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ゾンビから生き残るための百のルール  作者:
第五章、応用編その2
93/109

その86・困ったものに向き合うこと







 しっとりと立ち込める夜霧に、飽和する森の香り。

 奏らが研究所付近の駅に辿り着いたのは、木々の間に酷く儚い月明かりが灯るころだった。

 学校を出発してから、約丸一日。

 気絶と覚醒を繰り返していた男は現在発熱に悩まされているようで、その口数はゼロに等しい。鴉に俵担ぎにされているつま先が、ぶらり、ぶらりと気力の欠片もなく揺れている。

 先を行く鴉らから視線を逸らした奏は、降車したばかりのモノレールを振り返った。

 いつだってキッチリ、かっちり。寸分の狂い無く運行し続けるそれは、今から車庫へと向かうのだろう。

 そろそろ車庫の清掃の時期だなんて頭の隅で考えながら、奏は緩やかに湾曲を描き消えていくモノレールの明かりを、その音が完全に消えるまで見送っていた。


「あのモノレール、欠陥品なんだよね」

「何故だ」


 振り返らないままに呟けば。

 すぐ近くで落ちた声に、奏は足を止めていたらしい鴉の方を振り仰ぐ。


「全然壊れないから。……昔はある程度たったら使えなくなるものが重宝されてたの。でも今は、壊れないものが重宝されてる」


 向き直ってみるもまだモノレールの明かりが視界にちらついて、奏は微かにその眼差しを細めた。

 目がこなれてくれば首を傾げている鴉、そして馴染みの駅構内の様子が少しずつ明らかになってくる。


「それが当然だろう」

「うん。でもやっぱある程度の時間で、ものは壊れるべきなのかもしれない。ずっとそこにあるものっていうのは……良くない」


 馴染みの中に異質を見つけ、奏の足は真っすぐに其方の方へと向かい始める。

 駅の名が剥げ落ちた標識のすぐ足下に、立てかけられていたのは折りたたみ式の台車だった。


「鴉」

「なんだ」

「私、ちょっと忙しくなる」

「だから何だ」


 足を駆け、台車の持ち手部分を引き起こした奏は、改めて鴉の方へと向き直りその手を差し出した。

 数秒の間を置いた鴉も、やがて求められている事柄を理解したのだろう。

 短くうめいた男は半ば夢の中にいるのか、鴉の肩から下ろされたそれが丁寧に台車へと乗せられる作業音の中、言葉は淡々と夜の闇に落ちていた。


「だから……研究所にはしばらく、近づかないで欲しい」


 台車に乗せた男の足を、どうにか吊り上げる事は出来ないかと。

 ロープ片手に簡単な応急処置しかされていない男のつま先を眺めていた奏は、当然落ちた静寂に気付いている。

 それでも鴉の方を見上げることは出来ず、彼女はただ目の前の問題に集中すべく無理やりに手を動かしていた。


「……お前は今から巣に帰るのだろう」

「そうだけど……」

「なら俺の行く場所も決まっている」


 堂々と言い放たれた鴉の言葉は、見事なまでに奏の想定内にあった。

 だからといって、問題が無いわけではない。

 寧ろ此処からが本題であると、奏はそっと男の足にロープを巻きながら、自らのペースの保守を努めた。



「研究所とか、あんたにとって暇なだけでしょ」

「放っておけばお前はすぐ死にかける」

「……もうあんな馬鹿な真似はしない」

「どうだかな……」


 ぼそり、と落とされた鴉の声に何だか普段と違うものを感じ、思わず振り返りかけた奏は、慌てて自制を手繰り寄せる。


「お前はいつも、あの場所に帰る」

「……そりゃ、あそこが私の帰る場所だから」

「ならば俺の帰る場所も」

「いやそれは違う」


 振り返った先の顔が、どんなものなのか。

 嫌というほど分かる気がして、分かるのに何故か振り返りたくなる自分をいさめるよう、奏はゆるやかにその瞼を下ろした。


「気付いたことがある」


 何の説明も無しに、鴉が納得するなど。

 そんな奇跡的観測を抱いていたわけでは無く、説明をしたところで相手が納得するかはまた別の話だったが、それでも奏は自分には、相手に説明を行う義務があるように感じていた。


