その95・ライバルとは一度正面からきっちりぶつかっておくこと
扉を跳ね飛ばした先。
奏はまず真っ先に、真正面にいた楠と目があった。
そしてそれを頭で認識する頃にはもう、彼女の目は対峙している二人の像をしっかりと捉えていた。
「おかえり、奏」
いつものように何処か嬉しそうな声を投げてきた飯島は、既に二箇所、白衣を黒く染めている。
その時点で。
奏の心臓は絞られたかのように萎縮するが、それ以上の戦慄を彼女に覚えさせたのは、壁を背に、飯島と対峙している河井の頬を伝っていた鮮血である。
「……っ!」
何故、彼は頭部装備をしっかりと着用していないのか。
それは“爆弾発言に対し衝動的に行動してしまった結果、装備をずらしっぱなしにしている事を忘れていた”という河井にとっては未だ気がついていない程のうっかりが原因なのだが、そんな事は当然知らない奏は、その眉間にくっきりと濃いしわを刻んでいる。
しかし、ともかく、今は何を置いても成さねばならない事があると。
「逃げてください、飯島所長」
その一点にのみ集中した奏は、全力疾走によって上がった息を整えつつ、なるべく平坦な声をブザー音に負けないようはっきりと発音した。
一歩、二歩。
張り詰めた二人の場の方へと歩みを進める奏は、細いロープの上を連想する。
睨み合う両者の視線は、第三者に向けられる事はない。照準をぴくりとも動かさない河井も、そんな彼を見据え続けている飯島も、決して警戒の糸を緩めようとはしなかった。
一歩が、酷く危うい。
何が引き金になるか分からない中、奏は身体を押し戻させるような抵抗を、そのつま先で少しずつ切り開いていく。
「原因は分かりませんが、所内は混乱しています。この警報は……?」
「あ、僕。僕がやった。検体が解放されたんだよ」
「……そうですか。ではこの隙に、早く逃げてください」
飯島と、河井の間。
地雷原の方がマシだと思いたくなるような二方向からの殺気に包まれながら、奏は仁王立ちになり飯島を見上げた。
「奏……」
「早く!」
驚くように見開かれた瞳を、微かに揺らしたのは迷いか。
相手のそれを押しつぶすため鋭い一喝を飛ばした奏は、その指先で開け放たれた扉を指した。
それ以上の何かを言う気は無いのだと。
ぐっと顎を引き、奏が視線に懇願にも近い意思を込めれば、見返す飯島がほんの僅かにその目を細めた。
警報の声だけを響かせる沈黙の間は、全ての者の息を殺させる。
「……行くぞ、楠」
「え、僕は」
「御託は後で聞く」
それでも、やがて。
踵を返した飯島を確認すると同時、奏は速やかに逆方向へと向き直る。
そこにあった河井の視線は、未だ飯島の方を追っていたが。
その意識はしっかりと此方にも向けられているのだと、彼女はほんの少し息をつきながらも即座に理解する。
「……奏。この馬鹿が開放した検体、全て始末しておいて貰えるかね?」
「了解しました」
河井の視線の動きからして、飯島は一瞬扉付近で立ち止まったらしい。
けれど了承を確認すると同時、その後ろ姿はすぐさま扉をくぐりぬけたようで、一部始終を見送っていた奏はひるがえった白衣の行き先を少しばかり思った。
無事、逃げられるのか。逃げて――どうするのか。
けれどそれも刹那の事。
変化した気配に即刻床を蹴った奏の身体が、ほぼ同時に飛び出しきた河井のそれと衝突する。
「ッ!!」
バランスを崩したのはどちらも同じだったが、より大きく体勢を崩していたのは彼女の方だった。
だがその手はがっちりと彼の腕を引っ掴んでおり。
相手を引き倒すように己の身体のバランスを整えなおした奏は、体重と腕力によって河井の身体を部屋の奥へと転がし、扉の前に立ちはだかる。
「追わないで下さい」
「……どけよ」
「どうしても追うと言うのなら」
受身を取った河井のやや乱れた髪の隙間。
隠す気もないのだろう、威嚇と殺意がごちゃ混ぜになったような視線を、奏は静かに見据えた。
ゆっくりと、深呼吸を行う。
「どうぞ。どかせてみて下さい。力尽くで」
引き抜かれた刃。
