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異世界最強の翻訳家  作者: 高田大輝
第一章 召喚と王国捜索
2/38

2.Summon (召喚)


 全てが真っ白で埋め尽くされた、自分と目の前にある謎の球しかない不可思議な空間。


 白一色で他の色が存在しない故に、時間や前後感覚、距離感すらもが失われ、自分が存在しているかどうかすらもが危うくなったような、不思議な感覚に囚われている。


 明らかに現実ではないその空間は妙に現実味を帯びており、どこか別の空間に紛れ込んだのではないかと錯覚してしまいそうになる。


 そんな奇妙な空間に、何故かそこにあると分かる白色に光る球が浮遊している。


 どれくらいその空間に居たかもう分らない。


 長い間いたようにも思えるし、実はほんの一瞬のことなのかもしれない。


 もしやここは死後の世界で、目の前にある光の球は、天使や神の巫女的な存在なのだろうか、とばかばかしい発想が湧いてくる。


 刹那、目の前の光の球が明滅する。


 そして、明滅が始まってから数秒後、光の球は音を発する。


 ――ど○か彼○○恨○な○で○げて――




* * * * * * * * * *




 窓から暖かい朝日の陽光が差し込み、小鳥のさえずりが聞こえる朝。寝たりないのか欠伸をしながらベッドから体を起こす人影があった。


 起き上がった人影は、短く切り揃えられた黒髪を雑に掻きながら、まだ眠たそうにしている少し目つきの悪い切れ長の瞳で部屋を見渡す。


 まず目に入るのは、壁一面を覆うように設置されている本棚だ。高さ二メートル横四メートルはあろう本棚には、ライトノベルや漫画などが数段の空きを残しタイトル別に丁寧に羅列されている。


 次に目に入るのは、L字の机に上に置かれているデュアルディスプレイのパソコンだ。少なくとも高校生が持つようなパソコンではないのは誰にでも分かるだろう。L字のもう一辺には、教科書や参考書などが散らばっている。


 更に部屋の隅には、先程までの趣味とは些か違うのではないかと感じられる筋トレに使うようなダンベルやストレッチマットなどが丁寧に置かれている。


 なぜ部屋を確認したのか?


 それは寝ている間に見た夢の所為である。いつもは夢など覚えていないのだが、珍しく今日の夢は記憶にバッチリと残っていた。だから、目を醒ましたここが、現実なのかどうかを思わず確認したのだ。


 その結果、視線に入ってきた光景は、迷いなく自分の部屋なので現実だと判断する。


 やはり、真っ白な空間で光る玉から声が聞こえたのは夢だったか、と独りごちるこの部屋の主、綾乃葵(あやのあおい)は、夢とは言えバカなことを考えた、と呆れ半分残念半分に溜息をつく。


 同時に今日からのことを考えて、少し憂鬱になる。今日は、高校生初の夏休みが終わった日、つまり九月一日で、これからはサボりにサボってきた勉強の日々が始まるのだ。


 学生である以上は避けられぬ運命なので、気持ちを切り替え、二学期の始まる学校へ向かう為、意識を覚醒させ始める。そんな葵の耳は階段を上ってくる足音を捉える。


 足音は葵の部屋の前まで来ると、一旦止まり、今度はドアが少し乱暴に開かれた。


「お兄ちゃん! 朝だよ――って、起きてたの。おはよう!」

「うん。おはよう愛佳」


 勢い良く葵の部屋に入ってきたのは三つ歳の離れた双子の妹、綾乃愛佳(あやのあいか)だった。茶色気味の黒髪は、活発な愛佳の動きを阻害しない程度の長さに切りそろえられている。