「なんかね、今のままじゃ問題が多過ぎる。このままだと本当に、身動き出来なくなりそうだから——」


 小雨に打たれながら、モノレールに揺られながら、痛みにうめく男の声を聞きながら、奏はずっと考えていた事があった。

 今回の任務中のこと。感情に流され、散々な結果を導きだしてしまったこと。

 全てに手を出せば、全てが中途半端になるということ。


「一回、持ち物を整理したい」


 奏の結論は、そうだった。

 自分が今まで冷静でいられたのは、じぶんに大事なものが無かったからだと。

 気付いた瞬間に奏の口が漏らした苦笑は、どこまでも苦々しいものだったのである。


「私はあんた程の力も無いし、“これ!”っていう何か一つを決めてる訳でもない。それこそ……例えば今、火事でも起きたら——私、何持ち出すか悩んだあげく時間切れで焼け死にそう」

「そうだな。俺がいる限りは有り得んが」

「そ、そう……。だからそう、とりあえず、身近な問題から何とかしていきたいっていうか。あんた抜きで解決したいっていうか」


 伝わるとは思っていなかった。

 伝わって欲しいとは思っていたが、そのあまりにもか細い希望に、奏は居心地が悪くなる。

 先立って解決すべき問題は、研究所にあった。

 けれどそこに鴉がいることを、奏は許容することが出来ない。

 そんな彼女の隣にしゃがみ込んだ気配は、小さく息を落としたようだった。


「……非常食」

「……なに?」

「お前はこれまで、自分の事だけを考えて生きて来ただろう」

「え? あ、うん」


 問いの意味が分からず、反射的に返した素直な答えに。

 ロープを無意味に弄くっていた奏は、一拍置いて首を傾げる。


「……ってそれ自己中って言われてるみたいなんだけど」

「他のものの事を考えれば、行動が少しばかり鈍るのも当然。つまりお前は最も身近な“他のもの”である俺を一時放棄することによって、少しでも足りない能力を底上げしようとしているのか」

「え? えー……なんかこう、絶妙に違う気が……するけどまぁ、そういうこと、かな……? ってかあんたから“他のものの事を考えて”とかいう言葉が出てくる事に驚き」

「考えているだろう」


 先程からどうにも、鴉の声には疲労感が漂っていた。

 しかし感染者が疲労なんてものを蓄積する筈も無く、気のせいだと自分に言い聞かせながらも奏はつい隣の存在に意識を傾けてしまう。


「俺はいつだってお前の事を考えている。そんな事も分からないのか」


 奏は口から何かが出そうになった。

 河井から言及を受けた時は口から心臓が出そうになったが、それとは違った別の何かに、奏の口はその歯切れを悪くする。


「わ、わかる……けど」

「俺に傷をつける事の出来る存在だというのに、足を捥いだら死ぬと言う。俺の知らん知識を使うかと思えば、不可能が分かり切ったことにいつまでも無様に抵抗する」

「……。」

「持久力が無い上に非力で“その他”にまで助けられ——挙げ句の果てにどうでも良い人間にまで馬鹿にされるお前のことを……俺はいつだって考えているだろう」


 そこまで言わんでも。

 と、反射的に出て来た反論もまた、胸の中から沸き上がる何かによって妨害され、奏は喉の奥で低く唸る。


「べ、別にそこまで考えて貰わなくても結構というか。……まぁあんたが居てくれた方が良いときも極稀に、否、超極稀にあるけど。別に……そばに居てくれって、強制してるわけじゃない」