武器を構え、視線をぐっと固定した奏は、蛍光灯の反射にその目を僅かに細めた。鏡面のような輝きを持つ、芸術品かと思うほどに磨き上げられた包丁は、何故だか武器には見えない。
けれど確かに変わった空気の中。
刃を逆手に持ち替えた奏は、目を見開いた河井へと踏み込み、その腕を伸ばした。
動作に慣れた身体は、まるで他人のものかと思うほど滑らかに動く。
掴んだ肩口を手前に引き、裏返してその脳幹に刃を突き立てる……といった辺りまで綺麗に想像してしまった奏は、空を切った左手の感想に悩んだ。
ここは、舌打ちをするべきなのか。
河井は、速やかに後方へと距離を取っていた。
「っ、ちょ、おま……ま、待て!」
「……追う気、なくなりました?」
「馬鹿言ってんじゃねぇよ! ってか人に包丁向けんな!!」
開いた距離は、即座に詰まる。
それでも決定的な間合いは許されず、喚きながらも的確に身を翻す河井に、奏はちょっぴり感心した。
恐らくは武器の特性上、彼は距離を保つ事に慣れているのだろう。
「拳銃持ってる人間が何言ってるんですか」
「この状況で……っ、手放せるか!!」
非常に的を射た河井の言葉に、奏は妙に納得した。
しかし、彼には撃つ気などないのだと言うことくらい分かっている。
そして、自分にだって彼を傷つける気などないのだと。
思えば只持っているだけでしかない武器に、追撃をおこなう奏の首が少しばかり傾く。
「……馬鹿みたいだって、思いませんか?」
「は!?」
「河井さんはこんな事のために強くなったんですか?」
「いや。いやいやいや、俺の行動妨害してんのはお前だろ!?」
「私の行動を妨害してるのも河井さんなんですけどね」
「お前が引けば良いだけの話だろ!」
「そっくりそのまま返します」
鳴り響き続ける警報の中。
片や包丁、片や拳銃。
それを手に行っているのは主張の張り合いであり、決定的な力量差が無い限り決着が長引くのは必然であると。
距離を詰める者と開く者のイタチごっこに、いち早く気がついたのは奏の方で。
「埒が明かないんですよ」
大きく踏み出した影で速やかに彼女がその武器を収納すると同時、河井の足が微弱ながらにたたらを踏んだ。
彼の背後で跳ね飛ばされた椅子を、奏は視界の端で捕らえている。
恐らく、彼はそれが何だったのかも分からなかっただろう。奏としても、何故デスクから離れた場所に椅子が転がっていたのかなんて分からない。
けれど、確かにそれは好機だった。
河井の防護服の肘と肩口辺りを引っ掴み、急激に低くした身を相手の身体の下に潜り込ませれば、あとは重心差によって斜面を転がるように崩れる。それを奏は知っていた。
「――ッ!?」
鈍く。
河井の身が華麗に決まった背負い投げにより床を打てば、すぐさまその上に奏の膝が乗り上がる。
「私の、勝ちですね」
にやりと。
反射的に口角を吊り上げてしまいそうになる奏だったが、そんな彼女の表情はマスクの下に隠れている。
一方、何が起きたのかと目を白黒させていた河井は、漸くにして現状を把握したようで。
歯軋りすら聞こえてきそうな苦渋が吐き捨てたのは、呪いの言葉かと思うほどに濁ったそれだった。
「お前……まじで……何考えてんの?」
「自分のことです」
さらりと。
憤怒の極みらしい河井を涼やかに見下ろした奏は、淡々と相手の質問に答えた。
「自分のことしか考えてませんよ。河井さんだって、そうでしょう?」
「っ、俺は――!」
「あなたは。あなたが、感染者を殺したいだけじゃないですか」
事実を落としてやれば、奏の視線の先、河井の眉間が見事なまでのしわを刻んだ。
「それの……何が悪い」
「悪くないですよ。河井さんは正しい。他の誰が何と言おうと、間違いなく河井さんは正しいです。ただ――私はあの二人を追って欲しくないだけです」
自分達は、自分がしたい事をしようとしているだけだ。
その点において何の変わりもないからこそ、今こうして衝突しているのだと。
馬鹿みたいに単純な衝突の理由を思う奏の口から、やがて漏れたのは小さな息だった。