 朝から元気な愛佳は綾乃一家にとって自然と朝の目覚ましの代わりになっている。妹に起こされる長男というのもどうかと思うかもしれないが、これが綾乃家での日常である。


「準備したらすぐ降りるから、そう伝えておいて」

「分かった! あと私と大樹は朝練あるからもう行くね!」

「ああ、行ってらっしゃい」


 綾乃大樹(あやのだいき)とは愛佳の双子の兄で葵の弟だ。綾乃一家は父と母、子が葵と大樹と愛佳の五人家族だ。


 二人は中学でそれぞれ野球部と剣道部に所属しており、新学期初日から朝練に身を投じるらしい。中学から帰宅部だった葵は、よくやるものだと感心しつつ登校のために準備を進める。


 とは言え、昨日の内に学校の準備は済ませてあるので、寝間着から制服へ着替え、長年愛用している赤のリストバンドを右手首に付け、忘れ物が無いか鞄の中身を確認して部屋を出る。


 階段に差し掛かったところで、ちょうど玄関から大樹たちの「行ってきます」が聞こえた。それに階段上から「気を付けてな~」と声を掛けると、「「はーい」」と二人の元気な声が返ってきた。


 愛佳の声に大樹の声が掻き消されているのはいつものことだが、野球部が声で負けてどうするよと独りごちる。


 階段を下りリビングへ入ると、六人用のダイニングテーブルの一席に座る人影があった。その人影は葵のドアを開ける音に反応して振り向いた。


 腰まで届きそうな綺麗な黒髪が翻り、顔が見えると朝食と思しきパンを手に咀嚼している女性の姿があった。


 とても美麗で、うっかり惚れてしまいそうな美しさを持っていた。


 女性にしては高めの身長と服の上からでも分かる細めな体型、平均より少し大きく膨らんだ双丘に、クールな雰囲気。


 だがその細さは決して病弱からくるものではなく、むしろそこらの女性よりは鍛えているのか、少し筋肉質な細さだった。


 モデルと言われれば信じてしまいそうなくらいの美人さんだ。


 だが葵は知っている。彼女の胸には、パッドが――


 ――ヒュンッ、トス


 突如、空を切り裂く音が葵の耳に入ってくる。顔を少し傾け飛来物を躱すと、それは壁に突き刺さることで制止する。視線を向けた先にあったのは、バターナイフ。


 当然のことだが、バターナイフが自然と宙に浮き射出されるわけはないので、原因があるはずだ。


 バターナイフから飛来してきた方向に視線を転ずると、そこにはキッとした表情で葵を睨む、美人の姿があった。


「あ、口に入ってるの呑み込んでね」


 葵は彼女に口を開かせる前に掌を彼女に向け、そう制止した。いくら美人でも、いやそもそも食事の作法として、口にものを入れながら喋るのはあまり好ましくないからだ。


 彼女の性格上、直ぐに物を言ってしまうのを知っていたので、予めそれを阻止したのだ。いくら緩い夏休みを過ごしていたからと言っても、礼儀の部分は忘れない。


「―――今何か、失礼なことを考えなかった?」

「そんな滅相もない」


 葵に釘を刺され、しっかりと口に含んでいたものを呑み込んでから葵にそう告げた彼女――バターナイフを投げた張本人は名を、板垣結愛(いたがきゆめ)と言う。


 葵の一つ年上で頭脳明晰で容姿端麗、クールで学校ではあまり喋らない。だが決して悪い意味はなく、社交的で人当たりも良く、生徒会長に立候補するなどカリスマ性もある。


 まさに漫画やアニメなどに出てくる才色兼備な主人公そのものだ。


 更に彼女は、場の空気や人の心情などを察知するなど、読みに長けた部分がある。今の葵の思考を読んだかのような攻撃は、恐らくその特技の一部なのだろう。


 下手なことを結愛の前で言えば、地獄を見ることは明らかなのを、この夏休みで忘れていたようだ。


 自身の気の緩み具合に、反省する。


「……まぁいいや。おはよう、葵」

「おはよう、結愛」


 何か言いたげな視線を感じたが、呑み込んで挨拶をしれくれたので、しっかりと返す。


 ここでこの光景を見れば、疑問に思う人がいるかも知れない。なぜ苗字の違う人がリビングで食事を取っているのか? と。


 超要約をすれば、結愛の両親が行方不明になり、身寄りが無くなってしまった彼女のことを、隣人でよく遊ぶ仲だった綾乃家が、紆余曲折を経て引き取ったと言うことがあった。


 色々面倒な手続きやら、何やらをしたが、それは殆ど両親がしてくれたので、詳しいことは解らない。ともあれそんな理由で、血の繋がっていない人間が同じ家に居るという現状が成り立っている。


