛んできた。僕は顔を上げなかった。
「君だよ、君! 本読んでるフリしてる人!」
それでも僕は顔を上げなかった。
足音が近づいてきて、誰かの手が僕の机にばん、と置かれた。
「俺、七海海斗! よろしくな!」
僕はゆっくりと顔を上げた。明るい茶色の髪の男子が、人間の標準をはるかに超えた満面の笑みでこちらを見ていた。
「……悪い。名前は聞いてない」
海斗は二度まばたきをして、それから大声で笑い出した。
「うわ、初日から口悪いな! 気に入った!」
何を気に入られたのか、僕にはさっぱり分からない。それに、知りたいとも思わなかった。
秋子が1年B組に足を踏み入れたとき、ちょうど男子の笑い声が教室じゅうに響き渡っていた。彼女はわずかに眉をひそめ、うるさそうにしながら、空いている席を探して視線を巡らせた。
窓際の後ろの席は、すでに埋まっている。黒髪で無表情の男子が、うつむいて本を読んでいた。その机の脇では、騒いでいたもう一人の男子が、彼のパーソナルスペースにずかずかと踏み込んでいる。
ちらりと視線を向けただけのはずだった。けれど、ふと目を奪われるものがあった。
あの男子の目は、毎朝鏡の中で見る自分の目と同じだった。扉をきつく閉ざして、「立入禁止」の札を掛けてしまった人の目。
彼女はすぐに顔をそむけた。
私には関係ない。
まだ空いていた真ん中の列の席に腰を下ろし、静かに鞄を置く。誰とも目を合わせないでおこう、と心に決めた。
ちょうどそのとき、チャイムが鳴った。
教室の戸がすっと開き、グレーのスーツを着た背の高い青年が入ってきた。寝起きのように少し乱れた髪。気の抜けた笑みを浮かべたまま、彼は出席簿を教卓に置いた。
「みなさん、おはようございます。このクラスの担任の林田です。高校生活へ、ようこそ」
彼はゆっくりと教室を見渡した。その視線は、何人かの生徒の上で一瞬だけ止まった。何かを記憶に刻んでいるかのように。そして、笑みをほんの少しだけ深くした。
「では、今日最初にやることは、席替え……いえ、席決めです」
教室じゅうから不満の声が上がった。林田先生は、机の下から小さな紙の箱を取り出した。
「くじを用意しました。引いた番号の席に座ってもらいます。交換も、交渉もなし」彼は、他の人がまだ知らない何かを知っているかのような顔で笑った。「信じてください。くじで決まった席は、たいてい、一番いい席になるものです」
僕は、まったく信じなかった。
そのときの僕には、まだ知る由もなかった。数分後、その箱から引いた小さな紙切れが、きちんと計画されていたはずの僕の三年間を、まるで予定になかったものに変えてしまうことを。




