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始まり

朝食の片付けを終えた後、僕達はキャンプ場を出た。もちろん、徒歩で。自転車を借りる場所はここから五分くらいの所にあるんだけど、キャンプ場から離れてすぐの右手には、山際の側まで田園が広がり、風が優しく稲穂を揺らしながら駆け回っていて、なんともゆったりとした時間の流れを感じさせてくれる。左手は林だけど、ここって昔は城郭の一部だったみたいで、今でもその名残は残っていて、その証拠に、この地を支配していた一族を祭る神社が今でも有る。もっとも、そんな僕の手を彼女は満面の笑みで引いて行く。急かす訳じゃないんだろうけれど、もう少し、ゆっくりと歩きたいな。

「ねえ、自転車借りる場所を君は知ってるの?」

 こんな問いにも笑顔で頷く。それも、物凄く嬉しそうに。

 やっぱり地元の子だ。土地勘の無い僕よりも良く知っている。でも、民家を突っ切ろうとしたのには、さすがに焦った。それはなんとか止めたけれど、彼女は不思議そうな顔をして首を傾げてた。なんだか、何時もそうしている、といった雰囲気だったな。

 神社の脇の道を抜けると、湖の(ほとり)に出た。そこからは、もう、レンタサイクルの店が見えていて、ちょうど開店する所で、時間はぴったりだった。

 お店に入って声を掛けると、少し日焼けした感じがとても良く似合う、若いお兄さんが奥から出てきた。あ、僕と同い年くらいだから、若いって言うのも変か。

 見た目はちょっと無愛想な感じがしたけど、意外と丁寧に対応してくれる。ただ、二人だから二台だと思ったんだと思う。それを僕が一台と言ったから驚いてた。

「そっちの子は乗らないの?」

 ちょっと苦笑気味に僕は答える。言い難い事だしね。

「この子、乗れないんです。だから――、二人乗りって出来ませんか?」

 少し困った顔をされた。当たり前だよね、二人乗りなんて道交法違反だしさ。それに、見た限りじゃ、荷台の付いている自転車は一台も無かったから。

 でも「ちょっと待ってて」と言葉を残して裏に入ったかと思ったら、工具ともう一つ、何かを手にして戻って来た。あれは確か、自転車の後輪の所に付けるステップだ。中学生くらいの時、僕も付けてたっけな。

「内緒だからね」

 爽やかな笑顔でそう言うと、それを自転車に取り付けてくれた。

「それじゃ、気を付けて」

 僕はお礼を言うと走り出した、彼女を後に乗せて。

 自転車とバイクの大きな違いは? と聞かれたら、大概の人はこう言うと思う。自分の力で走るか、エンジンの力で走るか。だけど僕は違う。風の感じ方だと思ってる。風と戯れ、肌で色を感じて、全身で香りを楽しむ。時には意地悪される事も有るけれど、それも戯れるのと同じ。何よりも、そこに有る風と一体になれる事。こう言う方が分かり安かもしれないな。風と遊べるのが自転車。バイクじゃ絶対味わえない感覚。速過ぎず、かと言って遅過ぎない、自転車ならではの感覚。彼女にもそれが分かると良いのだけれど……。

 でも、これは杞憂だったみたいだ。彼女の表情や仕草は僕には見えない。だけど、肩に置かれた手から伝わる感覚が有る。適度な緊張と開放感、そして、楽しさ。まだ走り出して間もないけれど、これだけ分かってくれるなら大丈夫。もっと楽しさを見付けてくれる筈だ。

「雅春、ちょっと止まって」

 不意にペダルが軽くなる。慌てて止まるって振り向くと、彼女が駆け出して行くのが見えた。

 その彼女が降りた場所、そこは何の変哲も無い小さな公園。ベンチに東屋、螺旋状の滑り台にブランコ。あるのはそれだけ。でも、小さいはずなのに、広く感じる。それは、湖の側にあるのに、柵が設置されて無いから。湖を挟んで遠くを望めば、山の連なりが見える。まだ紅葉には早いけれど、緑を湛える山々は僕に語り掛ける。もう少しで衣替えするからまた来いよ、と。そして湖は、衣替えした山を写す姿見に変身するのかもしれない。

