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ゾンビから生き残るための百のルール  作者:
第六章、発展編
98/109

その91・同僚の力量は把握しておくこと








 今から、10年前。そこから、日常が食い荒らされる日々は始まった。

 “昔は良かった”なんて嘆く暇はなく。

 ただ生きる事だけを考え、生きるために駆けずり回り、生き残るために感染者を狩り続ける日々が始まったのだ。

 そして、それまでの日常は終わった。




【××××年 ○月×日

 I-106の体液要素に変化が見られる。発現のタイミングはI検体すべてに見られる凶暴化と一致しているが、原因は未だに不明。隔離棟での収容を続け、引き続き経過を見る。


××××年 ○月×日 

 十二時十三分現在、午前の清掃中にI-106に噛まれた真柴の血液要素がI-106の体液要素と同様の変化を表した。事故の予想時刻は午前十時前後。真柴は十時五分ごろに悪寒を訴えて医務室を訪れている。

 十二時十三分現在、拘束毛布を使用して隔離棟にて収容している。凶暴化、強化ガラスに体を擦りつけるなど、I-106の変異時と同様の異常な行動パターンが見られる。

 I-106に噛まれたことが原因なのだろうか。

 午後会議にて、I型体液要素の感染性における対照実験を発案する。


××××年 ○月×日

 対照実験XXI003を投下。自分は研究主任として二病棟へ移動となった。

 真柴の変異は続く。

 

××××年 ○月×日

 やはり、真柴は第一の感染者だ。

 I型体液要素の感染性は極めて高く、発病後の進行は二十四時間内で最終段階へ入る。XXI003の開始より一か月現在、I型体液要素は人体への感染以外は見られない。

 引き続き脊椎動物に対する感染性の実験を続ける。


××××年 ○月×日

 I-106α(真柴 翔太)の担当研究主任との小会議があった。

 I型体液要素感染者における発現パターンをここに纏める。

 言語能力の消失(二十四時間以内)

 痛覚の消失

 凶暴化

 栄養摂取による凶暴化の一時的鎮静

 飢餓状態になると腐敗化がはじまり、三週間ほどで完全に肉体が分解され外皮のみが残る。

 栄養摂取により腐敗化は止まり、I型細胞の再生がはじまる。

 食欲異常。睡眠、生殖等、栄養摂取に繋がる行動以外には興味を示さない。

 

××××年 ○月×日

 X-013,027,029,055に奇行が見られる(ログ〜〜〜を参照)

 感染後の知能指数には幅があるのかもしれない。


××××年 ○月×日

 午後の小会議で感染の進行実験を発案した。

 そう言えば、対I型体液要素の漿液の開発案が上がっているようだ。自分には共感できない。そんなものに費やす時間と費用はない。現時点ではI型体液要素を解明するべきだろう。I型体液要素の調査、開発の研究に専念するべきだ。  】





 それ以上、目を通す必要は無かった。

 机の中から出て来た今にも崩れ落ちそうな資料らは、長いようで短い年月を数えて来た者の目に、馬鹿みたいに単純な結論を提示している。

 マイナス10の引き算など、子供のように指を折らずとも分かる。

 黄ばんだ紙に染み込んだ日付は、ひとつ残らず全て、今から10年以上前のものだった。


「まじかよ……」


 喉から転がり出た音が、河井の鼓膜を場違いに軽く震わせる。

 けれど、もうとっくに全ては繋がっていたのかもしれない、と。

 爪の先まで走った衝撃に一瞬でまっさらになってしまった河井の頭の中、酷く今更な言葉をぽつりと落とす部分があった。


 年配と呼べる人間が存在しない研究所。その中で最も若い——殆ど上司らとしか交流していない女が、挙動不審に遮った、前回の任務で出会った男の言葉の先。研究所のあり方、そしてその存在の話。

