5.Growth (成長)
20話「解呪」の内容を、大幅に変更しました。
見渡す限りが白一色で埋め尽くされた、何もない広大な空間。
前後感覚こそ失いはしないものの、一色で統一された空間に居心地の悪さを覚えた。
なぜこんな場所に立っているのか、自分がここまでどうやってきたのかが気になり、思考を巡らせてみる。間もなく、アオイは宿の部屋でベッドに潜り、床に就いたことを思い出す。
明日からは結愛捜索と、ブラムからの刀術を教えて貰うのを同時並行する。昼間は結愛の捜索、夜はブラムによる刀術指導とするつもりだ。その旨は既にブラムには伝えてあり、許可を頂いているので抜かりない。
かなりハードなスケジュールになるので、その前準備として睡眠をとろうと横になったのだ。しかし、ベッドで寝ていることまでは思い出したが、そこから先は一向に思い出せない。しばらく思考して辿り着いた結果、ここは夢の中である可能性が高いと判断した。
そうと決まれば、アオイがするべきことは一つだ。そう思い立ち、アオイは自身の頬を抓ってみる。すると、鈍い痛みが奔り、頬を赤く染めた。
「夢じゃないのか……」
想像していた結果とは違い、痛みを感じたことで、この世界は結愛ではないと結論付けた。そもそも、本当に夢の中では感覚が無いのか、とか、もしかしたら感覚はあるのではないか? とか、疑い始めればきりがないので、その思考は一旦遮断する。
この場所に来てしまったのは仕方がないと割り切り、今はどうやってここから脱するかを考えるのが最優先だと考えて、アオイは素早く思考を重ねる。
そんな集中状態に入る直前のアオイは、ふと後ろに一つの気配があることを察知した。アオイは“気”が使えるわけではないので、ある種の勘が働いたのだろう。
バッと振り向いた先には、黒い衣装に身を包んだ女性が立っていた。顔立ちは凛とした日本人特有のもので、髪色はこれまた日本人特有の綺麗な黒色だった。白の中にある唯一の黒は特異的で、とても良い味を出していた。
頭の後ろで結ってある団子状の髪と、その立ち振る舞いから、『仕事が出来る女』と言うような、今日出会ったコージの秘書と似た雰囲気を感じた。スーツ姿が似合いそうだ、とも感じた。
しかし同時に、アオイの心には不気味さが蔓延した。
先程、アオイは辺りをぐるっと一周見回したはずなのだ。そのお陰で、辺りが白一色だと分かったのだが、その際に、この女性はいなかった。目立つ黒の髪があるのだから、見逃すはずはなかった。
そんなアオイの疑問を知らない女性は、自然な様子で腕を動かした。手を目の前に持ってきて、人差し指だけ立てると、それをアオイに向ける。アオイがその行動に疑問を抱く前に、その指をゆっくりと上に向ける。
そして――
「――早く見つけてあげて」
そう言った。
そもそも主語が無いので、何を見つけてあげればいいか分からない。大事な部分を言わなきゃ分からないよ! と抗議の声を上げようとしたら、視界に移る光景が全て変わった。
ほんの一回、瞬きをしたその一瞬で、先程までの白い空間から一転、見覚えのあるような無いような緑たっぷりの森林の中にいた。目の前には女性も立っている。しかし、女性が何かしたようには思えない。女性は指を上に向けた後、それを下ろしているだけで、特筆すべき行動は起こしていないのだから。
アオイの感じた疑問は、解消されるどころか更に深まる。本当にここが現実なのかどうかが疑わしくなってきている。
