五 ~ そんなこと、聞いていないぞっ。 ~ (1)
分かっている。
自分から手を差し伸べたってことを……。
第五章
1
これまでに負った怪我で記憶に残っているのは?
と、問われれば、あることを思い出す。
それは子供のころ、ふざけて無茶な自転車の運転をして、右手の肘を擦り剥いたときのことである。痛みと血で汚れている手を見て恐怖を覚え、泣いたことがあった。
今はどうなのか?
多少の痛みはあったがけど、このときほどの痛みはなかった。
次の日の朝。
姫香に血を吸われてから、朝を迎えていた。
ベッドに横になりながら、天井に掲げた右腕を僕はじっと眺めていた。
姫香は八重歯で右腕の肘辺りを噛んだ。ちょうど、注射を打つ辺りを。
時間が経った今、傷口というものは残っておらず、僕の体調も悪くなかった。
ごく普通の、ありきたりな朝であり、昨日の出来事が嘘だったのでは、と疑うほど、平穏な朝であった。
ーー ありがと。
と一言、スマホに姫香からのメッセージが届いていた。
これは現実なんだと告げる証拠であったが、なぜか悪い気にはならなかった。
いつもと変わりない朝。学校に行くと、姫香はすでに教室に来ていた。
おはよ、と変わらない挨拶を交わした。
昨日の疲れていた様子はなく、安堵した。
そして昼休み。
僕は屋上に呼び出された。
「もう、体は大丈夫なのか?」
フェンスに凭れて座ると、悠然と背伸びをする姫香に聞いた。
「うん。もう全然。ほら」
そこでシャツの裾をめくり、昨日男に負わされた脇をさらした。昨日、あれだけ深い傷があったのに、傷は綺麗に治っており、白く綺麗な肌に戻っていた。
「正直言うと、傷口はもう少し残るかな、って思っていたんだけど、まさかこんなに綺麗になるなんてね。やっぱ、これって相性がいいのかな」
ケタケタと笑い、傷口を見せる姫香に、昨日の弱々しさはなかった。
「あ、それとこれ。昨日のお礼ね」
踊るように動いていた体を止め、手にしていた青い巾着袋を差し出してきた。
「ーーこれは?」
子供みたいに無邪気な笑顔は、今だけは不穏な雰囲気はなく、年相応のあどけなさがあった。
「別に警戒しなくていいから。お弁当だよ、お弁当」
隣に座り込むと、巾着袋を指差した。
弁当? と巾着袋を開くと、確かになかには弁当箱が姿を現した。
「私の手作りだから」
手作り、と聞いて一瞬ではあるがたじろいでしまう。
訝しげに睨んでやるが、姫香はわざとらしく手を振ってみせた。
一気に疑い深くなった弁当を開いてみた。
僕の不安をよそに、開いた弁当は、何事もない普通の中身であった。
小ぶりのおにぎりが二つ。ほぐされたシャケが混ぜられ、海苔が巻かれていた。
おかずは厚焼き卵にゴボウの金平、プチトマト。そして鶏のから揚げが二つ入っていた。
「……うまそ」
思わず呟いてしまった。
すると、水を得た魚みたいに、笑顔がより弾けた。
「ーーでしょ。私、頑張ったんだもん。さ、食べて、食べて」
その腕に感心していると、姫香は急かす。
まぁ、ここは断る理由もないので、弁当と一緒に入っていた箸に手を移した。
「そのから揚げのお肉、手に入れるの大変だったんだよ。○○(自主規制)のお肉なんて」
箸がから揚げを掴もうとしたとき、聞き捨てならぬ言葉が耳に届いた。
「今なんて言った?」
「ーーん? だから、○○(自主規制)の肉よ。イヌくんの裏ルートで手に入れるの難しいんだよ」
訝しげに睨む僕に、悪びれることなく目を細める。
「食えるわけないだろ、そんなもんっ」
慌てて弁当の蓋を閉めると、姫香は唇を尖らせて拗ねた。
「なんで? ちゃんと食べてよ。ちゃんと食べてくれないと、栄養が取れないじゃん」
「栄養?」
「だって、私好みの血になってもらわないといけないんだし」
またふざけて口元のホクロを押さえる姫香。また頭痛が起きそうだ。
「なんだ、そのお前好みの血って」
「だって、そうじゃない。もう契約したんだもん。古川くんの血は、もう私の血。そうでしょ?」
「契約? あ、それって「繋」?」
「ーーそ」
「んなもん、いつしたっ。そんなことした覚えはないぞっ」
「あれっ。言っていなかったっけ? 血を吸うことで、もう契約成立なんだよ」
「はぁ? なんだよ、それっ」
納得しないっ。
認めないっ。
絶対に納得なんかしないぞっ。




