その85・利益のない我慢はしないこと
「餌を奪われると思ったのか」
「……何の話?」
4階への階段を駆け上がる途中。
突如背後で落とされた声に、奏は振り向くことなく問い返す。
「お前が箱の中に隠している人間の話だ。“その他”に言わなかっただろう」
「ああ……それの話ね」
今は正直、別のことで頭が一杯いっぱいだったのだが。
薄暗い階段の先を見上げていると、当然のように繋がれた手の先からどうにも無言の圧力を感じ、奏は渋々理由となる言葉を探した。
待機を了承した感染者様が、大人しく待っていてくれただけでもう十分。あんたいつから盗み聞きしてたのなんて、答えの分かり切った問いを投げかける元気は、残念ながら今の奏には無い。
「……理解しにくいと思うから、かな」
「何をだ」
「私にとって、あの男は殺してやりたい人間だけど。河井さんを納得させるのは、難しい」
「“その他”の頭が弱いという話か」
「え。い、いや違う」
階段の最上段を強く踏み込み、4階の廊下へと躍り出た奏は、廊下を射し始めた西日にその目を細める。
急がなければ、けれど先に行った2人と鉢合わせしては元も子も無いと。
何も知らず帰った河井らとの距離間隔、そして移動時間を頭の中でざっくり計算しつつ、奏が向かうのはロッカーにしまっておいた男の元だ。
このまま放置し餓死させるのも悪くはなかったが。
このご時世、どんな理由があろうと無駄が忌むべきものであることくらい、一応彼女にも分かっている。
「“犬が殺されたから”ってのは、誰もが納得出来る理由じゃないの。 “昔からずっと一緒にいた”とか“兄弟みたいなものだった”って言っても、河井さん一人っ子だったみたいだし。特に分かんないと思う」
「良く分からん」
「……あんたも、兄弟とか分かんないよね」
感染者に家族は存在しない。
食事がそのまま生殖となっている彼らに、“家族”や“兄弟”を理解する事は不可能だといってもいい。
知識によって上っ面くらいは理解出来たとしても、幼少期の思い出も、肉体が衰える不快感も、恐らく未来を見据えるという思考回路すら存在していなさそうな彼らは、結局のところ人の着ぐるみを被っただけの人ではない生き物なのだ。
すなわち感染者である以上、肉親関係を理解することが不可能なのは、鴉も例外ではないと。
早急に諦めた奏は廊下を闊歩しつつ、話題と思考回路を速やかに元の位置へと戻す。
「感染者に理解されないのは納得出来るけど、人から理解されないとモヤッとするから……腹立つし」
「理解されることは必要なのか」
「……!?」
なんだか小難しいことを言われた気がして、奏は怪訝に鴉を見上げた。
問いに深い意味が無いことは分かっていたが、純粋な疑問符と共に何処と無く煩わし気に眉を寄せられれば、奏としてはかえって返答に困る部分がある。
「そ、そりゃ必須ではないけど。でも理解して貰えてる方が色々便利だし、それに……わ、分かってもらえたら嬉しいなー……みたいな?」
「ならば不要だ」
「そ、そう……かな?」
そういえば感染者には兄弟親子の絆どころか、仲間意識すら無かったんだと。
同族をもりもり食べていた鴉に、横繋がりの理解を求めるだけ無駄だと言うことに気が付いた奏は、そういえばそもそも自分だって、誰かに理解を求めるような習慣は無かった筈だと、また生まれた疑問符に首を捻った。
「あ……もしかしたら今までは、理解して欲しいって思うような相手がいなかったのかも」
「これまで不要だったのなら、これからも不要だろう」
「た、確かに」
ふと湧いてきた苦笑を噛めば、何となくスッキリした気持ちに一つ頷き、目的地である教室の前で奏は来た道を振り返る。
雲を通した西日はいつもより格段にまろやかだ。
勢いを弱めていた雨はどうやら一時的にやんでいるようで、口と足を止めれば途端に身を包む静寂の中、奏は改めて向き直った教室の扉へと手をかけた。
「まぁでもとりあえず、一応理由は用意してたりする」
「? 犬が殺されたからでは無いのか」
