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晩冬の京に響いた突然の隠居宣言の後、足利義輝はまともな供回りもつけず早々に京を去って東海道に入っていた。
山科を越えれば膨大な水を湛えた淡海・琵琶湖が目に入り、ほう……と彼は感嘆の声を上げた。
朽木は向かう時などに淡海を見たことはあれど、そうしてただその美しさに感嘆する余裕など今まで一度もない。
湖畔の茶屋で一息つきながら、ぼんやりと考えていたのはこれからの事であった。
当座の目的地は師匠・塚原卜伝の生誕地である鹿島神宮であるが、急ぐ旅ではないのでちょこちょこ寄り道をしながら歩く予定だ。
それとは別に、気にすることが一つ。
「新しい名前、どうするか……」
足利の名を捨てて暮らすので姓も変えるのだから名前も変えるべきか?と考えていたのだ。
周りの人間からすると今考えるべきはそこじゃないのだが、本人にとっては結構大切な問題であった。
なんせ今の自分は剣術家であり、将軍ではない。
ぼんやりと冬の空を見上げていると、幼児の頃の記憶が蘇る。
『菊憧丸、雪遊びはほどほどにな。風邪を引くぞ』
そんな遠い日の記憶が冬の空に浮かんでは消えていく。
「菊憧……菊堂……?」
ふと焦点が定まったように足元を見下ろし、その地面に足原菊堂と書いてみる。
(これだ、これが私の新しい名前だ!)
師匠の名前にかつて背負っていた姓、そして父から貰った幼名がカチリとはまったような気がした。
新しい名前は決まった。ここからはこの名前を背負い、新しい人生を生きていくのだ。
*****
新しい名前を決めたところで、再びその足は東へと向かっていった。
近江を出ようという頃、後ろからつけられている気配を感じ、じっとその視線の気配を辿る。
感覚を研ぎ澄ませてじっと世界を見繕えば、木陰に1人と草むらに1人。敵意というほどのものは感じられない。暗殺というよりも監視、というところか。
「何の用だ?」
返事はない、まだ誤魔化せると思っているのだろう。
小さくため息を吐いてから近くに落ちていた小石をふたつ拾う。
右手と左手にその小石を握ると、視線の主を狙って同時に投げつけた。
すると2人は同時に姿を現した。
どちらも同年代くらいの男だが、片方は僅かに見覚えがある。
(あれは確か六角の抱える忍びだったか……)
もう1人は見覚えのない様相をしている。恐らく織田か徳川で雇ったのだろう。
「で、そこな忍び2人は何の用だ?」
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