 それでも何一つ反論しないというのは己の沽券に関わる気がして。奏がひねり出した中途半端な言葉に、返されたのは舌打ちだった。

 ぐっと。

 反射的に奏の全身の筋肉に込められた警戒は、けれど込められただけでそれ以上の反応を示すことをしない。

 舌打ちなんぞをしたわりに、不思議と鴉の身は殺気を滲ませていなかったからだ。


「……お前は妙に俺から離れたがるな」

「…………あれ? なにも妙じゃない気が」

「ならば何故。あの時、俺から離れなかった」


 奏は数秒考えた。

 結果、鴉はついに捏造まで始めたのだという残念な結論に辿り着いた。


「あのー……お言葉ですが。私の方から、あんたにベッタリしに行った覚えは無いと言うか、なんというか」

「非常食……お前ついに脳をやられたか」

「こっちの台詞だっての!」


 心底呆れたように呟かれ。

 思わずぎっとその視線を隣へと向けた奏は、先に合った無感情な瞳にその眉間の皺を濃くさせる。


「側にいただろう」

「いやいやいや。いつの話? 大体、普段はあんたが——」

「俺が寝ていた時だ」


 ほうっ!? と。

 無様此処に極まれり、といった吃驚を吐かずに済んだのは、奏の中の不幸中の幸いだった。

 けれど衝撃が落とした雷の前、小さな幸いは蛍火に等しい。


「より具体的にいうと。お前が一人、その男に会いに行ったときだ」

「……ッ!……あ、あんた……ね、寝てたんじゃ!?」

「においが残っていた」


 奏は穴に埋まりたくなった。ロープを握る両手がぶるぶる震える。


「あの残り香から俺は理解した。お前は俺が眠っているその片時すらも、俺から離れたくないのだと」

「や、や……やめ……」

「こうなると普段、お前が俺から逃げる理由も明らかになってくる。非常食、お前は俺を試していたのだろう……俺がお前を捕獲するに値する能力の持ち主であるかを」

「ち、ちが……違、う……」

「それを理解した瞬間、俺はとても満足した。言葉には出来ない衝動だった」

「こと……ばに……できな……い……」


 酷い胸焼けと羞恥に揉まれ、走馬灯をくるくる回し始めた奏の脳裏が、これ以上無く感動的なBGMを場違いに流し始める。

 何故あのとき、自分は鴉のそばに残ってしまったのか。

 当初を思えば一応明確な目的は存在していたが、今、奏の中にあるのは只果てしない後悔である。

 まさか、臭いで滞在時間までも把握されるとは。確かに室内というものは空気が流れにくいのかもしれないが、それにしたってそんなこと考えもしなかったと。

 もしや眠っている鴉のほっぺをむにむに引っぱったりしていたことも、全て本人にバレているんじゃないかと。

 混乱する頭の中で絶叫する奏を、現実に引き戻すのもまた、全ての根源の声である。


「だからこそ思う。お前が問題をなんとかしようと思っているとしても……俺がお前から離れる理由は無いし、お前がそこにいる以上、お前の巣から俺が距離をおく理由も無い」


 一瞬何の話をしていたのか分からなくなる奏だが。

 それが現在の話題から離れるきっかけになると気付いた瞬間、弾かれたように上がった彼女の顔はまた直に伏せられた。

 彼女が心に負わされた傷は、中々に深かったのである。


「……いや、なるよね? ……そもそもアンタ、部外者……まったく関係ないヒト……」

「……俺はお前を万全の状態で置いておくと決めている。それは俺にしか出来ない事だ」


 つまり鴉は恐らくこう言いたいのだろう。

 足を捥いだら死ぬ上に結果の分かり切った事にいつまでも抵抗し更に非力で持久力もろくに無い非常食の身に、自分の見ていないところで何かが起きては困る、と。

 話の流れを回想することにより、無理矢理に精神ダメージを打ち消した奏は、今になって感染者様に全く己の説得が通用していないことを理解した。


「と、とにかく次のは、私が一人でなんとかしないと駄目な問題だから」

「……これまでは違ったのか?」

「い、いやまぁこれまでもそうだったけど……これからの事は、ほんとに……ほんとに、あんたには関わって欲しくない」


 こうなってはもうゴリ押し、直球勝負しか残されていないと。

 変化球をバットごと打ち返されたような気がしてならない奏は、深呼吸と同時に腹をくくる。

 先程の多大な精神ダメージのお陰か。羞恥心が若干機能不全に陥っている今こそが、本心を口にする最初で最後のチャンスだった。


「大事にしたいから。……足を踏みつぶすのはやりすぎだと思うけど、あのとき怒ってくれて、嬉しかったから。あんたは“自分が馬鹿にされた”って思ったのかもしれないけど、そりゃ自分が馬鹿にされたらムカつくのは当然だけど、只の利害の一致とかなのかもしれないけど」

「……。」

「私は、嬉しいって思っちゃったから。……だから私は、私に出来る範囲で、あんたのことを大事にしたい。ちゃんとしたいって思った」


 偽らない言葉というものは、纏まらない。

 しどろもどろになりながら、それでも伝えられること全てを伝えようと言葉をかき集める奏の脳裏に、自身の住処である研究所の姿が浮かぶ。

 真っ白で、同時に真っ黒な研究所。


「だからあんたには、離れてて欲しいの。何があるか分かんないけど、私は研究所の中にいる限り大丈夫だから。あんたは……あんたは外にいる限り、大丈夫でしょう? 死なない……でしょう?」


