プロローグ
「最初に言っておこう。俺は君を愛することはない」
結婚式を終えたその夜のこと。元ヴァーレン伯爵令嬢クレアは寝室で夫になった男の発言に驚愕した。
(え……何を言っているの、この人?)
一瞬、何を言われたか分からなかった。耳を疑う発言に困惑し、言葉を失う。
唖然とする新妻を、夫アントンは傷ついているとでも思ったのか、バツが悪そうに顔を背ける。
「俺は忙しい。頻繁に戦場へと出陣するため、妻に愛情を与える余裕などない。俺に愛されたいと望んでいただろうが、諦めてくれ」
眉間に皺を寄せてそう告げるアントンに、クレアは絞り出すような声で「……さようでございますか」とだけ返した。
「君には妻としての役割を果たしてもらいたい。このフォード辺境伯家の女主人として、家と領民に尽くしてほしい」
「はあ……分かりました」
呆然と返事をするクレアに、アントンは「話はそれだけだ」と一方的に会話を終わらせた。そんな夫に、クレアは心の中でこんな思いを抱く。
(何て自意識過剰な人なの……。やだ、気持ち悪い)
徹底した淑女教育のおかげか、その心の内を表に出すことはなかった。
もし出していたら、生理的嫌悪で顔を歪めていたであろうことは間違いない。
初夜の床でクレアは思う。最悪な相手と結婚してしまった、と……。
*
王都でいくつもの大商会を営み、国内の商業流通の大半に影響力を持つ、王国でも有数の資産家――ヴァーレン伯爵家。その家の娘であるクレアは、十八の歳にひと回りも年上の男と政略結婚をした。
相手は王国北部の国境を守る辺境伯、アントン・フォード
この結婚には中央と辺境伯家との繋がりを強固にするという目的があった。
ヴァーレン伯爵家は国でひときわ大きな影響力を持つ。国内の主要都市に商会を持ち、さらに近隣諸国との交易にも手を広げている。領民の生活はどこよりも豊かだと言われていた。
それに対し、王国の北に位置するフォード辺境伯家の所有する領地はお世辞にも豊かとは言えない。どこよりも冬が長いため、作物が育ちにくく、また隣国との国境に接しているため諍いが多く、軍事費に予算の多くを割り当てることを余儀なくされる。
国境を守る役目を担うフォード家に、中央が支援をするという形で結ばれた婚姻。そう、これは王命によって定められた婚姻だった。
父親と同年代の男に嫁ぐことになっても、クレアに異存はなかった。
政略結婚なのだから、そういうものだと受け入れていた。
本音を言えば自分と同年代の相手がよかったが、そう我儘も言っていられない。何不自由のない生活の代わりに、国や家の利益となる結婚をすることは貴族としての義務だから。
どちらかと言えば、クレアよりも彼女の父親の方がこの婚姻に難色を示していた。
可愛い娘を自分と同年代の男に嫁がせねばならないのか……と。
しかし王命で決まった以上、異を唱えることもできない。父親は泣く泣くクレアを辺境に嫁に出した。嫁ぎ先で軽んじられないようにと、相場の倍以上の莫大な持参金と共に。
王命での婚姻。中央と辺境を結ぶ架け橋となる覚悟をもってクレアはフォード辺境伯家に嫁いだ。政略ゆえ、最初から夫に愛など求めていない。それよりきちんと役目を果たせるのかという不安が心を占めていた。
そんな自分に、夫となった男がかけた言葉が「愛するつもりはない」という、実にくだらないもの。
その時、クレアの心は夫から急激に離れて行った。まだ近づいてすらいないというのに。
(どうして、この人はひと回りも年下の妻から当然のように愛を請われると思っているの? どこにそんな自信があるの?)
若い妻が自分の愛を求めている、と当然のように考えているアントンがクレアは本気で理解できなかった。仮に自分が夫の立場だったら、恥ずかしくてとてもじゃないがそんなことを口に出せない。十代の若い女性が、三十を超えた自分の愛を当然のように求めているだろうという自信だって持てない。むしろ「父親と同年代の男に嫁ぐなんて嫌だろうな……」と遠慮してしまうと思う。
それなのに、よくもまあ恥ずかしげもなく「俺からの愛を期待するな」という発言が出来たものだ。その自信はむしろ見習いたいほどだ。たしかに夫は背も高く体格もよく、見目もそれなりに良い。だが、それだけだ。別に絶世の美男子というわけでもないのに、どうして初対面の若い女から好かれて当然と思えるのか。その根拠のない自信にクレアの方が恥ずかしくなってしまう。
そんな自意識過剰な夫に、結婚初日でクレアが抱いた感情は「この人、気持ち悪い」だった。あまりの気持ち悪さに、夫から言われたことを実家から連れてきた侍女に愚痴をこぼしたら、侍女達は顔を強張らせて「まあ、気持ち悪い」「……すごい自信」と驚いていた。妻だけでなく、妻の侍女の評価も初日でだだ下がりだということを、当のアントンは知らない。