アオイの持つ知識から、現実で今の現象を引き起こせる方法を探し出す。場所を変えたと言うならば、魔法のあるこの世界では“空間魔法”というものがある。それならば、女性とアオイの位置を別の場所に転移させることが可能だろう。
または、アオイ達の位置は変えずに、アオイの瞳に映す光景を変えた、と言う可能性もある。簡単に言えば、動画とかのカットで場面を変えるようなものだ。あの白い空間であれば、難しいかもしれないが映像を映し出すことくらい可能だろう。
しかし、その可能性はないだろう、と断定する。
この森林からは、木や土の特有の匂いや優しい微風をしっかりと感じられる。もしこれが、一瞬で映像を転換し、匂いを発生させ、風を起こしているのならば、かなり準備しているということになる。
そもそも、感覚がある時点で、ここは現実だ。きっと、アオイの思考の及ばない範疇の方法で、この現象を起こしたのだろう、と推測のみで答えを決定する。
しかし、そこまでする意味はあるのだろうか? と、アオイは純粋な疑問を抱く。だがやはり、アオイがそれを口に出す前に、邪魔をするように女性は口を開く。
「今の君なら――“銀狼の加護”の一端を担う君ならば、分かるはずよ」
「――ッ!?」
アオイは、まだ誰にも打ち明けていない秘密を暴かれたことに目を見開く。何故、女性はそのことを知っているのだろうか? そもそも何故、女性はアオイが“銀狼の加護”に関与していることを知っているのか。
疑問が幾重にも重なり、アオイの思考力を奪っていく。それを一つ一つ解消しなければ、アオイは落ち着くことが出来ない。強引にでも、口を開こうとしたアオイを先読みしたかのように、女性は再びアオイに指を向ける。
「彼女の助けに、なってあげて――」
刹那。
アオイの頭に激痛が奔る。否、頭だけではない。体の内から破裂しそうな、しかし、白狐戦で感じた肉体的な痛みとは種類が違う、しっかりと形容するのが限りなく難しく、対処のしようが無い、激しい痛み。
頭が裂けるように痛み、体は引き千切られそうな感覚を覚え、更には全身から力を奪われる。息を吸うだけで体が痛み、だが息をしなければ辛くなる。まさに負の連鎖。
それだけでは飽き足らず、喉が渇き、空腹を覚え、吐き気を催し、眩暈がして視点が定まらず、無性に自傷行為に走りたくなる。膝を折って蹲り、激痛にのた打ち回りたい気持ちに襲われ、だが痛みでそれすら出来ず、ただひたすらに頭を抱えて襲い来る全てに耐える。
何故こんなことになっているのか? 目の前の女性が何かしたのか?
様々な疑問が浮かぶ中、唯一アオイに理解できたのは、この痛みが、適性の無いまま“銀狼の加護”を受け継いだ、シュヴァルツ・ノヴァが実際に感じてきた数年間の記憶だ。
ヴァルに加護が受け継がれた時点からヴァルが一身に背負ってきた、適性の無い者の辛さ。
痛みで思考は阻害され、心にスッと浮かぶのは、早くこの苦しみから解放されたいと言う本心だけだった。これは、ヴァルが過去にずっと心に抱いていた気持ちであり、現在進行形でヴァルの痛みを感じているアオイの心でもあった。
その本心から最速でそれを為せる方法を模索し、脳裏には「自殺」の二文字が浮かぶ。
死ねば、この苦しみから解放されるだろうか? 死ねば、もうこんな痛みを感じずに済むだろうか? 死ねば、全てが終わるだろうか――――?