 結愛が最後のパンを口に入れ「ごちそう様でした」と席を立った。その声で我に返り、葵は刺さったナイフを引き抜いて、結愛と入れ替わる形で椅子に座る。


 一方結愛は食べ終わった食器を台所に持っていき、その後リビングの扉に手を掛けた。扉を開ける前に、結愛は葵に話しかける。


「今日は始業式の前に会議あるから、遅れないで来るんだよ」

「うん。分かってる」

「……なら良いけど。それにしても、今日は可愛いパンツを履いてるのね?」

「ん?」


 まともな指摘から一転、結愛の視線は明らかに葵の下半身に向かっている。視線の位置と悪戯っぽい発言を加味するに、葵の社会の窓が開いていると言う可能性がある。


 基本葵は、ファッションに興味が無い。


 学校では制服があるし、葵の通う道場では、胴着が基本装備だ。暇な時は、家で小説を読んだり、アニメを見たりゲームをしたりしかしていない。


 一人で出掛けることも少ないので、必然的にそう言った物全般に興味が無い。例え外に出ても、さっさと用事を終わらせるので、大してファッションを気にしていない。故に、部屋着や下着、その他諸々は母に任せている。


 だがこの母親のセンスは奇抜で、葵にすらなんだこれ? と思わせるようなものを買ってくる。任せている身の葵は文句を言えないのだが、その所為で、葵の身に着けるものは少しおかしなものが多い。


 これは寝ぼけてやっちまったか? と思いつつ視線を転じてみれば、そこには何の変哲もない、しっかりと閉まっているファスナーがある制服のズボンがあった。


 やられたと悟った葵は、ジト目で結愛を見る。責められているはずの結愛は、てへぺろとでも言いたげな表情を作ると、何事もなかったかのように「行ってきまーす」とリビングのドアをパタンと閉じた。


 そこには、彼女の魅力ともなっているクールさの欠片もなかった。


 結愛をよくあるヒロイン属性と言うもので例えるならば、クーデレと言う分類に入るだろう。日常や学校などでは、基本的にクーの部分が姿を現す。


 そして葵や、家族の前だとデレの部分が多く出る。と言うより、葵の前ではデレ一択だ。最近では、学校であってもデレる場合があるほどに、だ。


 これが結愛の良くないところだ。人前では絶対に見せないクールではない姿。もしこれを生徒会長としての凛とした姿しか見ていない生徒が知れば、そのギャップで二桁は惚れさせることが可能であろう。


 だがそれは叶わない。なぜなら結愛は、葵にだけにこういった冗談であったり、ちょっかいであったりを日常的に繰り返しているからだ。あくまで、おふざけの延長上の冗談なので、「勘弁してくれよ~」程度で済んでいる。


 当初は困惑もあったが、慣れた今では問題ない。はずだったのだが、夏休みで気が緩んだということと、久しぶり過ぎてそのことを忘れてしまっていた為に、まんまとハマってしまった。その油断に付け入ることこそが、結愛の作戦だった可能性も否めない。


 そんな些事に使う暇があるなら、もっと別のことに使えばいいのにと思うが決して口にはしない。したところで意味が無いのだ。だからこそ、不満げな声で「気を付けてね」と返し、葵も会議に送れないように朝食を取り始める。


 結愛の言った会議とは生徒会の会議のことである。二学期が始まると真っ先に待ち受ける行事が文化祭で、今回の会議は生徒会と文化委員の両委員会で最終的な調整をするための会議だ。


