第17話:新緑の円柱と等価交換の臨界点
昼休みのチャイムが鳴ると同時、俺の机の前にはいつも通りの二人が現れた。一ノ瀬葵と、千歳だ。
「……高坂くん」
一ノ瀬さんはタッパーの中を覗き込み、満足そうに頷いた。
「見事ね。昨日の私の要望を完璧に反映し、初夏の瑞々しい新緑を、動物性脂質の装甲(豚肉)でタイトに拘束しているわ。この円柱の並び、幾何学的にも非常に美しいわね」
「一ノ瀬さん、だからそれはただの『アスパラの肉巻き』だって。言われた通り緑を意識して、今回は醤油じゃなくて塩レモン味でさっぱり仕上げてみたんだよ」
「わあ、美味しそう! 昨日のこってりしたお肉も良かったけど、こういうシャキシャキしたやつも最高だよね!」
千歳がマイスプーンを握りしめ、お腹を鳴らしながら身を乗り出してくる。
「……高坂くん」
一ノ瀬さんが、いつもの儀式を執行するように、スクールバッグの奥底から小さな、だけど驚くほど重厚なプラチナ製のケースを取り出した。
「今日の私は、その『塩レモンの清涼感』を極限まで引き上げるため、一ノ瀬家の総力を挙げた『等価交換』の品を持参したわ」
一ノ瀬さんが厳かにケースを開けると、中には、まるで宝石のようにカッティングされた、見たこともない琥珀色の結晶が入っていた。
「これは……何?」
「ふふ、驚きなさい。イタリアのアルバ産、100グラム数万円は下らない最高級の『白トリュフソルト』よ。この結晶をその肉巻きの表面に一振りしなさい。そして、その新緑の円柱を二本、私に割譲するのよ」
俺は、その美しく輝く琥珀色の結晶と、一ノ瀬さんの大真面目な顔を交互に見つめた。
そして、ふと思う。
(……待てよ。今までの高級調味料は、ソースや味噌みたいな、すでに完成された濃い味に足そうとしてたから破綻してたんだ。だけど、今日のおかずは、ごくシンプルな塩コショウとレモンだけの味付けだ。もし、この極上の香りを、あの豚肉の脂身とアスパラの水分に掛け合わせたら……?)
いつもなら即座に押し返していた俺の手が、今回はピタッと止まった。
「……一ノ瀬さん」
「な、何かしら。また『バランスが崩れる』と却下するの?」
「いや。……その塩、ちょっとだけ、本当にひとかけらだけ、この肉巻きに乗せてみてくれないか?」
「えっ……!?」
一ノ瀬さんが、まるで国家間の歴史的な条約が締結されたかのように、驚愕の表情で目を見開いた。
「高坂!? いつも頑なに断り続けてた高級調味料を、ついに受け入れるの!?」
千歳も驚いて椅子をガタッと鳴らす。
「試してみる価値はあると思ったんだ。一ノ瀬さん、本当にちょっとだけだぞ」
「わ、分かったわ……!」
一ノ瀬さんは緊張で指先を少し震わせながら、ピンセットのような小さなトングを使い、白トリュフソルトの小さな結晶を、俺の肉巻きの上にそっと一振りした。
パラッ……。
その瞬間、熱々の豚肉の脂に触れた結晶から、信じられないほど豊潤で、大地の底から湧き上がるような官能的な香りが、シュワッと教室中に広がった。
「な、何この匂い……!? すごく高級なレストランの匂いがする……!」
千歳が鼻をひくひくさせて驚愕している。
「よし、じゃあ今日の『休戦協定』だ。一ノ瀬さん、千歳、食べてみてくれ」
俺が綺麗に等分した肉巻きを手渡すと、二人はゴクリと喉を鳴らし、その未知なるハイブリッド料理を同時に口へと運んだ。
さくっ……ジュワッ……。
もぐもぐ、もぐもぐ……。
二人の動きが、過去最大級の衝撃を伴って、完全にフリーズした。
数秒の後、一ノ瀬さんは顔を両手で覆ったままガタガタと震え始め、千歳は「んんんんんんーーーーーっっっっっ!!!!!」と言葉にならない絶叫を上げてのけ反った。
「……ああ、神よ……っ!」
一ノ瀬さんは、感動のあまり目元に涙を浮かべながら、トロンとした声で呟いた。
「何ということかしら……! 豚肉のジューシーな脂とアスパラのシャキシャキとした水分が、白トリュフの圧倒的な香りと出会うことで、大衆惣菜から『至高の宮廷料理』へと完全変態を遂げているわ……! 私の持ってきた調味料が、あなたの料理と初めて、完璧な協和音を奏でたわ……っ!」
「うっま……! 何これ、意味分かんないくらい美味しいよ高坂! 塩が、お肉の甘みを何倍にも引き立てて、レモンの酸味と香りが鼻から抜けていく……! ああ、ご飯が、ご飯が勝手に喉を通り過ぎていく!!」
千歳は狂ったように自分の白米をかき込み、幸せの絶頂に浸っている。
「……大成功だな」
俺も一口食べてみたが、確かにこれはヤバい。庶民の知恵と、お嬢様の財力が、奇跡の化学反応を起こしていた。
「高坂くん……!」
一ノ瀬さんは、すっかり空になった箸を胸元に抱きしめ、頬をこれ以上ないほどの幸福な桜色に染めて俺を見つめた。
「ついに、等価交換が成立したわね。……私、確信したわ。あなたと私のデータが完全に融合した時、この世界に新しい食の歴史が刻まれるということを」
「いや、ただのお弁当のおかずだからね? 歴史は刻まないよ」
「ねえ高坂! 明日もこの塩使おう! お願いだから、明日はこの塩に合うお肉料理にして!」
「千歳、お前はただ高級な塩の味を覚えただけの野良犬みたいになってるぞ!」
二人の女子の、いつもより一段と熱を帯びたリクエストを浴びながら、俺はすっかり軽くなったタッパーを見つめ、心地よい達成感と共にため息をつくのだった。