極限状態に陥ったアオイは、一瞬だけ痛みを忘れ、そんな思考が出来た。
だがその思考は、脳裏に浮かんだ人影の存在で、文字通り吹き飛ばされる。
確かに、死ねばこの苦しみから解放されるだろう。もうこれ以上、痛い思いをせずに済むだろう。
だが、それは出来ない。
ここで死ねば、アオイは、アオイの望みを叶えられなくなる。アオイがしたいことや、するべきことが出来なくなる。もう二度と、結愛と話せなくなる――――。
痛みが引いたわけではない。苦しさは残っているし、脱力感もある。呼吸の辛さも、眩暈も吐き気も何もかも、アオイの中で縦横無尽に駆け回り、暴威の限りを尽くしている。
だが、アオイの中に生じた人影が、アオイの背中を押してくれた。
『葵ならできる。葵なら頑張れる。葵なら、乗り越えられる――』
葵を信じて疑わない人影の言葉は、何にも代えがたい活力となり、アオイに力を与える。実際に声が聞こえたわけではない。でも、人影はそう言った。そう確信できた。だから、アオイは立ち上がる。
アオイが信じる人にそう言われたのだから、アオイが諦めてはいけない。それでは、アオイが信じた人を裏切ることになる。アオイの中では禁忌とする行為を犯すわけにはいかない。例え、自分や周囲の全て信じられなくなっても、その人影なら信じられる。
結愛が信じる、葵を信じるのだ――――
痛み、苦しみ、辛さに苛まれているが、そんなもの知ったことか! と、アオイは視線を上げてこの痛みを作り出しているであろう女性を見据える。
女性は言った。「彼女の助けになってあげて」と。
女性の言った「彼女」が、ヴァルのことを指すのなら、この痛みを感じさせた理由は一つだけだ。
ヴァルは、アオイとアルテナとヴァイのお陰で加護の影響を抑えることに成功した。そのお陰で、加護の苦しみは今現状、感じていないだろう。その点では、ヴァルを救えたと言える。しかし、過去に体験してきた誰にも理解できない辛さは――苦しみは――まだ、しっかりとヴァルの心に根付いている。
それを、アオイに見せることで、真の意味でヴァルを救え、ということだろう。
ヴァルの過去の体験を実際に経験したアオイは、ヴァルが感じていた辛い思いと言うのを世界で二番目に理解できる。だが同時に、そんな思いをしてでもヴァルが貫き通した想いを言うのも、アオイは理解している。
この際、目の前の女性が何故アオイの起こした行動を知っているのか、それを理解した上でこんなことが出来たのかは、置いておく。そもそも、女性に対して抱いた疑問は、悉くを撥ね退けられてきたのだから、今更尋ねることも出来はしないだろう。
だから、今からアオイが口にするのは、疑問ではない。女性の問いに答える、ただそれだけだ。ニヤァ、と口を歪め、不敵に笑い、口を開く。
「――当然だ」
痛みでなんだかおかしな回答の仕方になったが、女性に邪魔されること無くしっかりと答えることが出来た。
アオイの回答に、女性はフッと微笑む。そして――
「よろしくね――――」
* * * * * * * * * *
痛みと苦しさと辛さを感じ、アオイは目を醒ます。ゆっくりと体を起こし、座った状態で少し体を動かしてみる。何処にも異常はなく、それらがアオイの勘違いだと分かると、目から零れ落ちた雫が頬を伝うのを感じた。
「あれ……俺――」
なんで泣いてるんだ? と言う疑問が口に出される前に、つい先刻まで起こっていたことを思い出しハッとなる。同時に、あれは夢だったのか? という疑問がアオイの中に湧き出たが、その仮定は即刻否定する。
布団から出て、真っ先にヴァルとヴァイが寝るふかふかの絨毯に向かう。そして、寝ているヴァルの頭にそっと手を乗せて、ゆっくりと優しい手つきで撫でる。その所為でヴァルが目を醒ますが、構わずアオイは頭を撫で続けた。そして、小声でヴァルに囁く。