 書記である葵一人居なくても然程困らないが、仕事は仕事なので早めに家を出ようと、一人になったリビングでテレビで流れる物騒なニュースを見ながら朝食を食べる。


 最近は物騒な世の中になってるなと思いながら、そのニュースを眺める。行方不明者がまた出ただとか、反政府組織の動きが活発になっているだとか、本当に物騒になっている。


 ともあれ自分の身に関係ない現状、実感を持てという方が難しい。一応、そのならない為の努力はしてきているので、まぁ問題はないだろうと考え、登校の準備を始める。


 家には母親が居るが、夜勤明けでぐっすりと寝ているはずだ。母は近くの病院で看護師をしている。そして父は、通訳の仕事で海外へ赴いており、今日帰国する予定なので家には居ない。


 数十分で全ての準備を整えた葵は時計を確認し、会議開始の八時まで三十分あることを確認する。家から学校まで歩いて二十分もかからないので余裕で間に合う。


 母の分の朝食で、常温保管できない物は冷蔵庫に入れて家を出る。


 玄関の扉を開き、門の傍にある小さくて不格好な墓に手を合わせる。数秒目を閉じ手を合わせた葵は満足し、学校へと歩き始めた。


 起床時に掛かった優しい太陽の光は、既に暑さを感じさせるほど燦々と照り輝いていた。暦的には秋とは言え、まだ夏の余韻が残っているのでそこそこ暑い。


 暑いのは苦手なんだよなぁと弱音を吐きつつ、約一か月ぶりの学校へ向かう。


 田畑が多く一般的に田舎と呼ばれるこの場所でも車はそこそこ通るので、葵の苦手な排気ガスの臭いを我慢しながら進む。時間に余裕があったので急勾配な坂のある近道ではなく、楽で車通りの少ない通学路を歩いていた。


 葵の前に、両手いっぱいの荷物を持った六十代ほどのお婆さんがフラフラと歩いてるのが目に入った。七の数字が書かれたコンビニエンスストアの袋がパンパンになっており、お婆さんは辛そうに息をしていた。


「おばあちゃん。荷物持とうか?」

「……おおっ。悪いね。お願いできるかい」


 葵は、一般の人よりも人見知りだ。それに過去にあった出来事の所為で、一応克服はしたもののまだどこか人間不信な部分がある。


 なのになぜか、このお婆さんには声を掛けることが出来た。()()()、と言うのもあるのだろうが、最初のきっかけはあまりよく覚えていない。


 葵の声掛けに、お婆さんはありがとうと顔を綻ばせ葵に荷物を渡し、葵はお婆さんの家に届けるために、迷いなく歩き出す。


 お婆さんの家がそこまで遠くないのは知っているので、お婆さんの歩幅に合わせて歩いて二十分ほどで着くことが出来た。


 三十分ほど掛ける予定でいたが、思っていたよりお婆さんの脚力があったようで早めに着くことが出来た。


 着いた家では、またお婆さんが居なくなった! と騒がれており、(えら)く感謝された。


()()()ありがとうね」

「いえ、たまたま見かけただけですから、気にしないでください」


 葵に感謝する女性の後ろで、家主らしき男性――葵も良く知る同じ道場の門下生に叱られているお婆さんを尻目に、学校があるのでもう行きますね、と断りを入れてその家を去ろうとした。


 するとお婆さんが葵を呼び止めて、手の内に一枚のコインを持たせた。曰く、不運から身を守ってくれる御守りのようなものらしい。そして、この説明は二回目だ。


 高校の入学式と、夏休みの夕食の買い出しの際の二回、お婆さんを助けたことがあり、二回目の時に、唐突にお婆さんから貰ったもので、最初は断っていたのだがセールスマンも驚きのしつこさに、葵が折れて貰ったのである。


