戯れ
ゆっくりとペダルを漕ぎながら湖の方へ視線を向ける。後の彼女も向けているはずだ。僕には見えないけれど、ただ、そんな気がしただけ。そしたら、行き成り彼女の顔がすぐ横に来て少し驚いてしまった。だって、僕が横を向いているのに突然その脇に顔を出したんだ。驚くなって方が無理がある。しかも、やわらかそうな唇が触れそうなくらい近かった。彼女にしてみれば僕の顔を覗き込んだだけなのかもしれないけど、こっちとしては心臓の鼓動が一瞬で跳ね上がる行為だ。
「どうしたの? 顔赤いよ?」
そりゃ赤くも成るよ、僕の唇と彼女の唇がニアミス状態だったんだから。だけど、そんな事、言える訳が無い。
「な、なんでもないよ」
「変な雅春」
くすくすと笑う彼女。思わず、君の所為だぞ、って言いそうになったじゃないか。
「あ、木の枝に当たるから頭を……」
僕が言い終わらないうちに後から小さな悲鳴が聞こえて、不意に自転車が軽くなった。慌てて止めて振り返ると、彼女は額を押さえて地面に蹲ってた。少し注意が遅かったみたい。
「いたいよお……」
そりゃ痛いよなあ。あの太さだし、其れなりに勢いあったしなあ。もろに頭突きしたんだろうな。
「注意しようとしたのになあ。まさか、言うと同時にやらかすとは――」
もっとも、前を見てなかったみたいだし、自業自得かな? そんな事を思ってると、彼女の頬が見る間に膨れていくのを見て、あ、やばい、と思ってしまった。
「もう! 言うの遅い!」
立ち上がると同時に、凄い速さで僕に飛び掛ってきて、拳を叩き付けて来る。
「痛いからやめろってば」
口ではああ言ったけど、でもそれは、ちっとも痛くなくて、寧ろ、じゃれられてるだけ。その証拠に、僕も彼女を笑顔だったしね。
そんな僕達の側を、微笑ましい光景を見た、といった感じで子供を連れた女性が通り過ぎて行く。もっとも、子供は不思議なものを見る目をしてたけれど。現に、子供は女性に対して「ママー、あの人たちけんかしてるの?」とか聞いてるし。君も中学生くらいになれば分かるぞ、と僕は心の中で言葉を返しておく。
「ちょっとおでこ見せて」
一頻りじゃれあったところで、僕は彼女の額を確認して見た。こりゃまた見事に当たったもんだな。真っ赤になってるよ。
彼女に「ちょっと待ってて」と一声掛けて、ウエストバックから冷却シートを取り出すと、赤くなった額に貼り付ける。何でこんな物を持っているか、と言うと、熱中症対策なんだ。前に真夏のカンカン照りの時にバイクに乗っていたら、知らないうちに熱中症に成りかけた事があって、それ以来、暑い時期は常備するようにしていた。それがこんな形で役に立つとは思いも因らなかったよ。
「どう?」
僕の問い掛けに、彼女は気持ちよさそうな顔で答えてくれた。
「それじゃ行こうか」
勢い良く彼女が頷く。うん、この子はやっぱり笑顔の方が可愛いね。
僕達は自転車に乗ると、再び動き出した。
少し行くと、右手には段々畑、とは言っても、緩やかな斜面なので、そう表現して良いものかどうか分からないけど、そっちの方がしっくりくるので、まあいいか。左手は相変わらず湖。なんだけど、柵が無い。こりゃ、ちょっとミスると自転車でダイブするなあ、なんて思ってたら、後の彼女が急に暴れだしやがった。暴れる、と表現したけど、左右に体を動かして嬉しさを全身で表してるだけなんだろうけど、運転してるこっちはたまったもんじゃない。だって、バランスを取りながら乗る乗り物なのに、後で勝手に動かれたら……。
「ちょ! や、やめて! 落ちる! 落ちるってば!」
そうして僕は飛び込んだ。どこへ? って? 決まってるじゃありませんか。湖ですよ! それも自転車と一緒に! それはもう無様なほどあっけなく、一回転して頭から飛び込んださあ……。ああもう……、全身濡れ鼠だよ。幸い、水深も浅かったし、自転車は放り出したから怪我はしなかったし、携帯は防水だから良かったけど……。これ、何かの罰ゲームですか?