「あの辛さに耐えて、ヴァルはよく頑張った。本当に、頑張ったな」
そう囁いたアオイに対し、ヴァルは疑問の表情を浮かべていたが、直ぐに何かを察したのか、驚いた表情へと変わる。だが次の瞬間には、納得の表情を浮かべた。
「やはり……あの時、加護の暴走を止めてくれたのは、アオイ様だったのですね」
「ああ……。本当は、加護の効力を弱めて、ヴァルの成長と共に少しずつ解放していく予定だったんだけど、加護がまるで意思を持ってるみたいに反発してきて、あのままだとあそこにいた四人は確実に助からなかっただろうから、膨れ上がった加護を俺に移譲させるように魔方陣を改変したんだ」
あの時、アオイが行った悪足掻きの全貌がこれだ。ヴァルは加護の暴走と言ったが、まさにその通りだろう。暴走は、加護がヴァルを守る為に発揮したもので、その効果はアオイ達が作成した魔方陣の効果を跳ね返す、又は打ち消す効果がある。
だがそれは、加護が自身の効力を大幅に引き上げるのと同じことで、常にギリギリで加護に耐えていたヴァルからすれば、暴走と同義だろう。
だから、その引き上げられた加護を、ヴァルからアオイへと移譲、正確に言えば加護を移植したのだ。大本を移したわけではないので、加護の表記はカードに出てないし、効果はあまり発揮されていないが、実は少しだけ体が変質していたりする。と言っても、少しだけ体が頑丈になった程度だ。
だが、少し頑丈になったアオイですら“死”を望もうとした痛みに、ヴァルはもっと幼い頃から耐え続けてきたのだ。それを、先程の夢の中で思い知らされた。加護と言うヴァルとの繋がりがあったアオイに干渉し、女性はそれを身をもって体験させてくれたのだ。
ヴァルの過去を、世界で唯一、本当の意味で理解できるアオイだから、こうして不器用にヴァルの過去の努力を讃えている。
「本当に、よく頑張った。ヴァルは、よく一人で耐え続けたよ」
「アオイ、様……」
アオイの優しく包み込むような温かい言葉は、ヴァルの心に真っ直ぐ刺さり、今までの我慢がついに限界を迎えたのか、瞳に涙を浮かべる。
「私は……ずっと、頑張ってきたんです……。身に余る加護を受け継いで、それを必死に抑え込んで……他の誰かが同じ思いをしないようにって、必死に頑張って……。でも……それは誰にも理解されなかった。周りの人からは、早く加護を使えるようにしろよって言われてるような気分で……でも……私には抑え込むのが精いっぱいで……。そんな時に、あの魔物が現れて……皆をどんどんと倒して行って……私に、力があればって……私が加護をちゃんと扱えればって、何度も思って……。皆、きっとそう思ってるって……」
ヴァルは、決壊したダムのように、溢れる積年の思いを語る。そこにあったのは、自身の弱さや仲間に対する後悔ばかりだった。語られたのは、仲間にどう思われているか分からず、もしかしたらよくないことを思われているのではないかと考え、それでも仲間の為に必死に加護と闘った、健気で誰よりも強い意志を持つヴァルだった。
アオイには、ヴァルの気持ちが分かる。実際に、ヴァルと同じ経験をして、ヴァルの心を覗いたようなものだから、分かる。だからこそ、ヴァルに賞賛を送る。その努力は、他人の為に行ったもので、それを貫き通すなんてことは、きっと誰でもできるようなことではない。
ヴァルは、目の周りを涙で濡らす。犬は、悲しくて涙を流すことはないらしいので、やはりヴァルは地球に存在する生物とは違うのだろう、と冷静な視点でものを見ながら、ヴァルの頭を撫で続ける。ヴァルは犬ではなく狼だが、そこはあまり変わらないだろうと言う見解だ。
「少し、外の風に当たろう。そしたら、落ち着けるもしれない」
「……」