 もっとも、お婆さんはそのことすらも忘れている様子だったが。


 今更な感じはあるが、一応貰ってもいいのか視線で家の人に問うと、肯定の笑みが返ってきた。コインにあるとされるその効果の虚実は置いておいて、有り難く貰うことにした。






 お婆さんの家を後にし、腕時計を確認すると既に八時を回っていた。会議に間に合わないのは確定なので、結愛になんて言おうか、頭を悩ませつつ歩を進めた。


 結局学校に着いたのはHR(ホームルーム)の十分前だった。


 謝るのは放課後になりそうだなと時間を見てそう思った葵は、教室に入り、窓側最後列の自席に着くと、鞄から宿題などを取出し机の中に入れて行く。


 クラスメイトは葵の周りにはいない。葵の元からの目つきの悪さと、葵の人間不信に近い人見知りと、明らかに関わりたくない雰囲気を、入学式から続けてきた結果だ。面倒事は避けたいので、そもそもの関係を作らなかったのだ。


 だがまぁ、居心地は悪くなったな、と分析する葵は、ふとクラス内がざわつき始めたことに違和感を覚える。


 何やら視線が集まっているような気が……


 葵の肩がトントンと叩かれた。振り返るとそこには満面の笑みで葵を見下ろす結愛の姿があった。当たり前だが、目は笑っていない。


「――結愛()()。ペンダント見えてます」

「え? 本当?」


 葵は首に掛かっているチェーンが見えたので校則違反がばれちゃうよと暗に忠告した。すると先程の威圧的な笑みは消え、チェーンをササッと制服の襟の下の隠した。


 葵が結愛をさん付けをしているのは、面倒を避けるためである。


 面倒とは、超絶スペックで友達の多い結愛と、普通な見た目で友達も少ない葵が、普段はファーストネームで呼び合っていることが知れれば、嬉しくない視線を頂戴するのは必然だからだ。


 もっとも結愛の方がそんなことを忘れたかのように、親しげに話してくるので意味はないかもしれないが、それでも無いよりはマシだろうと葵はそれを継続している。


「まだそのペンダント付けてたんですか」

「……うん。私にとってかけがえのないものだから」


 ペンダントそのものは見えていない。だが葵にはそれが何のペンダントか分かった。だからなのか、呆れたような、嬉しいような微妙な感情が言葉に乗せられた。


 仕舞ったペンダントに服の上から手を添えて、昔を思い出すように目を細め呟いた結愛は、ハッと気を取り直すと更に怒ったような顔でジト目を葵に送る。


「全く。……何で会議来なかったの?」

「……いやまあ、色々ありまして」

「色々、ねぇ……」


 流石に誤魔化し切れなかったかと苦笑いし、言葉を濁して答えた。


 先程と変わらずジト目を送り続ける結愛に対し、特にやましいことはしていないはずなのに、冷や汗が噴き出してくる。


 葵がお婆さんを介助して遅れたことを言わないのは、偏にクラスメイトに聞かれたくなかったからだ。


 それを言えば結愛へと意識を向けるクラスメイトに聞こえるかもしれない。例えそれが聞こえたからと言って葵の立場が急激に変動することはないだろうし、そもそも信じられるかどうかすらわからないが、少しでもその可能性は減らしておきたかった。


 ゲームに勉強に鍛錬に、と葵にはやらねばならないことが沢山ある。だから時間を削られるかもしれない面倒事は、極力避けたいのだ。


 それに、長い付き合いの結愛なら何があったかなど大抵察してくれる、というのが葵が言葉にしなかった原因でもある。そもそもの話、彼女の読みは異常なまでに鋭いのだから。


「……葵の役目は書記で、二人いるから遅れても大して問題にはならないけど、その分日菜ちゃんに負担が掛かること忘れちゃだめだよ」

「はい。反省してます」

「なら、次からは同じ失敗はしないでね」

「はい」


 一通り言いたいことを言い終えて、葵が反省したのを確認したのか「よろしい」と腰に手を当て満足げに言った。


 結愛の言った日菜ちゃんというのは、葵と同じクラスの小野日菜子(おのひなこ)のことだ。彼女は文学少女という言葉がぴったりな女性で、眼鏡はしていないがとても真面目な人である。