「いや流石にそれだけだと私怨まみれで外聞が悪いと言うか。ほら、あんたも前に“食べる訳でもないのに人間同士殺し合うとか馬鹿”みたいなこと、言ってたよね」
常識だけでなく、感染者からまでも己の執着を否定された衝撃は中々に大きく。
だからこそ今回の計画を思いついていた奏は、きっちりロープが巻かれたままのロッカーに向かいつつ、軽く鴉を振り仰ぐ。
「ああ。無益だ」
「だからあの男は、益になるように使おうと思う」
鴉の方から顔と視線の向きを戻した奏は、微かにロッカーが揺れる様を見た。
当然だが、どうやらちゃんと生きていたらしいと。
もやい結びをさっさと解き、鴉に一旦手を離させた奏は、速やかに回収し切ったロープを小脇に抱えロッカーの扉をぞんざいに開く。
そこにあった男の酷く不服そうな顔に飛び跳ね、彼女の胸の内をくすぐっていった感情を何と呼ぶのか。
「どうも」
ざっと見る限り、男の身体を縛っておいたロープに弛みは無いようだった。
相手の口を塞いでいたテープを引っ剝がした奏は、特に返事を求めないまま、縄に手をかけ成人男性の身体をロッカーの中から引きずり出す。
「……これから僕、どうなるんですかね?」
「研究所に来てもらいます」
ゆっくりと口を開いた男は今のところ、大した抵抗をする気は無いらしい。
しかし念には念をとロープを相手に巻きなおしながら、奏は平坦に答えを返した。
「……? 一日中重労働でも、させられるのかな?」
「あなたと同僚とか冗談でもやめてください。良く分かりませんけど多分、一日中同じ部屋に居続けることになると思いますよ。死ぬまで」
拘束の具合を確かめていた奏の指先に、微かな男の身体の強張りが伝わる。
落ちた無言は、思考の時間か。
すぐさま言葉を重ねて来ない辺り、男は奏の言葉の意味するところを悟ったようだった。
「……そこまでされるような事、した覚え、ないんだけどな」
「そうでしょうね。さっさと立って貰えます?」
「女の人は執念深いよね。他にすることが、無いのかな?」
「多忙ですよ。あなたよりは余程」
「そうかな? 復讐は何も生まないらしいけど」
男の声色に変化は無い。
それでも返される言葉の早さから、奏は相手の焦りを感じる。
「使い古された言葉ですね」
「先人が出した結論は、聞いておくべきだと思うな」
「私の復讐が何も生まないものだとしても、あなたを見逃す理由もないんです」
復讐のために生きて来たとは言わない。
生き残ることだけを考えて、生き抜くために、只の子供だった自分は飯島のスパルタ修行を耐えぬいた。人間の限界が綿密に計算されたあの鬼畜トレーニングプランの日々を思えば、復讐なんて、考える暇も無かったというのが奏の正直なところである。
しかし今は違う。運だけで生き残っていた子供は成長し、目の前には大切だったものを奪った存在がいる。
男の顔を見たあの瞬間、再会が呼び起こしたフラッシュバックによって弾き出された結論が、間違っているとは到底奏には思えなかった。
「君は人が生きる為に犬を食べる事を否定するひとなんだね」
けれど。
同時に奏は、自身の中の常識が訴える後ろめたさを払拭しきれていたわけでもない。
「……っ、それは」
「君の犬のおかげで、人が一人生き延びる事が出来てる。名誉なことなんじゃないかな」
「……勝手なこと、言わないでもらえます?」
堂々と男に弁じられれば、奏の感情の蓋は容易に軋んだ。
感情的になれば辛いのは自分で、分が悪くなるのも自分の方だと、握りこぶしを固める彼女の手の中、つっぱった手袋の布が引き攣れたような音を滲ませる。
「生命線、って言葉がありますよね……人のそれを奪っておきながら、その言い草は無いんじゃないですか?」
「ちょっと、大げさなんじゃないかな」
「あの頃はまだ一人で生きていけるほど強くなかったんです!」
「だから、考え過ぎだと、僕は言っているんだよね。熱くならないで冷静に考えてみるべきですよ。ああ、でも君くらいの年頃だと、仕方ないのかな」