「お前……」
「理屈でいきましょうか」
感染者か、人間か。
そんな、感染者に対し潔癖すぎるほどの河井の二分を、今更変えさせることなど奏には出来ない。介入しようの無い部分である。
となれば彼女に出来るのは、己の知りうる限りの現実を提示してみせる事だけで。
「あの二人の逃亡によって、被害が広がる可能性は皆無です。飯島所長は壊すの苦手みたいですし、楠さんから研究を取ればもう何も残りません」
ひとつひとつ、奏は言葉を整理した。
彼女が上司らと過ごした年月は、当然河井よりも長い。
だからこそ断言できる部分もあるのだと、仏頂面の彼は分かってくれているのか、いないのか。
分かっていても納得するかどうかはまた別問題なのだが、その辺りを考え出すと何も言えなくなると、奏は黙々と言葉を落とし続ける。
「秘密を暴いた時点で、河井さんの勝ちなんですよ。あの二人は積み上げてきたものを全て失った。再構築は……まぁ不可能でしょうね。となると残るは、上で暴れまわってる検体です」
「……。」
「それを始末する力が、河井さんにはあるんじゃないですか? なのにこんな所で何やってるんですか。……というか」
顰められた河井の顔を見下ろすうち、奏の中にふつふつと湧き上がってくるものがあった。
話を聞いているのか、反論を考えているだけなのか分からない河井の表情もそうだが。
何よりも彼の頬にこびり付いた鮮血が、奏の目には妙に鮮やかに映り続けていたのである。
「ゴーグルもヘルメットもつけず怪我までして、馬鹿ですか!?」
頂点まで達したイライラをぶつけるよう言葉を吐いた奏は、次の瞬間、何故か己の喉が引き攣るのを感じた。
驚くように丸まった河井の目に、舌打ちをしたくなる。
「……気付いた事があるんです。私は、感染者を殺すために強くなったんじゃない。大切なものをもう二度と失わないために強くなったんです」
「……。」
「それに気付かせてくれたのは鴉と……河井さん、あなたじゃないですか。なのに、なのにあなたはこんな無謀な事をして……っ!」
障害を排除する。
それは暴力的ではあるが、奏にとってとてもスマートな問題解決方法だった。
けれど。それのお陰で今回、彼女は“大切なものを守るため大切なものを排除する”なんて、本末転倒な思考回路に陥る羽目になっていた。
どうすれば良いかも分からず。
本当は鎖を断ち切る気力も沸いていなかったのかも知ない、そんな彼女の手を引いたのは、まず鴉だった。
そして、自分は障害排除なんかのために強くなったのではないのだと。教えてくれたのは河井だったのだと。
ぐっと眉を寄せた奏は、理不尽な怒りを覚えていた。
どうしても、殺せなかった。
どうしても生きていて欲しかったその姿が、無鉄砲に突っ込んだ挙句どこからどう見ても追い詰められ怪我まで負っていたという有様は、彼女にとって到底許しがたかった。
もしも自分が間に合わず、飯島に首でも捻じ切られていたらどうするつもりだったのか。
河井を殺せず葛藤していた自分が、本当に馬鹿みたいではないかと。
「対感染者だって事くらい分かっていたでしょう!? なのに、何やってるんですか死にたいんですか!? 自分の命くらい大事にしてください、というかついでに、救える命があるんだから救いに行ったら良いじゃないですか! なんであの二人を追うんですか!!」
「え、ち、ちょっと待てお前。な、なんでってそりゃ」
「河井さんがあの二人を追う限り、私には止める義務があります。でもこんなことしてる場合じゃないんですよ、河井さんは……何のために強くなったんですか?!」
一気に吐き出しきった奏は、なんだか頭に鈍痛を感じた。
頭に血を上らせすぎた所為だろう。
これだから嫌なのだ、と。何に対してか分からない愚痴を脳内で零しながら、奏は何処か呆けたような河井の表情を見つめる。
感情論抜きにして説得するつもりが、なんだかつい捲くし立ててしまった言葉の羅列を、彼は脳内で整理してくれているのだろう。
「なんでって……感染者を殺すために、決まってんだろ」
「……。」