 その上美人系に分類される結愛とは違い、可愛い系で友達も多く、更には学校一のイケメンと名高いクラス委員長の二宮翔(にのみやかける)と付き合っているという噂まである女性だ。


 勝ち組とは彼女のような人を指すのだろうと、日菜子を知ってから真っ先に考えた。


「でも罰は必要なかぁ」


 と葵にだけ聞こえるような極小の声でそう呟いた。人差し指を顎に当て、可愛げのある仕草で、悩む。美人がそれをすると映えるものがあるが、内容が罰なので葵視点からはただの仕草だ。そこには、可愛さもくそもなかった。


 だがその所作で、葵の背後が僅かにざわつく。それとほぼ同じタイミングで、憧れや恨みや嫉妬と言った感情が乗せられた視線が、一斉に浴びせられる。


 もうそういった視線を浴び過ぎて、視線やそれに乗せられた感情に対して、簡単に気がつくことが出来るようになっていた。


 怪我の功名と言ったら聞こえはいいが、正直時間に見合った結果ではないだろう。その視線を回避する努力をしていないので、それも当たり前のことかもしれない。


 いっそ、自分が超絶イケメンだったらこんなことにはなっていなかったのかもなぁ、とどうしようもないことを考える。


 もしイケメンであれば、美人の結愛とも釣り合いが取れて、こんな視線を向けられないかもしれないと浅はかな考えを持った。


 だが葵自身が変わる気が無いし、そもそも整形などしない限り顔が良くなることはないので無意味だとその思考を切り捨てる。


 それ以上に、葵に向けられる視線に気づいておきながら敢えて無視している目の前の美人(元凶)に、苛立ちと、視線に耐える辛さと、どうにもできない諦めの感情を乗せて視線を送る。


 その視線を送られた元凶は、罰を考えるのに必死ですと言わんばかりに視線を合わせないものだから葵の苛立ちはさらに募る。質が悪いのは葵の困ってる姿を見て、結愛が内心ニンマリしていることである。


 ラブコメなどで鈍感主人公に振り回されるヒロインが居るが、あれはまだ不可抗力だからマシだと、葵は思っている。無意識だからこそ傷つけることもあるだろうが、意図的に行われる精神攻撃よりは遥かに楽だろう。


 (ま、いつも通りだし、結愛が楽しそうならそれでいいや)


 結局は葵が諦めて、地獄の時間が過ぎるのを待つことで落ち着くのがいつものパターンである。ただ一つだけ言うとすれば、これが無ければ結愛は本当に完璧なのになぁと、残念そうな視線を送る。


 その視線を送られた結愛は、本当に罰の内容を考え始めたのか気がついていないようだった。


 そのタイミングで丁度、担任の加藤龍之介先生がガラガラと音を立て教室に入ってきた。地獄の時間の終了を告げる龍之介の声が掛かる。


 時計を確認するといつの間にかHRの数分前になっている。結愛は葵の腕時計でそれを確認すると、


「ん~、じゃあ今日の夕飯は私の好きなシチューにすること!」


 と考えていた罰を葵に言った。


 現在、家での夕食を作るのは基本的に葵の役割だ。綾乃家は両親が共働きで家に常時いられるとは限らない。というより殆ど居ない。よって綾乃家は子供達で家事分担をしている。


 愛佳が洗濯を、大樹が掃除を、結愛が朝食作りを、そして葵が夕食作り兼食材の買い出しを担っている。その為、夕飯の献立を決めるのはいつも葵なのだが、罰の所為でその権限は今日のみ結愛に移ったらしい。