 全てを奇麗に繋げられなくとも、直感的にきっと、全ては分かっていたのだ。

 だからこそ自分はいま此処にいるのだ、なんて。どこか不思議な納得の感触がすとんと落ちれば、河井の喉をせり上がったのは、酷く苦い圧迫感だった。


「……お前、知ってたの?」

「……。」

「全部此処から始まったって……知ってたのかって聞いてんだよ!」


 返ってこない声に、ささくれ立っていた神経を逆撫でされ。

 堪えられる筈もない感情と共に振り返った先、そこにあった真っすぐな視線に河井の眉間が皺を刻む。

 彼女が居心地悪そうに顔を伏せていたのなら、何か気持ちは変わっていたのか。

 答えは否だと分かっていた。

 それでも貼付けられたような奏の鉄仮面に、河井の不快感は泥のようにぐずりと揺らめく。


「……知ってましたよ。本当に“研究所”だったのはここで。今私たちが“研究所”って読んでいる場所は、元々は宿舎です。忙しかったので、清掃出来なかったんですよね、ここ」

「そういう事を……聞いてんじゃねぇよ……!」

「そうですね……」


 逸れた視線と、身を守るかのように組まれた奏の腕に、河井の中の苛立ちがまたゴボリと泡立った。

 「おかえり」という当たり前の声があった。「くだらねぇ」と笑いあえる友達がいた。

 そんな日常を、ずっと続いていくはずだった日常を崩壊させた組織に、自分がいま身を置いているという事実が河井には理解出来なかった。

 否、認めたくなかった。

 けれど事実はどこまでも事実で、沸騰してなお猛り続ける感情を発散させるかのよう、頭を掻いた河井はその時、戻された奏の視線の鋭さを見た。


「だったら何だって言うんですか」

「……は?」

「知ってましたよ。研究所の建物は一つじゃないってことも、ここが全ての元凶だってことも。……でも此処の設備を使わなければ感染者の研究は出来ないでしょう? 機材も薬品も此処にしかない。薬品はもう、切れかけてますけどね」


 吐き捨てるようにした奏の表情が、軋むような固さを有している事に河井は気付かない。

 彼の頭の中は、彼女の紡いだ言葉の意味以外を追っていなかった。

 しかし他のものを犠牲にし、一点集中した河井の思考回路は、驚くべき早さで小さな疑問を解明していく。

 廃墟の一室に所々空いた、不自然な空間の理由。直線を引いたように壁紙が変色していたのは、元々そこに何かが置かれていたからだ。

 そして棚の中の瓶が、ひとつ残らず割れていた理由。

 棚の中に割れていない瓶が、ひとつとして残っていなかった理由。

 全てを知っていた女の無感情な瞳が、河井の困惑を揺らした。


「お前……お前は、ちょっとでも……思わねぇの? 間違ってるって、思わねぇのか?」


 河井には奏が理解出来なかった。

 同じ“人”である筈なのに、同じ“日常を奪われた者”である筈なのに、どうして10年前の元凶に協力しようと思えたのか。庇護するような言葉を発せられるのか。

 これほどまでに他人が理解出来ないのは初めてで、河井には目の前の女がまるで未知の生物かのように思える。


「逆に! 河井さんは本当に、今まで何一つ不思議に思わなかったんですか? うちに機材があることに、うちで黒液の研究が行えてることに!」

「思わねぇよ! 銃とかと一緒で、どっかから調達してきたんだろうなーくらいにしか思わねぇに決まってんだろ! こんなこと、知ってたら……」

「知ってたら、どうするって言うんですか。楠さんをせめますか? 研究所から追い出しますか? 黒液の研究をずっと続けて来たあの人が一番、黒液の感染を食い止める方法に近づいているとは思わないんですか?!」


