第五話:空白地帯の住人たち
静寂が耳に痛い。
つい数秒前まで鳴り響いていたドローンの駆動音や、アスファルトを叩く追手の足音が、まるで映画の音声をミュートにしたように消え去っていた。
そこは、取り壊しを待つ古い地下劇場の跡地だった。
カビ臭い空気と、無数の配線がのたうち回る薄暗い空間。その中心で、少女は物理的なモニターの光に照らされ、不敵に笑っていた。
「……ここが、『死角』か」
「正確には、あたしの能力で認識阻害のプログラムを上書きし続けてる空間。外からは、ただの『立ち入り禁止の廃墟』にしか見えないよ。たとえ目の前を歩いていてもね」
少女は椅子をくるりと回転させ、俺を正面から見据えた。
間近で見ると、彼女の瞳には微かに電子回路のような光の紋様が走っている。
「自己紹介がまだだったね。あたしはリコ。見ての通り、この腐った監視社会の綻びを繕ったり、逆に広げたりして遊んでるハッカーだよ」
「佐藤悟だ。……いや、もうその名前で呼ばれることもなくなるのか」
「正解。あんたの戸籍は、さっきあたしが『不慮の事故で死亡』として処理しておいたから。おめでとう、おじさん。今日からあんたは幽霊だ」
リコがキーボードを叩くと、壁一面のモニターに俺の「遺影」と、今朝の満員電車の事故を捏造したニュース記事が映し出された。手際の良さに、背筋が寒くなる。
闇に潜む「同類」
「……それで、俺をここに連れてきてどうするつもりだ? 助けた見返りに、何か働かせるのか」
「おじさん、勘違いしないで。あたし一人の力じゃ、今の管理局を抑え込むのは無理。だから、あんたみたいな『強力なデバイス』が必要だったの」
リコが指を鳴らす。
劇場の暗がりの奥から、いくつもの気配が動き出した。
壁際に立つ大男: 物理的な輪郭が常にブレており、直視しようとすると頭痛がする。
天井の梁に腰掛ける少年: 彼の周りだけ重力が歪んでいるのか、衣服が上に向かってなびいている。
隅でナイフを研ぐ老婆: 彼女の影は、本体とは別の動きで周囲を警戒していた。
「みんな、管理局の『保護』――っていう名の解体から逃げてきた連中。ここは、普通の生活を捨ててでも『自分』でいたい奴らの吹き溜まりだよ」
俺はジャックを試みようとしたが、反射的に脳が拒絶した。
彼らの「視界」は、どれも狂気に満ちているか、あるいは人間とはかけ離れた異質な情報に溢れていることが直感でわかったからだ。
社会の裏側
「佐藤、あんたの能力は『視覚を奪う』ことじゃない。対象と意識を同期させ、その情報を引き出すことだ」
リコが真剣な表情で歩み寄る。
「管理局は今、ある巨大なプロジェクトを進めてる。異能者の脳をネットワーク化して、この国すべての意思決定を自動化するシステム……『預言者』。あんたはその中核ユニットとして、最高ランクの適正があると判断されたんだよ」
俺が社畜として頭を下げていた日々。その一分一秒までもが、奴らに監視され、採点されていた。
利用される。殺されるよりも不快な、魂の収奪。
「……断ったら?」
「あはは、選択肢なんてないよ。外に出れば、また五分で見つかる。でも、あたしたちと一緒に『預言者』のサーバーを物理的に叩き壊すっていうなら、話は別だけど?」
リコが差し出してきたのは、端子がむき出しになった、歪な形状のコンタクトレンズだった。
「これをつければ、あんたのジャック範囲は半径五百メートルまで広がる。……その代わり、脳のヒューズが飛ぶ確率は跳ね上がるけどね」
俺は、差し出されたレンズを見つめた。
安全な監獄か、破滅への片道切符か。
遠くで、地下劇場の重い鉄扉が、外部からの衝撃で激しく震えた。
「掃除屋」たちが、この死角の入り口を見つけ出そうとしている。
「……有給休暇の延長には、ちょうどいい刺激だな」
俺は迷わず、そのレンズを指先に取った。
つづく(第六話:視覚拡張の代償)




