一 ~ そんなのできるわけがないだろっ ~ (9)
一人だけで教室に残るってことは、偶然?
それとも、必然?
8
昼休みが終わると、睡魔がどうしても頭の上に鎮座してしまう。
コロッケパンという栄養を得たのだから、仕方がないだろうが。
だからこそ、昼からの授業に身が入らないのは致し方ないのだ。うん。決して、苦手な授業から逃れたいわけではない。
まだ机に突っ伏して堂々と寝ないだけ許していただきたい。
僕は睡魔と戦い、頬杖を突きながら窓の外を眺めていた。
授業の内容は正直…… 入っていない。お経にしか聞こえないのだから。
また、気がかりなことがあり、素直に眠れない事情もあるのだが。
斜め後ろには姫香。彼女はきっと、真面目に授業を聞いているだろう。
だが、その様子を伺うこともできない。
姫香に対して、胸にうごめくしこりは残っている。
はっきり言って、姫香からの奇妙な威圧感みたいなものをヒシヒシと感じてしまい、ずっと眠れないのである。
ヘビに睨まれたカエルみたいだ。これは恐怖なのか?
奇妙な威圧感に襲われ、最悪な日だと嘆きたくなっていると、神様は無慈悲なんだと恨みたくなる。
今日中に提出しなければいけない物を僕はすっかり忘れていたのである。
しかも、奇跡なのか悪夢なのか、それが僕一人だけという、偶然にしては光栄な状況に陥り、放課後に一人残されていたのである。
吉村に写させてくれ、と懇願した。もちろん、タダではない。明日のお昼、パンを奢るからと、賄賂つきで。
それでも見捨てられてしまった。「ムリ~」と。
まったく、薄情者である、と恨みながら、僕は一人シャーペンを走らせていたのである。
提出物は数学。今回提出しなければ、テストの点数に限らず、成績に反映させるというのだから、厳しいものである。
その横暴な態度に嫌気が差し、机に頬杖を突いて外を眺めていた。
雲の流れは早いようだ。
さて、そこで提出物の進行状況は? とは聞かないでいただきたい。
進むことはない。成績の低下は受け入れ、あと三十分、いや二十分ほどしたら帰ろう。
「ーー答え、教えてあげようか?」
半分諦めていた僕に、神のお告げかと思える投げかけに、胸が踊って顔を上げるが、すぐに眉をひそめた。
前の席の机に座り込んだ今田姫香の笑顔が飛び込んできて。
咄嗟に僕は体をビクッとさせ、椅子が音を立てた。
「何、驚いてるのよ」
僕の反応に姫香は唇を尖らせ、首を傾げる。
それはそうでしょう。昨日に今日なのだから。
すぐさま教室を見渡した。ヤバイ、教室には僕ら以外誰もいない。
恐る恐る姫香の顔を伺った。すると、彼女は何事でもないように髪を触っている。
不思議でもあった。
普段から気さくな子ではあるが、男子生徒にはどこか警戒している雰囲気があったにしろ、今はその素振りがまったくない。なぜなのだろうか?
「あ、これ。昨日のお礼ね」
と、呆然としている僕に姫香が手渡してきたのは、またしても野菜ジュースであった。
「あ、ありがと」
っとおいおい。裏で何を企んでいるのかわからないのに、掴んでしまった。
何をしているんだ、まったく。
どうも、この野菜ジュースを見てしまうと、嫌なことが蘇りそうなのだが、逆らえない。
気づけば、キャップを開いて一口飲んでしまっていた。
「ね、古川くんってコロッケパン好きなの?」
ん? また昼間のコロッケパンのことか?
「まぁ、揚げ物は好きだよ。から揚げとか」
「何それ? やっぱ、それじゃ野菜ジュースの意味ないじゃん」
「いいの。これはこれで好きなんだから」
別に健康に気を遣っているわけじゃない。味が好きなだけである。
しかし、なんでそんなことを聞くんだ?
「どうして、そんなことを?」
「ーーん? うん。ちょっと体のことが気になって」
体? なんでそんなことを?
「ねぇ、一つ聞いてもいい?」
さらに疑問が浮かぶなか、より強く姫香は僕の顔を見てきた。どこか強い力があり、僕はたじろいで疑問も散ってしまう。
「それで、昨日のこと、覚えてる?」
ゴクッと咽の音が出そうになっていると、姫香の重い口調が、僕の体を縛る。
それなのに口調とは裏腹に、姫香は顔を背けてモジモジしてしまう。
「……昨日って」
恥ずかしがるような様子に、僕の緊張も解け、体が前のめりになる。
昨日、それは保健室のことか?
「……その、教室でのことなんだけど」
「……教室?」
それは僕が襲われそうになったことか……。
話すべきなのか躊躇してしまう。ここは慎重になるべきだが、怯えている様子の姫香に、僕の心は葛藤してしまう。
「……それって、血をほしがったこと?」
言ってしまった。
ふむ。ふむ。
へぇ~。血のことを聞くんだ。