 本当に、一体、彼女は何を言っているのか。

 正気とは思えない奏の物言いに、一度収まりかけた河井の激情がわななく。


「一回でもこんな惨劇起こしてる人間、信用出来るわけねぇだろ!!」


 風化した卓上が、叩き付けられた憤怒に軋んだ。

 机の上に積まれていた資料の束が雪崩のように崩れる。

 はっと。想像以上に広がった被害にほんの少しだけ我に返った河井は、反射的に視線と懐中電灯の向きを変えた。

 散乱した紙によって埋め尽くされた卓上。一面に広がった汚物に舌打ちをしかけた河井は、その時、乾いた泥のような紙の隙間に異質なひとつを発見した。

 上に積まれた資料の束によって、惨劇を免れたのか。

 どこか浮かび上がって見える状態の良さへと、吸い寄せられるように伸びた指先が、つまみ上げたのは1枚の写真である。


 記念写真のようなものなのか。

 今は廃墟でしかない建物を背に、若い者から年配のものまで、褪せた数十人の人間の顔が並んでいる。

 見知らぬ男ばかりの写真は、よく見ればやはり風化していた。けれど個人の識別は十分に可能な範囲内で、色の飛んだ写真の上へと、流されていた河井の視線がピタリと止まる。

 目元を隠すボサボサの髪と、ひょろりとした身体。

 少々掠れたその姿は、すぐに見つける事が出来た。逡巡の一瞬すら必要とせず、河井にはそれが誰なのか分かった。


 年齢は、30そこらと言ったところか。

 不自然なほど変わらない上司の姿が、10年以上前の写真に焼き付けられていた。


「“人間”……か」


 河井の口が零したそれは、先程の自分の言葉に対する色のない苦笑だった。

 奏の視線が弾かれたように上がる。

 手早く写真を懐にしまい込み、奏の二の腕あたりを引っ掴んだ河井は、一切を無視し行動を開始した。


「ちょ、何するんですか!」

「……お前、とめるだろ?」

「とめるに決まってるでしょう! ……って、ちょ!?」


 部屋の奥の扉の前には、アルファベットと番号が綴られたプレートが掛けられているようだった。

 掠れて正確に読み取れなくなったそれを一瞥し、錆び付いたドアノブを無理矢理回した河井は、飛び込んできた想像通りの光景の中へと足を進める。

 ずらりと。通路に並行する形で、監獄のように並んだ檻。

 外部に面している壁の、高所に取り付けられた小さな窓から、白っぽい光が差し込んでいる。


「……っ!」


 後ろ歩きのような形で引っ張られて来た奏は、まだバランスを取り戻せていないらしい。

 その隙を逃さず、速やかに一番手前の鉄格子の扉を開け放った河井は、これ以上なく俊敏に檻の端にまで彼女を連行した。

 壁際に押し付けるよう。覚束無い奏の千鳥足を払えば、伸びて来た左手に胸ぐらを掴まれ。

 思い切り額をコンクリート壁に打ち付ける羽目になった河井の目の前に、軽く星が飛ぶ。

 しかし奏の方も無事ではなかったらしく。受け身なしで尻餅をつく羽目になった彼女の方から、鈍いうめき声が聞こえた。

 その間、一瞬。

 痛みから先に立ち直ったのは河井だった。頭部装備が功を成したのだろう。

 それでも強烈な一撃によって彼の膝は床に落ちており、無我夢中に彷徨わせた指先に触れたそれを、河井は半ば反射的に奏の足にはめた。

ガチンと。

 硬質な音が反響するその刹那、河井の視界に一閃が過る。


「っ!」


 咄嗟に上体を後方に倒せば、今度は河井の方が尻餅をつく番だった。

 奏のブーツの靴底が、目の前、数センチのところで止まっている。

 その足首から伸びる鎖は壁の中にしっかりと埋まっていたようで、河井の遅れて来た鳥肌が、その身に冷や汗を噴出させた。


「……お、おま……あ、あぶね、あぶねぇだろ!」

「……今すぐこれを外して下さい」

「外せるか! ってかそもそも鍵なんか持ってねぇよ!」


 振るわれた凶器以上に鋭い女の視線が、ぱちりと瞬く。

 意表を突かれたかのように丸くなったその瞳には、一種の可愛さが宿っていたような気もするが。

 相手は超スピードで包丁を振るった上に追い打ちの蹴りまで放つような女だということを、河井は決して忘れていない。


「……あとで糸ノコ持ってくる。ちょっと遅くなるかもしんねぇけど」

「遅くなる、って……。っ、河井さん。ちょっと冷静になってください、良く考えて下さい」