 研究所は鴉にとって危険すぎる。

 それは当然のことで、間違っていないことで、この調子で研究所を訪れ続ければ、いつか彼は目を覚まさなくなる。

 大体そうでなくとも、今の研究所は色々と危ういのだ。

 去り際に河井が見せた不審を塗り固めた表情が、奏の中にはくっきりと不穏の形として残っている。


「どこに居ようと死なん」

「世の中には不確定要素ってのがあるの。何が起きるか分かんないのが一番怖い、だから」

「お前にとって一番怖いのは、大事なものがなくなる事ではなかったのか」

「だから……だからそうなんだってば!」


 言い切れば顔に集まった熱を、奏はかぶりを振ってふり払う。

 

「あんたが私を大事にしてくれるみたいに、私もあんたを大事にしたい」

「……。」

「だから……信用して欲しい。無理かもしれないけど。私は……あんたが選んだ、非常食なんでしょ?」


 馬鹿みたいな言葉だった。

 じぶんがどれだけ馬鹿なことを言っているのかも、奏は一応、理解していた。

 それでも馴染んでしまった気配が、隣にある存在が消えるのは、もう絶対に御免だった。


「研究所は、あんたがいるべき場所じゃないの」








  ・    ・     ・







「彼、人間じゃないですよね」

「そうですね」

「君は……おかしい」

「……そうでしょうか?」


 いつから覚醒していたのか。

 呻きを固めたような男の声に短く返しながら、奏は一人、ごとごとと台車を押す。

 薄暗い山中、それなりに舗装されているとはいえ山道が伝える振動は、男の足先にそれなりの痛みを与え続けているようだった。

 それでも通い慣れた道である以上、奏の足は余計な迂回をすることもなく一直線に目的地へと向かっている。

 問題に全く関係のない感染者から足を踏みつぶされる羽目になった男には、多少の同情を禁じ得ないが。そもそも感染者とは理不尽な存在であるはずだと、脂汗を流し続けている男を意識の外へ追いやった奏は、やがて現れた研究所の壁に沿うようにまたしばらく足を進め続けた。