これまでの十数年分の想いが溢れつづけており、止まりそうにないヴァルの涙に、ようやく冷静に慣れたアオイは、アルテナ達を起こさないようにと言う配慮と、気分転換と言う意味を込めて提案したアオイの案に、ヴァルは頷く。
朝は少し肌寒いので、椅子に掛けてあったコートを羽織り、足音を立てずに部屋から出て、まだ暗い空の下を二人で歩く。三の鐘が鳴るまで、まだ三十分はある。それまでには、きっとヴァルの涙も止まっていることだろう。
何も言わないアオイの傍を、ヴァルは何も言わずに静かに追従する。特に行く宛がある訳でもないので、ぶらぶらと舗装されたコンクリートの道を歩く。しばらく歩いていると、視界の端に緑を捉えた。視線を転じれば、そこにはこの町に来て初めて見る公園があった。
「あそこで少し休もうか」
「……」
コクンと頷くヴァルを連れて、公園に足を踏み入れる。足場がコンクリートから砂利交じりの土に変わり、少しだけ足への負担が減ったのを感じた。公園にあったベンチに腰掛け、再びヴァルの頭を撫でる。アオイが不安になった時、いつも結愛はこうして傍で頭を撫でてくれていた。これをされると、不思議と落ち着くことが出来るのだ。
今の場合、アオイの撫でが感情を吐露させる要因となっている気がするが、アオイはこれ以外の方法を知らないので、取り敢えず安心させるために頭を撫で続けた。
しばらく撫で続け、気が付けば空の一端が白み始めていた。その頃にはヴァルの涙も落ち着いていた。
「……ありがとうございます。とても気が楽になりました」
「それならよかった」
アオイはこう言った時に、かなり不器用になる。もともと器用な訳ではないから、こう言った場合だけではないが、更に不器用さに磨きがかかるのだ。女性に啖呵を切った手前、アオイでヴァルの全てを救えるかどうか心配だったが、杞憂だったようだ。
「……アオイ様」
「ん? どした?」
太陽の上がってくるであろう白んできた空の方に顔を向け、ヴァルはアオイに呼びかけた。その横顔に視線を向けながら答える。
「私は、アオイ様に二度も救われました。この恩は、私の一生を使って返すつもりです」
「それはありがたいことだから止めないけど、大袈裟だよ」
真剣な表情でそう言ったヴァルに、微笑を浮かべながら答える。決して馬鹿にしているわけではない。言った通り、ヴァルの物言いが大袈裟に感じたのだ。だが、ヴァルは首を振り、アオイの言葉を否定する。
「私が言ったのは、私が感じている気持ちそのものです。例え、アオイ様が大袈裟に思っていようと、私の中でこの気持ちは変わりません」
「……」
はっきりと自分の意見を言うヴァルに、少しだけ驚きながら、その言葉を吟味する。
「なるほど、確かに俺が間違ってたよ。ヴァルの言う通りだ。じゃあ改めて、よろしく頼むよ」
「はいっ」
自身の間違いを認め、手を差しだす。一瞬、疑問顔になったヴァルだが、その意図を理解し、それに応えて、アオイの掌に手を乗せる。
目の前で起こっている光景を眺めながら、アオイはこの場に至った原因たる夢のことを思い返す。
あれは確かに夢だっただろうが、普通の夢ではない。あの時、黒装束の女性が言っていたことは、事実だ。アオイしか知り得ないことをピタリと言い当てた上に、意図は分からないが、その先を望んできた。
本来、夢とはその人の記憶を整理する時間だと、昔に聞いたことがある。レム睡眠と呼ばれる睡眠状態の時に、脳内で記憶の定着が起こり、それが夢となって現れる、というような現象だったはずだ。
ならば、アオイの持つ“銀狼の加護”に関する記憶から作られたのが先程の夢と言う可能性もあるが、それは低いだろうと、アオイは考える。何せ、アオイはあの夢に出てきた女性を知らない。記憶に残らない、町ですれ違った程度の人の記憶が掘り起こされたと考えれば可能性はあるかもしれないが、そもそもの話あの時の感覚は、確かに現実のものと同じだった。