 とっさの行為だったとはいえ、猛獣は鎖で繋いでおくのが一番であると。

 踵を返すべく立ち上がった河井は、早口に追いかけて来た奏の声にその目を細めた。

 中々に頑丈らしい拘束具を外すべく、鎖を引っ張り続けながらも視線を上げてくる彼女は、これから起こりうる事をしっかり理解しているらしい。


「冷静に良く考えて良く見た結果だ」

「自分でそう思ってるだけでしょう」


 淡々とした奏の声が、河井の耳には皮肉に聞こえた。


「お前こそ良く考えろよ。……よく見ろよ!」


 去ろうとする足を、奏がとめる理由。

 それは“全てが分かっているから”に違いなく、それでも河井は先程しっかりしまい込んでいた写真を懐から取り出し、彼女の前にかざした。

 意図せず入手する事になった、決定的なそれだった。


「おかしいだろ! 10年以上前の写真だぞ。普通なら……楠さんはもう、おっさんって言って良い歳になってるはずだろ!?」

「……暗くて良く見えません。人違いじゃないですか?」


 そもそも写真に向けられてすらいない奏の視線に、河井の眉が寄る。

 舌打ちと共に距離を詰め、腰を落とし。

 事実を見せつけるよう写真を突き付ければ、驚くべき速度で伸びてきた奏の指先を、河井の手は速やかに捕らえた。

 放り出された写真が、ひらりと舞う。

 視線の動きを読むまでもない。

 変なところで馬鹿正直な彼女の逆の手をまた捕らえれば、その指先を軽くかすめた写真が、やがて音もなく床の上に落ちた。

 力と力が拮抗する。

 ついでに両者の足下では、写真を巡った地味な靴底の争いが勃発している。

 しかし、奏の片足の稼働領域が拘束具によって狭められているぶん、河井の方が少しばかり有利であり。


「……俺の勝ち」


 まさか、こんなところで腕相撲大会の雪辱を果たす事になるとは思わなかったが。

 奏の手の甲を壁に押し付け切った瞬間、何だか非常に満たされた河井はその口元に勝者の笑みを浮かべた。


「力で、女が男に敵うわけねぇだろ?」

「……伸し掛かっておきながら良く言いますね。重力って知ってます? そんなに余裕なら、ついでに両腕を一纏めにでもしてみますか?」

「………………いや、遠慮しとく」


 奏から放出されるおどろおどろしい殺気に、思わず河井は視線を逸らした。

 片手で奏の両手を抑えるなどという、何フラグなのか分からない暴挙に出る気も当然無い。

 しかし何だろうと勝ちは勝ちだと、己に言い聞かせていた河井はふと、自分が現在まったくもってどうでも良い事を考えているという事に気が付いた。

 そう。今は奪い返したトロフィーを脳内で掲げている場合では無い。


「……ってかお前は知ってたのか? 楠さんが感染者だって」

「……知りません」

「じゃあ今知ったわけか。でもグルだったんだよな? 写真奪って、どうするつもりだった?」

「……。」


 無言の肯定、とは良く出来た表現だった。

 否定は言葉にしなければ伝わらないし、そもそも決定的証拠である写真を奏が奪おうとした時点で、河井は既に確信を得ている。


「……まぁな。大体良く考えれば、人目避けて一人引きこもってる時点でおかしかったんだよな。飯もほとんど研究室で食ってたみてぇだし。研究室あさったときなんか、大量に臓器みてぇなの出て来たし」

「……それは関係ないのでは」

「何が関係あって何が関係ねぇのかとか……もう、分かんねぇよ。感染者に感染者の研究任せるとか、何の冗談だ?」


 写真はもう、奏の手には届かない場所に転がっていた。

 抵抗をやめた腕を解放し、河井が数歩の距離を置いても、彼女の顔は伏せられたままだった。

 奏が何を考え、何を思い行動して来たのかは、やはり河井には到底分からない。

 それでも結局、己が行う事はひとつなのだと。

 数秒待ってみても返されない言葉から踵を返し、証拠を回収し、開けっ放しだった檻を出た河井は後ろ手にその鉄格子を閉じた。


「じゃあなんで私は見逃すんですか!」


 何処までも噛み合ない。

 僅かに裏返った彼女の声の色より、その事実の方が河井にとっては苦かった。


「……お前、人間だろ」







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