第一話 スコップ
生ぬるい夜風が、アルコールで火照った頭に心地よかった。安い居酒屋で3時間ほど流し込み、千鳥足の後輩・中村を引き連れて店を出たところだった。
路地を曲がった瞬間、中村がすれ違いざまに男と肩をぶつけた。
「あ、すんません」
中村が即座に頭を下げる。
「おい、てめえ今ぶつかったよな」
ドスの効いた声。見れば、いかにもな柄の悪い男が中村を睨みつけていた。
「ほんますんません。大丈夫ですか?」
「ああ? 大丈夫なわけねえだろ」
男の背後から、ゾロゾロと似たようなツラが湧き出てきた。全部で6人。
田中はため息を1つ吐き、中村の横へ進み出た。
「すんません。こいつ酔うてましてね。ぶつかったんはこっちが悪かったです」
腰を低くし、頭を下げる。
「ほら、中村。もう1回ちゃんと謝っとけ」
「す、すんませんでした」
「これで勘弁してもらえません?」
田中としては、穏便に終わらせるつもりだった。幼い頃から街の喧嘩に明け暮れてきたが、もう好き好んで拳を交える歳でもない。自分たちに非があるなら頭を下げればいい。それで済むなら、その方が圧倒的に楽だった。
「謝ったら済むと思ってんのか、コラ」
「ほんますんません。こっちが悪かったんで」
「舐めてんのか、てめえ」
「いや、舐めてませんって。もう勘弁してください」
男が胸ぐらを掴んできた。田中はまだ手を出さない。
「離してもらえません?」
「うるせえ!」
大振りの右拳が視界を遮る。田中は首をわずかに傾けてそれをかわした。その瞬間、瞳の奥から酔いが消え、冷ややかな色合いが宿る。
「……先に手ぇ出したん、お前やからな」
胸ぐらを掴む男の腕を捻り上げ、力任せに引き寄せる。硬い額を、相手の鼻柱へ叩き込んだ。ゴツッ、と嫌な音が響き、鼻血を噴き出した男が膝から崩れる。
「てめえ!」
後ろの1人が殴りかかってくる。田中は体勢を低くして拳を潜り、無防備な腹の中央へ拳をめり込ませた。くの字に折れた男の顔面へ膝蹴りを叩き込み、そのまま路地へ転がす。
3人目が背後から抱きついてきた。後ろ肘を鳩尾へ打ち込んで拘束を解き、振り向きざまに顎下へ掌底を突き上げる。脳を揺らされた男が泡を吹いて倒れた。
4人目と5人目が同時に詰めてくる。間髪入れず、1人の襟首を掴んで街灯の柱へ叩きつける。横から飛んできた拳を懐に入って殺し、そのまま短く振った拳で顎をぶち抜いた。
綺麗な打撃でもなければ、華麗な型があるわけでもない。掴めるなら掴む。殴れるなら殴る。膝が入るなら叩き込む。路地の闇の中で身体にしみついた、泥臭い生の喧嘩だった。
最後の1人が、足をもつれさせながら後ずさった。
「もうやめるんやったら、それでええぞ」
男が周囲を見渡す。仲間は全員、路上で呻き声すら上げられずに転がっていた。恐怖で顔を歪ませながらも、男は狂ったような声を上げて突進してきた。
「アホか」
直線的な突進を軽くかわし、レバーへ1発。前屈みになった顔面へ膝を叩き込む。6人目が車道の端へ転がっていった。
「帰るぞ、中村」
「田、田中さん、ほんま強いっすね……」
「強いんちゃう。慣れとるだけや」
2人はその場を後にした。中村は興奮冷めやらず、さっきの喧嘩について捲し立てている。田中もアドレナリンが残ってはいたが、もう終わった話だと思っていた。
暗い夜道を歩いて数分。背後から荒々しい足音が近づいてきた。
「田中さん、後ろ!」
「あ?」
振り向こうとした瞬間。後頭部へ、鉄の塊でも叩きつけられたかのような猛烈な衝撃が走った。足元から世界がグラリと傾く。立て続けに、頭部へ追い打ちの衝撃。視界が明滅し、意識のタガが外れた。
「この……」
膝から崩れ落ち、額がアスファルトへ落ちる。そのまま、田中の意識は真っ暗な底へと落ちていった。
◇
頭が割れるように痛い。
「……っ」
田中は薄目を開け、後頭部へ手を伸ばした。触れた箇所が脈打つたびに、激痛が脳を揺らす。
「頭やられたんか……くそ、油断した」
最後の記憶は、中村の叫び声と、背後からの卑怯な一撃。6人をまとめて転がした後だったから、完全に気を抜いていた。
「後ろからやりやがって……」
舌打ちしながら身体を起こそうとして――違和感に気づいた。身体が、重い。
「……なんやこれ」
冷たく湿った感触。下半身に、大量の土が被さっていた。完全に埋まっているわけではない。横たわった身体へ雑に土をぶち撒けられたような状態で、上半身と片脚はほとんど外に出ている。腰からもう片方の脚にかけてだけが、重い土の下にあった。
両腕に力を込め、上半身を起こした。その時、すぐ近くの暗がりからカサリと音がした。顔を上げる。深い闇の向こうに、人影が6つ、ゆらりと揺れていた。
「……まだおったんか」
不意打ちで頭を殴られた直後だ。田中の気は荒立ったままだった。6つの影が、奇妙な声を上げながら距離を詰めてくる。
「ギャッ!」
「ギギャッ!」
「何言うとんねん」
先頭の影が、手に持った鈍器のようなものを振り上げ、一直線に躍りかかってきた。
「まだやるんか、こら!」