「まさはるー」

 彼女に名前を呼ばれて振り向くと、滑り台の上で楽しそうに手を振っていた。僕が笑顔で振り返すと、滑り降りて駆け寄って来て、僕の腕を取るとブランコの方に引っ張って行く。

「ねえ、これどうやって遊ぶの?」

 一瞬、え? と思ったけど教えてあげた。でも、うまく出来ないみたいで、なんだか不機嫌になってる。

「しょうがないなあ」

 だから、背中を押してあげた。

 ゆっくりと揺れるブランコ。はしゃいで笑う彼女。その声が響き渡り、何も無い公園が活き活きとする瞬間。遊ぶ子供が居なくても公園は変わらない。でも、遊ぶ声が響き渡れば、そこは遊園地にも勝るとも劣らない楽しい場所になる。それも一緒に楽しむ相手が居れば尚更だ。だけど、僕にはそんな彼女が、何故かとても必死に見えて、少しだけ胸が痛んだ。

「どうしたの?」

 不思議そうな顔で彼女は僕を見てる。だから、笑ってみせた。

「なんでもない。そろそろ行こうか」

 ブランコを飛び降りると、勢い良く自転車まで駆けて行く。そんな彼女に急かされ、僕も小走りに戻る。自転車は逃げないんだけどな。でも仕方ないか。あんな笑顔を見せられたら、男としては張り切らないといけないね。

 気合を入れて再出発だ。彼女も何故だか気合を入れてる。まあ、僕に対する激励とでも取っておこうかな。

 公園を後にすると、ほんの少しだけ湖から離れる。三十秒くらいのとても短い時間。でも、これは自転車だから済む事かな。

 そうそう、今、僕達は湖を反時計回りで回ってるんだ。だって、この方が湖の近くを走れるからね。

 ここから先はバイクで走るには(はばか)られる道だ。走れない訳じゃないけど、遊歩道みたいなものだし、原チャリならまだしも、僕のバイクだとちょっとね。でも、今は問題ない。

 湖を目にして最初に飛び込んで来るのは睡蓮(スイレン)。でも、今の時期は花が咲いていない。湖面に葉っぱが浮いているだけだ。なんだか寂しい感じ。だけど、僕の耳にどこからともなく何かの音が響いてくる。

 なんだろうこの音。小さい頃に聞いた事の有るような……。

 思い出した、機織(はたおり)の音だ。

「わあ! すごいよ! 見てよ雅春」

 声に釣られて眼をやると、花が咲き始めてる。自転車を止めて、その不思議な光景を僕等は見入る。水中から茎が伸びてくると、あっという間に(つぼみ)を付けて、花弁を広げて行く。それも音に合わせながら。白と薄桃色の蕾が互いに競う様に引き立て合う様に、音に合わせて踊る。そして、ゆっくりと身に纏った衣を解く。可憐に、清楚に、でも、少しだけ誇らしげに。音は楽しそうに奏でられ、花たちも僕等を歓迎して咲き誇る。僕等はその踊りと音の共演楽しんでいた。

 そんな時、ふと視線を感じて顔を上げた僕の目に、着物姿で優しく微笑み掛ける女性が飛び込んできたんだ。何故だか分からないけど、とても大事な事の様に思えて、彼女に教えなくちゃ、と急いで顔を向けたら、彼女も笑顔を真っ直ぐ女性に向けてた。気付いてたのか、と思って、また視線を元に戻すと、もうそこには、誰も居なかった。時間にしてほんの数秒の出来事。白昼夢でも見た様な感じもするけど、あの女性の笑顔はこの目に焼き付いている。だけど、あの笑顔は、誰の願いが叶った事を喜ぶ笑顔だ。そして、彼女の向けてた笑顔、あれは感謝の笑顔だと思うけど、なんだろう? この感じ。そんな事を考える僕の耳に、彼女の声が飛び込んできた。

「行こっか」

 彼女の笑顔に促されて僕は頷くと、またペダルを漕ぎ始める。その先に待つ、何かに向かって。

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