「やっほー、おかえり?」


 そうするとやがて見えて来た、小さな明かり。

 裏口の戸をあけている人影に軽く目を細めた奏は、少しばかりぬかるんだ地を蹴る速度を早めた。

 台車の上の男がまた呻いたが、全速力で駆け出されなかっただけマシであると思って欲しいところである。


「……すみません、お待たせしましたか?」

「河井君たちがさっき帰って来たから。そろそろかと思ってね?」

「……河井さんは?」

「部屋帰って寝たんじゃない? ずっと寝てなかったみたいだよ?」


 相変わらずの上司の軽い言葉に。

 一瞬その足を止めた奏は、やがて「そうですか」、とだけ小さく零した。


「やっぱり、疲れてたんですかね……」

「そうだね、色々思うところもあったんじゃない? 感染者は外見変わらないし、脳にとっては中々の違和感だよね。何年越しの再会ってなると、精神的に疲れるのかも?」


 楠の言い分はどこかズレているような気がしたが。

 確かにそういった部分もあるのかもしれないと、奏は軽く頷いてみせる。


「……飯島所長は」

「ああ、今ご飯食べに行ってる……けどまぁ、さっきバレた」

「え」

「でもそいつ、前に此処の誰かから拳銃奪った奴なんだよね? その辺交えて、こう……ゴリ押しで?」


 ならばわざわざ裏口に回る必要は無かったんじゃないかと。

 反射的に思ってしまう奏だが、結局のところ飯島の許可が有ろうと無かろうと、人目につくと不味い事柄を自分らが行っているのに変わりはないと。

 結局何のコメントも返さないままにぐっと台車の端を踏みこんだ奏は、翻った白衣の裾を追うべく、男を乗せた車輪を裏口の段差に乗り上げさせた。

 みな寝静まっている時間なのか、今のところ通路に人の影は無い。


 それにしても。

 今回の件に飯島の許可が降りたというのが、奏にとっては少々意外だった。

 飯島が人という物資に対し、非常に貧乏性である事を知っていたからである。

 しかしそこには、誰かがしなきゃいけないこと、という部分が深く関わっていたからかもしれない。

 静まり返った廊下に響く車輪の音に緊張を高めながら、奏は先をいく白衣の後ろ姿にそっと伺うような視線を向けた。


「それで」

「?」

「鴉君は?」


 ガタガタと車輪が軋む。

 機材搬入用のスロープを注意深く下りながら、奏は振り返らない研究者の姿へと、静かに平坦に言葉を落とした。


「逃げられました」

「……“逃げられた”、ね」


 ボサボサの髪の毛が落とした息は、溜め息なのかどうなのか。

 相手が此方の言葉を信じていない事くらい、奏は百も承知だった。

 けれど今、彼女の手の中にあるのは折りたたみ式の台車の取っ手。

 誰が、それを駅構内に置いたのか——その部分を考えれば、奏はいっそう楠の考えていることが良く分からなくなった。


「あー……やっぱ変質したか。ま、代わりにこれが有るからいっか……」

「……。」

「ってか。奏ちゃん、なんでこの人死にかけてんの?」


 不意に。

 今の今まで完全無視されていた台車の上の男を振り返った楠に、奏の視線が絶妙に泳ぐ。


「ちょっとこう……色々有りまして。恐らく足先の複雑骨折からの発熱かと……」

「……足先の複雑骨折? それってもしかして――」

「と、とりあえず熱をさげないと不味いですよね」

「……っ、あははははは! そ、そうだね。あ、足先の複雑骨折だからね? っ、と、とりあえず奏ちゃんには水を用意して貰うにして……もうちょっと時期が早かったら氷がいくらでもあったんだけどね?」


 一体何がツボに入ったのか。

 まるで幼子のようにからからと笑い始めた楠に、一瞬、全ての経緯がバレてるんじゃないかと思わされてしまう奏だが。

 とりあえず、ある程度男の体調を回復させない事には、どうにもこうにも出来ないらしいと。

 思考を切り替え、男を楠の研究室に搬入しかけた奏は、少しばかり遅れて上司の足が止まっていない事に気が付いた。


「研究室じゃないんですか?」

「そうだね、本当はそこが良いんだけどね? 隣の実験室、鴉君用に改造したままだから? ちょっと遠くまで運んでもらうけど……良いよね?」

「……はい」


 地味に墓穴を掘ってしまったような気がして、奏の視線はまた逆方向へとふよふよ流れる。


「……み、水の件ですが。水に塩を入れたらこう、いい感じに冷たくなったりしませんか?」

「それ氷水に塩入れるってやつだよね? そりゃ多少温度は下がるだろうけど、氷が無いと実感レベルの効果は得られないよ」

「……そういえばなんで、氷水って塩を入れると温度が下がるんでしょうか」

「融解熱とかエントロピーの話になるけどそれ、興味ある?」


 正直ありません。

 と奏が言わずとも、そもそも楠自身に説明する気がなさそうだった。

 次第に寡黙になり始めた研究者は、恐らくこれからの実験に思いを馳せているのだろう。

 それとも、もしかすると。

 やはり鴉を“逃がした”ことに対して楠は若干怒っているんじゃないかと、奏は湧き始めた少しばかりの後ろめたさに、そっとその視線を床へと落とす。


 鴉を置いて来た事に対する後悔は、微塵も無かった。

 けれどもそれは、研究所にとっての損失。代わりの感染者を捕まえて来いというのなら、今からでも出立して良いと奏は思っていた。

 しかし、研究所を出るという事は、置いてきた鴉と再会するという事。

 あまりにも早い再開は正直間抜けすぎるうえに、別れ際の鴉の形相を思えば、彼との再会はもう少し先延ばしにしたいなんて思ってしまう彼女である。


 そう。

 結果的に言えば奏の真心はなんとか通じたようで、鴉はあのあと渋々何処かへ行ってくれた――のだが、その際、彼は苦虫を百匹以上噛み潰したような顔をしていた。

 目には不服を、眉には苛立ちを、その背後にはどす黒いオーラを背負ったまま去って行った感染者様は、現在間違いなく何処かで八つ当たりに励んでいることだろう。

 しかし。実のところ今問題なのは鴉ではない。

 奏の胸に立ち込める暗雲の上、呑気にも寝ている河井は確実に、研究所の触れてはいけない部分に気付き始めている。


「……。」


 楠には言えない。飯島にも言えない。

 仲良くなってしまった同僚の身を思えば、彼女の中の憂慮は分厚さを増す。

 けれど実のところ問題は、それだけと言うわけでもなく。


——研究所は、あんたがいるべき場所じゃないの。

——……あいつは別なのか。

——あいつって、河井さん?


 別れ際に交わした言葉が、また別のざわめきを持って奏の脳裏で繰り返され続けている。

 去り際に落とされた鴉の不服に、奏は何も言葉を返せなかった。



——違う。俺と“同じ”、あいつだ。






この章はここで終わりになります。

物語も終盤に差し掛かりますが、これからもお付き合い頂ければ幸いです。

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