体勢を立て直そうと、地面へ手をついた。指先に、冷たく硬い「柄」の感触が触れる。考えるより先に、反射でそれを掴み、土の中から強引に引き抜いた。ずりずりと土を割って出てきたのは、平たい鉄製のスコップだった。
「なんでこんなもんが――」
疑問を深める暇もなく、影が眼前に迫る。
「邪魔じゃ!」
田中は座り込んだ体勢のまま、スコップを遠心力任せに横薙ぎに振り抜いた。ガンッ! と、鈍く重い金属音が夜の森に響き渡る。鉄の刃が影の側頭部へ直撃した。小柄な身体がコマのように回転しながら横へ吹き飛び、地面を転がっていく。そのまま、2度と動かなくなった。
「……は?」
殴りつけた田中の方が一瞬動揺した。人間相手の喧嘩と同じ力加減で振っただけだった。それにしては、手に伝わった手応えがあまりにも脆い。
「なんやこいつ……」
残りの影が一斉に殺気立ち、飛びかかってくる。
「知らんわ! 来いや!」
2つ目が棍棒を振り下ろしてくる。田中は埋まった片脚を引き抜き、片膝立ちになりながらスコップを上段から叩き落とした。エッジの効いた鉄刃が頭頂部に深々とめり込む。影は崩れるようにその場へ倒伏した。
3つ目が側面から跳びかかってくる。めり込んだ刃を引き抜き、その反動のまま柄を豪快に振り回す。太い柄が顔面を捉えた。影は鼻骨を砕かれながら地面へ叩きつけられた。ピクピクと痙攣し、動かなくなる。
「なんやねん、こいつら!」
4つ目と5つ目が左右から同時に迫る。右から来た影の胸元へ、スコップの尖端を槍のように突き立てた。胸郭が砕ける感触とともに、小さな身体が弾け飛ぶ。そのまま軸足を旋回させ、反対側から迫っていた影の首筋へ、スコップの側面を強打した。ゴキッ、と首骨が折れる嫌な音が響き、影は人形のように地面へ転がった。
残る影は1つ。そいつは仲間が全員倒れたのも構わず、甲高い奇声を上げて突進してきた。
「しつこいんじゃ!」
田中は身体を深く沈め、下から突き上げるようにスコップを振り抜いた。顎下へ鉄刃が直撃する。身体が宙を舞い、背中から地面へ叩きつけられた。動かない。
「……弱っ」
スコップを握りしめたまま、田中は荒い息を吐き、倒れ伏す6つの影を見下ろした。さっきの6人とは比べものにならないほど脆い。本気の喧嘩のつもりで殴り返しただけなのに、全員1発で沈んでいる。
「なんやねん、こいつら」
1番近くに転がっている死体へ歩み寄り、しゃがみ込んだ。
「……は?」
月明かりの下で、初めてその姿をまともに目にした。小さい。子供くらいの背丈しかない。薄汚れた緑色の皮膚。長くて尖った耳。醜悪に歪んだ顔つき。裂けた口元からは、黄色く濁った鋭い犬歯が覗いている。
田中は顔を近づけ、まじまじと観察した。
「なんやこれ……」
他の5体も順番に改める。全部、同じ特徴を持っていた。
「……ゴブリン?」
ゲームや漫画で見たことがある。どう見ても、ゴブリンにしか見えない。だが、現実の街中にそんなものが存在するわけがない。
「いやいや……おるわけないやろ」
もう1度死体に触れてみる。確かな感触がある。血の匂いもする。消えない。夢にしては、後頭部の痛みがリアルすぎる。
「なんやねん……」
そこでようやく、田中は自分の置かれた周囲へと視線を向けた。暗い。見たこともない巨大な樹木が密生している。舗装された道路もなければ、街灯の灯りすらない。
「どこ連れて来られたんや……」
真っ先に浮かんだのは、気を失っている間に山奥へ拉致された可能性だった。身体についた湿った土を大雑把に払い、立ち上がる。
「なんで埋まっとんねん……」
服のポケットを探った。財布。家の鍵。煙草。ライター。全部無事だ。スマートフォンを取り出す。液晶画面に蜘蛛の巣のような亀裂が入っていた。
「最悪や……」
電源ボタンを押すと画面は点いたが、隅には圏外の表示が出ていた。
「山ん中か?」
スマートフォンをポケットへ戻し、周囲を見渡すが、見覚えのある景色などカケラもない。ふと、木々の隙間から覗く夜空を見上げた。
「……ん?」
月が出ていた。そして、そのすぐ斜め上にも、もう1つ。田中はしばらく無言のまま、空を見上げ続けた。
「……2つ?」
目をゴシゴシと擦り、もう1度見る。やっぱり、月が2つ並んで浮かんでいる。
「いやいやいや……」
足元には、緑色の気味の悪い死体が6体。頭上には、2つの月。気を失う直前までいたのは、日本の飲み屋街だったはずだ。
「……何処やねん、ここ」
暗闇が静まり返り、答える者は誰もいない。田中は手に持った鉄製のスコップへ視線を落とした。自分と一緒に土の中に埋まっていた謎のスコップ。
「なんでスコップまで埋まっとんねん……」
何も分からない。殴られて倒れてから、ここで目を覚ますまでの記憶がすっぽりと抜け落ちている。田中はスコップの先端に付着した青黒い血を、足元の草むらへ擦りつけて拭い取った。転がる6体の死体を見下ろし、もう1度、2つの月を見上げる。
「……ほんま、何処やねん」
答えが出るはずもなかった。田中は柄を強く握り直し、夜の森の奥へと視線を向けた。
異世界生活、1日目。
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