だからこそ、アオイはあれが夢ではあるが、アオイの知る夢ではないと思う。
「それであの、一つお願いがあるのですが……」
手を離したヴァルは、恐る恐ると言った様子で切り出した。思考の沼に浸かりかけていたアオイは、少し間を空けてそれに答える。
「俺に出来ることなら、何でもやるぞ?」
アオイの返答に、一度深呼吸をしてからまっすぐ、アオイの瞳を見据えて、
「私に、名前を付けてくださいませんか?」
「名前? でもヴァルには、シュヴァルツ・ノヴァって名前があるだろ?」
「はい。ですが、人間の中にはミドリネーム? と呼ばれる名前を持っている人がいると聞いたことがあります。それならば、私にもつけられるのではないかと」
「ミドルネームね。でもそっか……それなら行けるね」
ヴァルが突然言い出したことに驚きはしたものの、着実に外堀を埋められていく。気が付けば、アオイはその提案に乗り気だった。もともと、小説で読んだ展開と似たような状況になり、アオイとしても好奇心が疼いてしまっている。
「それにしても、いきなりだな。名前を付けて欲しいなんて」
「いえ、私に名前を付けるということは、それがそのままアオイ様の益になるんですよ」
「……と言うと?」
「魔力量の高い人間が、その個人より魔力量の低い魔物に名前を付けると、魔物が成長するんですよ」
「ほぅ……!」
小説で読んだような展開がそのまま起こっている現状に、アオイの好奇心は更に擽られる。それに、ヴァルが強化されるなら、戦力アップにもつながるので、名前は付けるべきだと感じた。
「なら、早速付けようか」
「あ、待ってください。まだ話には続きがあるんです」
ソワソワしていた所為で、早く名前を付けたい! と名付けを急いたアオイに対し、ヴァルは極めて冷静に、と言うより、かなり真剣な表情でアオイに待ったを掛けた。
「名付けを行う前に、一つ注意点があるのです。それは、名付けをする際に行うのが魔力の譲渡なのですが、それに失敗すれば私達の命は保証できません」
人には、血液を同じようにそれぞれ魔力が通っている。魔物の場合は、それが魔素となるが、魔素も魔力も本質は似ているので、その説明は省く。
魔力は個々人で差があり、それらは混ぜてはいけない。魔力にも、血液と同じように種類と相性があって、相性の悪い魔力や別種の魔力を混同させれば、魔力が別の魔力を弾きだそうと強引に働く。その結果、良くて酔うような状態、悪くて魔力系スキルの失敗と同じ、四肢爆散が起こり得る。それは、魔素と魔力でも同じだ。
ヴァルの言うことが正しければ、アオイはヴァルの命を天秤にかけてヴァルの成長を促すかどうかの判断をしていることになる。そんなもの、今までなら速攻で却下するのだが、今回はそうもいかなかった。
なにせ、ヴァル本人がその危険を承知で望んだことなのだ。その覚悟を無碍にするのは、少し心に残るものがある。かと言って、ヴァルの命を賭けられるかと聞かれれば、これもまた悩みどころだ。
腕を組み、ヴァルへの名付けをどうするか真剣に考えるアオイに、ヴァルは軽い気持ちを表に出しながらで話しかける。
「アオイ様。そこまで気負わないでください。もし、名付けに失敗しても、それは私が未熟だったから起こった事故です」
「事故で大切な仲間の命を失わせるわけにはいかない。大切な人を救いたいと思っている以上、仲間を守れなければ意味が無い」
仲間の命を賭けて行うべきことを前にして、気負うなと言うのは無理がある。それに、アオイの信念からして、名付けをするにしても失敗は許されない。だからこそ、最大限吟味して、熟考して、結論を出しに行く。
「アオイ様は、私を信用していらっしゃいますか?」
「突然どうした?」