ぶちん、と心臓の血管が切れたかのような音がした。
濁流のように押し寄せて来た熱さは一瞬にして消え去り、焼けた思考回路がちかちかと点滅する。
これだから嫌だった。奏は目の前が歪んだ気がした。平静を保つ上っ面なんて、いつだってこの男の前では紙くず同然である。
そんな中、みちっと。
「調子に乗るなよ」
すぐ近くで正体不明の音が軋まなければ、奏が無意識に振り上げていた拳は男の頬をえぐっていた事だろう。
「お前に馬鹿にされる覚えは無い」
落ちた不機嫌な声と、先程の音の正体に引かれるよう。
無意識に流した視線の先で——奏は驚愕を見ることになる。
「……!? な、何してんの!?」
その言葉が皮切りとなったのか。
耳元で弾かれたような絶叫が上がり、奏は思わず顔を顰めた。
栓の抜けた絶叫は、止まる事を知らない。縛られたまま後方に倒れ込んだ男の身体が、それから逃れようともがき転げ回っている。
もはや、男に冷静な思考は無いのだろう。
それを理解する奏自身、視界にある光景から目を離す事が出来なくなっていた。
投げ出された男の足先は、鴉の靴底に縫い止められていた。
「踏んだ」
「いやそれは見れば分かるけど! なんで!?」
「こいつは俺を馬鹿にした」
鴉の靴の下で、どんどん男の足が平べったくなっていく。
乾いた小枝が折れるような軽やかな音が変に場違いで、奏には鴉の言葉が理解出来ない。
「他にすることが無いだの、大げさだの、考え過ぎだの——つまり、こいつは俺の非常食を、取るに足らないことにいつまでも頭を使い続けている馬鹿だと言った」
「ちょ、え……え?」
「こいつは俺を、“低能で愚かしく下らないものに頭を使い続ける馬鹿”を選択する、それ以上の馬鹿だと言ったということだ」
とりあえず鴉が、激昂している事だけは良く分かる。
非常食と言ってしまっている辺りもそうだが、何より淡々と言葉が紡がれるにつれ尖っていく空気は尋常ではない。
「えー……い、いや!? 多分そこまで考えてないと思うしそもそも、非常食に頭の良さを求められても——」
「なら、奏」
言葉がこぼれ落ちた。
まるでゾンビのように緩慢な動きで視線を持ち上げた奏は、口を半開きにしたまま、その先にあった鴉の表情を見つめる。
初めて見る顔だった。
「奏。俺はお前が馬鹿にされると腹が立つ。分かったか」
しばらく反応できずにいた奏は、鴉の眉間に新たに刻まれた皺に気付き、慌ててその首を縦に数回振る。
そんな情けない肯定に、けれど相手は満足したのか。
ふっと緩んだ鴉の表情に、少しばかり気の抜けた奏ははっと我に返り、大急ぎで男の方へと顔を向きなおさせた。
「え、えっ……と。と、とりあえず分かったからその人の足踏むの止めてあげて。あんたの馬鹿力で踏まれ続けたら自力で歩いて貰えなくなる」
「担げば良いだろう」
「っていうか多分もう手遅れ……って。あ、あんたが担いでくれるならそれでも良いけどね……って」
恐らく、自分は全く冷静では無かったのだろう。
そんな事実に奏が気付いたのは、いつの間にか男の絶叫が止んでいる事に気が付いた瞬間。
どうやら気絶してしまったらしい男の生気の抜けたような有様に、数秒後、奏の口から漏れたのは深い溜め息だった。
机の角にぶつけただけで痛い足先を、踏みつぶされたらこうなるも当然だろう。
鴉の馬鹿力に加え、“みちっ”とか音がしていた時点で、男の足はまず間違いなく骨折してしまっている。
以前、捻挫で相当面倒な思いを味わわされていた奏は、しばし頭を悩ませた。
まず、自力で歩かせるのは不可能。
炎症やら内出血やらで患部が腫れてくることを思えば、気絶している今のうちに、男の靴は脱がせておくべきか。
しかしそれら全てを置いて、何よりも問題なのはやはり男の体格だった。
「えー……担いで、もらえますかね」
「お前の頼みなら聞いてやらんでも無い」
飄々とのさばった感染者様が目を瞬かせる様に、奏は軽い目眩を覚えた。
胸の内を燻った感情の正体に、答えを出さねばならない気がした。