「一昨日もシチューだったけど?」

「あれはビーフシチューだから違うのです」


 シチューにただならぬ拘りがあるらしい。一昨日の夕食の時、少し不機嫌だった訳を理解した葵はチラッと結愛を見る。視線の先には期待の視線を送る結愛の姿があった。


「……分かった、分かりました。今日の夕飯はシチューにするよ」


 時間もないし、と内心呟く葵によろしくね! と結愛は満面の笑みを見せる。


 無償で許されるのを嫌う葵に配慮してくれたのか、ただシチューが食べたかったのか詳しいことは分からないが、小さく「ありがとう」と感謝の言葉を呟いた。


「ん? なんか言った?」

「いや、何でもないよ」


 葵の呟きが聞き取れなかったのかそう聞いてきた結愛に、葵は少し照れながら誤魔化す。いつもの結愛ならスッと葵に寄りニヤニヤ顔で問い詰めるのだが、今は時間が無いので悔しそうな顔をする。


 結局、葵の言葉までもが敬語ではなくなっているので、挨拶の時の敬語は意味を為していない。


 最初に敬語を止めたのは結愛だと思っているがそれは違う。最初に敬語ではなくなったのは葵であり、それに気がついた結愛は敬語を止めたのだが、肝心なところで残念な葵はそれに気がつかない。


 そして周囲の視線が痛いのは、人と話すときは敬語に近い言葉遣いの結愛に、唯一敬語で話さない特別な奴だと認められているからと言う理由もある。


 出る杭は打たれる運命なのだ。


「帰ったら聞かせてもらうからね!」

「……時間無いですよ?」


 どんだけ聞きたいんだと、その執着っぷりに呆れとも感心ともとれる感情を抱く。


 だが家族のことになると普段の様子からは考えられない程執着しがちなのは、いつもの結愛だなと再確認した葵は、教室を出ようとする結愛を座りながら見送っていた。


 故に、教室で起こった変化に気がつくのが一瞬遅れた。


 ふと足元が明るくなり、視線を下へ向けるとそこにはアニメや漫画などで見かける()()()()()()()があった。


 これってもしかして異世界召喚ってやつか! と少し興奮した葵は、ハッと我に返り教室を出ようとしていた結愛、つまり教室の後方ドアへと視線を向けた。


 そこには、床に突如として現れた光り輝く魔方陣を見つめ動けていない結愛の姿があった。それを確認した刹那、葵の体は動いた。考えるより早く、動いていた。椅子を押し倒し、結愛へと駆ける。


 葵にとって異世界召喚は、夢にまで見た出来事だ。いや、その手の話を読んだことがある人ならば、一度は異世界で無双する妄想を抱いたことはあるだろう。


 だが得てして、異世界とは厳しい世界だ。いくらチートな能力を貰ったところで、命の危機が無い訳ではない。政治や商売系の異世界モノなら話は別かもしれないが、その場合召喚などと言う大袈裟なことは恐らくないだろう。


 召喚するということは、必要があって喚ぶということなのだ。それはすなわち、力を行使する必要があるということだ。それには当然、危険が及ぶ。


 更に異世界と言うのは、命の価値が日本より明らかに低い。そんな世界に行けば、必然的に結愛は危険に晒されることになる。


 それは葵の――葵達家族の望みではない。だからこそ、何としても避けねばならない。


 根底に根付いたその気持ちが考えるより先に体を動かしていた。刻一刻と光を増す魔方陣に、目立ちたくないと言う気持ちも忘れ、葵は全力で結愛の方へ駆けた。


 結愛もそれに気がつき葵に向けて手を差し出す。


 そして魔方陣の光が教室を、教室内にいた全ての人の視界を埋め尽くそうと輝き、光の奔流が教室を包み込んだ。視界は光で埋まり、眩しさに瞼を閉じて、何も見えなくなる。




 人数にして三二人

 時間にして数秒


 その日、日本のある一つの空間から三十二人もの人が、忽然と姿を消した。






 その現場を見た者は誰も居なかった。


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