「信用して、くれてますか?」
ヴァルの質問に、疑問で返したアオイは、真剣な眼差しを向けて言外に「私の質問に答えろ」と言っているヴァルの質問に答える。
「ヴァルの過去は、加護を継承してからなら全て知ってる。そんな俺が、ヴァルを信用してないわけがないだろ」
「なら、私を信じて名付けをして下さい」
アオイの返答に、嬉しさを隠しながらヴァルは言った。微妙に隠し切れていない感情は一度置いておき、ヴァルの言葉の真意を確かめる。ヴァルは名付けをしてほしい、なのに、名付けの危険性をアオイに教えた。その理由は考えてみれば簡単だ。
偏に、アオイに覚悟をしてほしかったのだろう。ヴァルが名付けに関して何も言わず、もし失敗したとすれば、アオイはきっと自身の無知を後悔し、少なからず今後の行動に支障が出る。アオイが抑えても、ふとした瞬間に葵が出て、結愛の捜索に弊害をきたすかもしれない。
だから、ヴァルは予め、アオイに対して名付けの危険性を提示した。その上で、自分の意思を明確に示した。アオイならば、名付けを失敗しない、と。アオイならば、問題なくやり遂げてくれる、と一片の迷いもなくアオイを信じて、そう言ってくれた。
自分を信じてくれているなら、その想いに応えたい。
自身のチョロさに若干の呆れを抱き、微笑を浮かべながら、
「分かった。全力を賭して、名付けに挑むよ」
「ありがとうございます……!」
そう答えた。
ヴァルから、名付けに関しての情報を知ってるだけ教えて貰い、そこから安全を第一に考えて、二人で色々と考えを交換しながら、準備を進めていった。
「――最後の確認だ。名付けの名前は何でもよくて、名付けの時に俺の魔力をヴァルに送る。ヴァルも、俺に魔素を送って、魔力と魔素同士を共存させる形で、処理を行う。……これで問題ないよね?」
「はい。それで間違いないです」
最終確認を終えたアオイは、一度、深呼吸を挟んでから、ヴァルの頭に右手を置いて“集中”する。ヴァルは、目を閉じ、同じく真剣な表情で名付けに挑む。
「――行くぞ」
「はい」
アオイは、教えられた手順通り、魔力を右手から、ヴァルに送る。同時に、ヴァルに名付けをする。ずっと、名付けと言われてから考えていた。今まで、仲間の為に必死に努力して、加護を抑えてきたヴァル。絶大過ぎて弊害になっていた加護の効果に抗い続けてきたヴァルに、ぴったりな名前。
「お前は、シュヴァルツ・レジスト・ノヴァだ」
resistには、抵抗や我慢と言った意味がある。
加護に抗い、耐え続けてきたヴァルには、ピッタリな言葉だと思った。
アオイが送っていた魔力とは別に、魔素の流れを感じる。ヴァルが、アオイの名付けを許容して、魔素を送ってきているのだ。今ヴァルは、送られるアオイの魔力に対して必死に調和しようと試行錯誤しているだろう。
アオイもアオイで、これからどんどんと送られてくるヴァルの魔素と調和するために、意識を集中させねばならない。“集中”し、自身の魔力とヴァルの魔素を混合させ、反発を起こす魔力と魔素を懸命に操作して、反発を片っ端から排除していく。
体の各部から痛みが奔り、集中力を削いでくる。だが、アオイは――ヴァルは、これ以上の痛みを知っている。抗い続けてきた猛者を、その経験を知っている。この程度の痛みに負けていては、猛者に申し訳が立たない。
歯を食いしばり、魔力と魔素が起こす痛みに対して不敵な笑みを浮かべながら、それらの反発を抑え込む。“身体強化”や“魔力操作”系列のスキルを頻繁に使用しているアオイは、その練度がかなり上がっている。
ヴァルも、野性の本能なのか、銀狼という種族の元の能力なのか分からないが、“魔力操作”への適性はかなり高かった。だから、ヴァルの心配は必要ない。ずっと、抗い絶えてきたヴァルだから、この程度、屁でもないだろう。
