第11話:読めてしまう声にも、言えないことがある
ナナセ版の『マイクは顔を知らない』が公開された翌日、律のもとに再び運営から連絡が届いた。
件名は、「演者様からのご連絡について」。
律はその文字を見つめたまま、すぐにはメールを開けなかった。演者様。それが誰を指しているのかは、察しがついていた。
ナナセ。昨夜、同じ台本に声を乗せた人。巧みに間を操り、台詞を調律し、最後の一行まで止まらずに通り過ぎていった声。
メールの本文は事務的でありながら丁寧だった。ナナセから台本提供者へ直接礼を伝えたいという希望があること。運営を介してメッセージを繋いでも構わないかという打診。
断る理由はなかった。けれど、即座に承諾する理由も見当たらなかった。
ミオリの時とは決定的に違う。ミオリは最初から、声が台本という枠組みからこぼれ落ちていた。読めなかった音があり、律はそれを聴き取ってしまった。
けれど、ナナセにはそれがない。彼女は止まらずに読めた。淀みなく、壊さずに、台本を形にした。
だからこそ、繋がる理由が薄いように感じられた。それでも、あの声が同じ台本を通り過ぎていった事実は消えない。律はその「通過」を確かに聞いた。
律は運営への返信欄を開く。
>問題ありません。メッセージをお繋ぎいただいて大丈夫です。
送信し、小さく息を吐き出す。何かを許可するたびに、自分の綴った言葉が手元から離れていくような、妙な寂寥感があった。
* * *
夕方、《コエバコ》の個別メッセージに通知が灯った。差出人は、ナナセ。
『はじめまして。ナナセです。このたびは台本を読ませていただき、ありがとうございました』
文面は、彼女の声と同様に整っていた。丁寧で、適切な距離があり、極めて読みやすい。律は返信を打つ。
『こちらこそ、読んでくださってありがとうございました。とても上手でした』
既読は瞬時に付いた。返信も、ほとんど呼吸を置かずに返ってくる。
『ありがとうございます。でも、ミオリさんの朗読とは、違いましたよね』
律の手が止まった。ナナセは自覚している。比較されていること。違って聞こえたこと。同じ台本という器を用意しても、注がれたものは別物だったこと。
律は無難な返答を探した。「演者によって解釈が変わる台本ですから」と。だが、その言葉はあまりに綺麗すぎて、何の本質も突いていない気がして消去した。
『違いました』
短く、事実だけを返す。既読がつき、少しの間を置いて返事が届く。
『ですよね。コメント欄でも、ミオリさん版と比較されていました。嫌だったわけではありません。同じ台本を読んだ以上、当然のことですから。……ただ、私の方は、たぶん読みやすかったんだと思います』
律はその一文をなぞる。読みやすかった。それは演者にとって最大の褒め言葉のはずだ。実際、ナナセの朗読に淀みはなかった。最後の一行へ向かって、彼女の声は綺麗に、そして残酷なほどスムーズに届いていた。
だから、彼女は通り過ぎたのだ。
* * *
『読みやすいのは、良いことだと思います』
律は、偽りのない肯定を投げた。
『はい。私も、そう思っています。……でも、あの台本に関しては、それだけでいいのか少し分からなくなりました』
律は画面を見つめた。ナナセはミオリが残したあの「空白」を知らない。本番のマイクが拾ったあの一拍を、律と同じ解像度では共有していない。律の手元にある、送信できなかった録音の存在も。
それでも、彼女は自分が何かを無機質に通り過ぎてしまった事実に、薄く、けれど確かに感づいていた。
『空欄さんは、私の朗読を聞いて、どう思いましたか』
ナナセからの問いは、逃げ場のないほど真っ直ぐだった。律は言葉を詰まらせた。
上手だった。聞きやすかった。別の解釈として完結していた。どれも真実だが、その言葉を並べるだけでは、何も伝えていないのと同じだった。
『上手でした。……でも、それだけではありませんでした』
『それだけではなかった、ですか。どういう意味ですか』
律は再び沈黙に陥った。(ナナセさんの声は、その場所を通り過ぎました)と打ちかけた文字を消去する。
それは律とミオリという「内側」の人間だけが共有する視点だ。部外者である彼女にそのまま突きつけるには、排他的な響きを含んでいた。
『まだ、うまく言えません』
結局、そう返すしかなかった。返信は、すぐには届かなかった。やがて、ナナセからの返信が通知された。
『少し、分かる気がします。私も、自分の朗読について、うまく言えないところがあります。……私は、たいていの台本を読めてしまうんです』
律の指が止まった。
『泣く台詞も、怒る台詞も、苦しい台詞も、読めます。もちろん、完璧ではありません。でも、止まることはあまりありません。……止まらないのは、良いことだと思っていました。今も、たぶん良いことだと思っています。……でも、ミオリさん版を聞いた時、少し怖かったです』
ナナセは、あの空白に込められた意味を知らない。だというのに、彼女は「怖かった」と告白していた。
* * *
『どうしてですか』
『私なら、あそこを止まらずに読めてしまう、と確信したからです』
律は肺の空気を止めた。ナナセは、ミオリの「読めなさ」を真に理解したわけではない。けれど、彼女は自分が「読めてしまう」ことの怖さに、気づいている。
それは、ミオリとは正反対の極から、同じ台本に触れているようでもあった。
律は、このナナセの独白をミオリに共有すべきか迷った。最小限の言葉を、ミオリに送る。
『ナナセさんから連絡が来ました。……読めてしまうことが、少し怖い、と』
既読。そして、少し長い沈黙。
『そうですか』
再び届いたその一言は、どこか温度を持って見えた。
『ミオリさんとは、逆ですね』
『たぶん、逆です。でも、逆だからといって、同じ場所を見ていないとは限りません』
律はその一文をなぞった。ミオリは、ナナセを拒絶していない。自分の「読めなさ」を手放さずに、ナナセの「読めてしまう怖さ」をも、地続きの場所として認識している。律にとって、意外な展開だった。
『ただ、空欄さん。ナナセさん用に、すぐに新しいものを書かないでください。嫌ですから。……でも、それだけじゃありません』
律は言葉を返せなかった。その続きは、まだ送信されていなかったからだ。
* * *
夜、ナナセから最後の一通が届いた。
『空欄さん。もし、次に台本を書くことがあれば。私が止まってしまう場所も、ありますか』
ミオリは、読めない場所から律の台本に触れた。ナナセは、読めてしまう場所から同じ台本に触れた。どちらも台本の外側の出来事ではない。
律は返信欄を開いたが、指は動かなかった。自分はまだ、ナナセが立ち止まる場所を知らない。知らない場所に、空白だけをあらかじめ用意することなどできない。
けれど、彼女がその場所を求めた事実を、なかったことにすることだけはできなかった。
律は、スマホの中にある三つの音を思い出した。
ミオリ版。ナナセ版。自分の、まだ送っていない録音。
どれも同じ台本の周りにある。けれど、同じ場所では止まらない。
『まだ、分かりません』
『分かりました』
ナナセから来たのは、きれいに整った返事だった。律はその整い方を、少しだけ怖いと思った。
ミオリからの『でも、それだけじゃありません』。
ナナセからの『私が止まる場所も、ありますか』。
二つの問いが画面に並んでいる。
律はスマホを机に置いた。
まだ、誰のための空白なのか分からなかった。




