09:新しい居場所
胸が締め付けられるような怖い夢はみなかった。
ふわふわのパンに囲まれて、ベッドにしたり飛び跳ねたり、少しだけ食べてみたり。そんな子供の妄想みたいな優しい夢だった。
近くで物音がしたような気がして、私は心地よい微睡みから目を覚ます。ぼんやりとした視界の中、目に映ったのは見慣れた自室の天井では無い。
ここはどこだろうと視線を動かすように身動ぎをすれば、私の肩に毛布が掛けられていることに気がついた。赤い色の毛布にはウサギのワンポイント刺繍がしてあって可愛いなと思い少し頬が緩む。そして何よりもあたたかい。
「……やっと起きたか」
突然男性の声がしたので、私は驚きから肩を大きく揺らし飛び上がる。
そして勢いよく振り向けば、清潔に整えられた漆黒の髪に、鋭い目つきの黒い瞳のエプロン姿の男性がそこに居た。
「え、えっ……?」
何度か瞬きをした後、ようやく頭が覚醒してくる。
ここが今朝訪れたパン屋さんの奥の部屋で、彼がパン屋さんの店員さんだということに気がついた。
私がこのお店に来てなんやかんやあり部屋で店員さんを待つことになり、待ちきれず美味しいパンを食べた。そしてお腹がいっぱいになり、眠くなってしまった所までは覚えていた。
睡魔の誘惑に勝てずにいつの間にかぐっすり寝てしまっていたようだ。
他人の部屋で待っている時に勝手に眠るなんて失礼極まりない。しかも見知らぬ男性の部屋で寝るだなんて、貴族令嬢どころか普通に女性としてはしたないどころの騒ぎではない。
自分がやらかしたことに気がついて、色々申し訳なくなって青ざめる。私は慌てて立ち上がり深々と謝罪をする。
「……す、すみません。私、いつの間にか寝てしまっていて……」
「随分ぐっすりだったな。女性である以上もう少し警戒心を持った方がいいとは思うが、そんなに疲れていたのか?」
「は、はい……歩き疲れてて……勝手にここで眠ってしまい、本当に申し訳ございません……」
怒ったように細められた目で指摘されて、私は顔を真っ赤にして俯く。怒らせてしまったかと思って心臓が跳ねて胸を抑える。泣いてはダメだと唇を噛み締める。
そんな私を見て店員さんは少し困ったように頬をかいた。
「……心配しているだけで怒っていないから気にするな。俺は昔からどうも目付きが悪くてな」
「ありがとう、ございます……」
その言葉にほっと胸をなでおろす。私が勝手に怯えていただけなのにそう説明してくれる優しさが嬉しかった。
恐る恐る視線を上げて彼と目を合わせれば、確かに目付きは鋭く冷たく見えるがその瞳には心配の色が映っていた。
安堵し落ち着いてよく考えてみれば、確かに見知らぬところで眠りこけるなんてとても危ないことだと気づく。
下手したら寝ている間にお金を取られたり、誘拐されたり酷い行為をされていてもおかしくない。そっと確認すれば私の鞄は無事だし、何かされた様な形跡はなくてほっとする。
それと同時に心配してくれた彼のことを疑ってしまい申し訳ない気持ちが襲ってきた。
ふと鞄の中の無事だったお金の袋を見て、まだ食べたパンの代金を払っていないことを思い出した。
「そ、そうだ。パンのお金を払わせてください……!」
「そういえばそうだったな。ちょっと待ってろ」
そう言って彼は部屋の奥に行き、何かを手にして戻ってきた。机に置くとかなり重そうな音を立てて、なんだろうと私は目を丸くする。
見てみればそれは可愛らしい花柄のクッキー缶だった。
彼が蓋を開けるとそこにはクッキーではなく、銅貨がみっちり入っていた。
「これでお釣りが払えるといいんだが……」
パン二個に対して銀貨では多すぎると、沢山の銅貨に変えて貰うことになった。沢山ある銅貨を彼は一枚ずつ数えていく。
結局缶に入っていた銅貨を全部私へ渡した。お金を入れる袋がじゃらじゃらと重くなって、どうしてパンを買ったのにこんなにお金が増えるのか分からず首を傾げた。
「まったく、長年貯めていたへそくりが銀貨に変わるとは……多少銅貨が足りないのは申し訳ないが、両替の手間賃とお前さんの勉強代として貰っておくぞ」
「えっと、ありがとうございます……?」
「……本当に世間知らず過ぎて、騙されないか心配になるな」
そう呟きながら彼は空っぽになったクッキー缶に銀貨をそっと一枚入れていた。貯めていた銅貨を貰うことになってしまい少し申し訳ない気持ちになった。
とりあえずパンのお金を払うという目的は果たしたので、もうここを出るべきだろう。
その前にこれだけは伝えておきたかった。少し目を泳がせてから大きく息を吸い口を開く。
「……あの、店員さん……チーズパンとメロンパン、とても美味しかったです……!」
「……そうか。ありがとう」
それまでほとんど無表情か怒ってそうな顔をしていた彼は、私の言葉を聞くと嬉しそうに柔らかく微笑んだ。そんな顔もできるのかと驚きからか胸がざわめく。
緊張したけど美味しかったと言ってよかった。私も料理をした時に、食べてくれた人が美味しいと言ってくれたら嬉しいもの。
「い、いえ……こちらこそ、ありがとうございます」
私は店員さんの優しさゆえにこの美味しいパンが食べられたのだ。銀貨しか持ってない時点で店を追い出されてもおかしくなかったのに、こうして対応してくれた。