余計な思考を削ぎ落とし、瞼を閉じて無駄な情報を遮断する。連鎖的に反発を繰り返し、その範囲を体中に広げていく魔力と魔素に、限界まで意識を集中させる。
交換の目安として、自身の保有する魔力魔素の半分を相手に送る。調和させるための魔力を残しておかなければならない。だから、一気に送るのも、逆に送りすぎないのもダメだ。丁度いいバランスを取り続けなければならない。
片付けても片付けても無くならず、寧ろ広がっていく痛みに耐えながら、アオイ達は必死に魔力と魔素を調和させようと操作を続ける。名付けの間、二人とも調和を終えない限り、魔力の交換は止めてはいけない。どんなに辛くとも、そうしなければ名付けの意味が無くなる。
魔力を微量づつ送り、送られてきた魔素に対して反発を起こす魔力を片っ端から調和させる。既に体から純正の魔力はごっそりとなくなり、残る量はあと少しになった。この魔力が尽きれば、名付けの意味が無くなる。
しかし、魔力を送るのを止めれば、それこそ意味が無い。故に、残りの魔力が尽きる前に、体中に蔓延る反発し合う魔力と魔素を調和させる。
焦ってはいけない。反発を抑え込めなければ、体が爆散する。アオイへと繋がっている魔素を通じて、その余波はヴァルにまで伝わる。だから、決して焦らず、慌てず、冷静に、淡々と作業を進める。
魔力の残りはあとちょっと。半分を過ぎれば、調和が難しくなる。ヴァルの想いに応えたい。アオイは、その一心で、更に深い集中状態に入る。
刹那、先程までざわつき、縦横無尽に体中を戦闘の場にしていた魔力と魔素の動きが、鮮明に捉えられるようになる。これ幸いと、アオイは処理のペースをぐんぐんと上げる。体の七割を支配していた痛みは、見る見るうちに支配領域を低減させていき、瞬く間に一割程度になった。
あとは、ヴァルとタイミングを合わせて、送受を止めれば完了だ。そう思い、合図としていた視線を送り合う為に、瞼を開ける。開いた瞼から覗いた瞳が捉えたのは、赤と白の淡い光で体が包まれているヴァルと、その余韻なのか、ヴァルと同じ光に包まれているアオイの右手と右腕と言う、不思議な光景だった。
ヴァルは光の中で、アオイの瞳を真っ直ぐ見据えてくる。完了の合図だ。頷き合い、最後の魔力を送り込む。並列して、体内に残った一割程度の反発し合う魔力と魔素の調和を完了させる。
その瞬間、ヴァルの身体が今まで以上の光を放った。先程までは赤と白の淡い光だったのに対し、今は黄色の激しい光に包まれている。既に顔を覗かせている朝日を遥かに凌ぐその光の眩しさに、魔力不足による倦怠感も忘れ、反射で腕で目を覆って守る。
次第に、その光は収まっていき、残ったのは朝日の優しい光だけとなった。腕で覆っていても感じる光が収まり、それを理解できたアオイは、恐る恐ると言った様子で目を開ける。
今の光は、アオイの経験則からして進化とかの類のものだろうが、もしかしたら失敗したかもしれないと言う予感が、アオイの心中を駆け巡った。だが、その心配は杞憂だったようだ。寧ろ、目の前にした光景に、アオイは目を見開いた。
目の前に立っていたのは、太陽の光を受けて煌びやかに輝く黒の混じった銀髪を持った、裸の女の子だ。身長は、アオイの胸辺り。大体、百五十センチくらい。体のラインは真っ直ぐで、顔立ちは幼さの中にも、どこか成熟したような雰囲気を感じる。
「……えっと?」
「アオイ様よりレジストの名を授かり、シュヴァルツ・レジスト・ノヴァとなりました。改めて、よろしくお願いします」
「あ、うん。……え?」
丁寧に自己紹介までしてくれたのに、状況が全く掴めないアオイは、今更のように襲ってきた魔力不足の倦怠感と、魔力の反発の余韻によって纏まらない思考で、疑問を呈することしかできなかった。