「だから落ちるっていったじゃん!」
どうやら彼女は僕がバランスを崩す直前に自転車から離れたらしくて、その勢いも手伝い、僕は飛び込んでしまったらしい。そんな哀れな僕が水の中から立ち上がった所に、彼女の笑いが叩き付けられる。それはもう、お腹を抱えて笑う笑う、しかも指まで差してるし。あのう、お嬢さん。こっちは笑うどころじゃないんですけど……。
諦めの溜息を付くと、僕は自転車と自分を岸に引き上げる。彼女はまだ笑ってるし、僕からは水が滴り落ちるし、もう、なんだかなあ。
「頼むから後で暴れないでくれよ。じゃないと今みたいに成るから……」
一応、お願いはする、シャツを脱いで搾りながらだけどね。こんな時期でもずぶ濡れだと風邪を引く可能性もあるし、これは仕方ない。ただ、さすがにズボンを脱いで搾る勇気はなかったけど。
彼女、まだ笑ってるよ。よし、お仕置きだ。いいよね。
服を着た後、まだ笑い転げる彼女の頭に、軽く拳骨をプレゼントしてあげた。そしたら頬を膨らませて、上目遣いで睨まれちゃった。でも、なんだか可愛いので、これはこれで、あり、かも? うん、ありだ。そう思うことにしよう。
「さ、行くよ」
声を掛けたけど、そっぽを向かれてしまった。ありゃりゃ、完全に機嫌を損ねちまったか? どうしたもんかねえ? ほんの少し考え込んだけど、フッと彼女の無防備な背中が目に付いて、思わず背筋をつつーっと指先で撫でてしまった。ま、当然の如く、彼女は体をビクっと震わせて睨む。そうだよなあ、とその反応を呑気に見ていたら、さっきよりもキツイ目付きで睨みながらにじり寄って来る。だから、僕はついつい後に下がってしまった。これ以上下がるとまた湖に逆戻りなんだけど、どうしよう? なんて思ってたら、行き成り飛び掛ってきやがったよ!
で、遭えなく湖に僕は逆戻りっと。だけど、今度は彼女も一緒だ。旅は道連れならぬ、彼女も道連れってか、これ、どう見ても心中だろ。まあ、水深浅いけど。
「ぷはっ! ったく! 何考えてん……だ、よ!?」
やべっ! 彼女、タンクトップの下に何も付けてねええよ! ってさっき触ったから知ってたけど、いくらなんでもこれは不味い。お嬢さん! 透けてるよ! 目の毒です、それ! あ、まじい、僕のピストンが大変な事になってきた。お、落ち着くんだ! こういう時は素数を数えるんだっけか? 一……、一って素数だっけ? ああ、もういいや……。彼女気付いてないみたいだし、ここは役得って事で勘弁してもらおう。だって、飛び付いて来たのも彼女からだし、こうなる事くらい分かってたはずだしね。とりあえず上がりましょうか。
彼女を促して岸に上がったのはいいけど、僕は目を剥く結果になりました。どうしたって聞きたそうだから、正直に言います。彼女、タンクトップを脱ごうとしました。慌てて止めたけど。でも、完全に出ちゃってました。で、僕は見てしまったよ。それほど大きくも無く、かといって小さ過ぎず、綺麗な形の双球の頂には綺麗な桜色のぽっちがちょこんとしてました。是正に眼福。って、そうじゃなくて!
彼女は首を傾げて僕を見てるけど、どうしたらいい? この状況。
でも彼女、どうして脱いじゃいけないのか分かってなかったっぽいな、周りに人が居なかったから良かったけど。
ああ、そうか。とりあえず僕がシャツを脱げばいいのか。それを彼女に着せて、っと、
「よし、これで脱いでもいいぞ」
もぞもぞと彼女は脱ぐ。そして、シャツの下からタンクトップを僕に渡してきた。えっと、これをどうしろと? とりあえず搾ってから、渡せば……。うん、彼女、僕のシャツに袖まで通してる。
「ねえ、僕は何を着ればいいんだい?」
「それ」
「――はい?」
「だから、それ着て」
なんだか嬉しそうに小首を傾げてるぞ? って、僕がこれ着るんか! しかたないな。
彼女と僕の服が入れ替わる。
しかし、ぴっちぴちだぞ、これ。まあ、恥ずかしくはないけど、他人から見たら一発で分かる、服を取り替えてるって。やっぱり、罰ゲームだよな、これ。