だからこそ感想とお礼の言葉を口下手でもちゃんと伝えられてよかった。
私が立ち上がろうとする直前、マークさんが口を開いた。
「そうだ……今更だが俺はマーク。ここのパン屋の店主をしている」
「えっ、店員さんじゃなくて店主さんだったんですね……!?」
「まぁ、継いだのは最近のことだけどな」
そう言って彼は頷いた。
見たところ私より少し年上ぐらいの男性がお店の店主をしていることに私は驚いてしまった。働いているだけでもすごいのに、自分のお店を持っているだなんて尊敬を抱く。
私が目を輝かせていれば、彼はコホンと咳払いをして私を真っ直ぐ見つめた。
「それでお前さんは?」
「私は……ア、アデラです……」
私は家を出た身であるから、ムーア侯爵家の名前はもう名乗れない。しかし言い慣れず、不自然に思われないだろうかとオドオドと視線を動かす。
「アデラか。それで、これからどこに行くつもりなんだ」
「…………わ、分かりません。でも、どこか遠くへ行きたいと……思って、います」
「……そうか、やっぱり訳ありみたいだな。
まず、遠くに行くなら歩きにも限度がある。金貨か銀貨しかないってことは、乗り合い馬車にも乗ったことないんだろう。とりあえずは今渡した銅貨を使えばいいが、その様子だとぼったくられるか全部奪われそうだ」
「えっと……」
乗り合い馬車とはなんだろう、と思っていればそれが伝わったのか眉間に皺を寄せていた。
彼は私の話を聞いてため息をついた。それに気がついて肩がビクッと震える。私は会話が下手なため、人と話しているとため息をつかれることが多い。彼も不快にさせてしまったのだろうか。
縮こまる私に、彼はお茶を淹れてくれていた。
「まぁそうだな。とりあえずお前さんの口には合わないと思うが飲んでみろ」
「お茶……! え、えっとお金……」
「俺が飲みたい分のあまりだから、別にお金はいらない。さっき払いきれなかった分もある」
「……ありがとうございます」
お金を取り出そうとすれば眉をひそめられ、ピシャリと断られてしまった。
ご厚意に甘え飲んでいいのかと目の前のお茶を見つめていたが、喉の乾きに気がついた。家を出てからしばらく水分をとっていないし、寝起きなのもあり喉がカラカラだった。
私は恐る恐るカップに口をつける。
確かに飲み慣れない味だったが、香りが強くなくて飲みやすい。それに素朴で優しい味は私好みだった。
冷えた身体にはとても温かく感じて心まであったかくなる。涙脆くなってしまったのか、また涙が出そうだった。
「……お茶、とても美味しいです。ありがとうございます」
「そりゃ良かった。口に合わないからと床にぶちまけられたらどうしようかと思った」
「そ、そんなことしません……!」
せっかく人に淹れてもらったお茶をそんな粗末に出来るはずが無いと勢いよく首を横に振る。
それに彼自身が手にしているティーカップは白地のシンプルなものなのに、私のものには可愛らしい模様が入っていた。きっとお客さん用なのだろう。
ふいに、昨日婚約解消と聞いて落として割ってしまったティーカップを思い出した。その時の光景が頭に浮かび、顔色が悪くなりこのティーカップだけでも落とさないようにと指先に力が篭もる。
「……すまない、俺の勝手な貴族のイメージを言っただけだ。アデラは俺の思っているような貴族とは全然違うな。美味しいと言ってもらえて嬉しいよ」
マークさんの言葉で昨日の光景から現実へと戻ることができた。そして私の対応はやはり貴族らしくないのかもしれないと不安になる。それでもマークさんは嬉しいと言っているからいいのだろうか。
……そこで私は違和感を持ち首を傾げる。
「…………えっ、あのっ! なんで私が貴族って分かったんですか?」
彼は私が貴族だと知っているような口ぶりだった。
しかし私は侯爵家の紋章がついたものは全て置いてきたし、私は貴族だと自己紹介はしていないはずだ。まさか寝言で言ってたのだろうか。
「……そうだな、まずはあまりにも世間知らずすぎる。よく一人で外に出られたなと思うぐらいには。
それに一目見た時から良いところのお嬢さんだってのは分かってたよ。髪質も所作も庶民とは全然違うからな。
それで商家のお嬢さんか、貴族の令嬢がお忍びで来たかに絞れるが……商家のお嬢さんならもっと物事を知っていて慣れてるはずだしな」
その言葉にぐうの音も出ない。今までの私は紛れもない箱入り娘だった。こうして外に出て初めて知る事ばかりで、知らないことが多すぎる。
「遠くに行きたいというのは勝手だが、忠告はしておく。今のままじゃ良くて家の人に直ぐに見つかる。それで下手したら犯罪に巻き込まれて酷い目に遭うと思うぞ」
「そんな……でも私、家にどうしても帰りたくなくて……」
手を握りしめる。私が帰ってもエミリーとリチャード様の婚約の邪魔になってしまう。それに、私があのまま屋敷で暮らしていくなんて、悲しみに耐えられるか分からなかった。
でもこのまま一人で歩き続けて犯罪に巻き込まれたら、想像も出来ないほど酷い目に遭うかもしれない。そう思うと怖くて指先が震える。
「なにか事情があるのか?」
その問いかけに、私は涙目でこくりと頷いた。
少し悩んだような素振りの後、マークさんが口を開く。それは私が予想していない言葉だった。
「じゃあ、ここで働いてみないか?」