「でも、そうだな。お前の滅茶苦茶な言い分聞いてたら……ちょっと、冷静になった」
両手をぱたりと耳の上に上げて見せた河井のジェスチャーは、降参を示したものなのか。
何にせよ彼にはもう戦意が無いらしいということを悟った奏は、ゆっくりと相手の身体の上から身をどかせてみる。
重い溜息と共に上体を起こした河井は、未だ何らかの葛藤を抱えているのか。
がりがりと頭を掻く様子をどこかぼんやりと眺めていた奏は、やがてギッと向けられた視線にその目を瞬かせた。
「優先順位」
きっぱりと言い切り腰を上げた河井に習い、奏もその場に立ち上がる。
「上の検体片付け終わったら、次はあの二人ってだけだ。……言っとくけどな、見逃す気はねぇよ」
低く。
落とされた声と威嚇するかのような視線に、一瞬間を置いてしまった奏はすぐさま深く頷いた。
「……はい!」
「ちょ、お前……見逃す気はねぇって言ってんだろ、嬉しそうな顔すんな!」
「大丈夫です河井さん、途中まではお供しますよ」
「……そりゃどうも……」
何が大丈夫なんだ、とかなんとか。
ぶつくさ落としている河井を背に、奏は扉の方へと足を向けた。そうと決まれば急がなければならないのである。
自分にはまだやることがあるし、上に置いてきた鴉の事も気になると。
背後の河井からの微妙な視線に気付かず廊下へと出た奏は、しかし即座に、それを発見してしまった。
「河井さん」
「なんだよ」
「すみませんが、お供は此処までです」
「はあ!?」
遅れて扉を潜り抜けた河井には、すぐさまそれが分からなかったのだろう。
蛍光灯を反射させる、白い廊下の影。
ペタリ、ペタリと、酷く緩慢に二人の方へと向かって来ていたのは、実験室から解放されたのであろう検体である。
「……私は、あれを始末して行きます」
「ん? ……ってあれ、只のゾンビじゃねぇか」
「……そうですね。でも河井さん、先を急ぐんでしょう? こんな所で無駄弾使わず、どうぞ行って下さい」
奏は一直線にそれを見つめていた。
背後の河井が、微かに迷うような気配を落とす。
「……まぁ、お前がそう言うなら」
「ああ、あと河井さん。ちゃんと傷口は塞いでいってくださいね」
「へ?」
「目元、切れてますよ。あと、河井さん」
げっ、とかなんとか。
どうにも間抜けな声を漏らしている河井に、奏は簡潔な己の結論だけを落とした。
「楠さんは多分、人間ですよ」
「は!?」
「物的証拠というか液体的証拠を見ていないので、これは私の推測ですけど……」
「推測かよ! じゃああの写真はどう説明すんだ、年齢が」
「確かに写真とは違いますね。でも冷静になって良く考えれば分かると思います。という事で、早く行って下さい」
しっ、しっと。
奏が片手で軽く払うような仕草をして見せれば、先程より大幅に迷わされた河井の気配。
それでも、やがて。
地下まで反響してきた銃声により、彼の意思は固まったようだった。
「っ、後でお前も手伝えよ!?」
「……はい、後で」
意を決したかのように駆け出していく足音を見送った奏は、改めて目の前のそれに対峙した。
一人になると途端に、鳴り響く警報が耳につき始める。
全てが、酷く懐かしい気がした。
友人が、食われていた。
コンビニの店員さんが食われていた。
じぶんを押しのけ、先に走って行った人が食われていた。
十年前のあの時を思えば、奏だってゾンビに対し全く恨みが無い訳ではない。
けれど、彼女の最も大切だったものは人間に食われたのだ。
「……。」
しかし、違う。
もう、そうじゃないと。
意識してゆっくりと深呼吸を行った奏は、目の前にいる“もう人間ではないもの”を見つめる。
片足を引き摺りながら近づいてくるそれは、ナメクジの這い跡のように床に黒液をこびり付かせていた。
性別は、男性。
その濁った目玉はもう光を映さない。その覚束ない右手と引きずられた足は、餌のみに惹かれ動き続ける。
「……ただの、ゾンビか」
奏は、刃を抜いた。
仇だった者を前に胸に過ぎったそれを、寂寥感とは呼びたくなかった。