リーナ・ハミルトン
その男は私にとって憎むべき対象だった。
少し艶がくすんでいるものの、充分美しい黄金色の髪が床に流れ落ちる様が目に焼き付いた。
秀でた額を擦りつけるように彼は頭をゆっくり下げた。
反旗を翻した暴動の、その首謀者と言われている男は、血が上り易い性質だが根からの悪人ではない。
一人娘を魔物によって失った、そして、貴族達は邸に篭るか、逃亡するかで、護ってもくれない。それらが重なり、哀しさや苦しみが怒りと憎しみに変わった、暴動のきっかけとはそのようなものである。
———どうして。
目の前で謝罪の言葉を紡ぐ男の姿は、きっとお嬢様が切望していたそれだった。
———何故、今なの。
左腕が失われている。だから、跪く姿も無様だ。未だかつて、王族の旋毛を目にした民はいないだろう。
決して声を張り上げている訳ではない。なのに、誰も動かない。振り上げた剣は、いつしかダラリと身体の脇に下ろされている。
「私の首を差し出そう。それで満足してくれないか。」その言葉に誰も動かない。
「王子として謝罪する。力及ばず、民を苦しめたこと———本当に申し訳ないと思っている。だが、同胞の血を流しても何も生まれない。その怒りは、私の命で治めてもらないだろうか。そして、この奥の部屋にいる者達は、最後まで貴方達を護ろうと尽力していたことを理解してもらいたい。逃げずに留まっていたことが、その証とならないだろうか。」
私は全てをこの目で見た。
そうしなくてはならなかった。
「王族として最期を迎えられること、感謝する———」
正城門に晒されている男の首を見上げて、唇を噛み締める。
エイドリアン・ティムバ。
何故、最期の最期で王族としての矜持を見せつける。
何故、愚者のまま醜く命を屠られなかった。
消化しきれない遣り切れなさにその場から動けない。
因果応報だと、いい気味だと、嗤ってやるつもりだった。
なのに何故———これ程に虚しいのだろう。
「気が済んだか。」
「…シャド。」
相変わらず気配を感じさせず、隣に立つ。そして、同じように正城門を見上げている。
暗部に属していたと名乗った男は、今や同志といえる存在だが、通り名しか知らない。
「呆気ないものだな。国も王族も———人も。」
由緒ある長き歴史の国ではない。
だが、それなりの年月で築き上げた一国だった。
「俺はすぐに海を渡るが、お前はどうする。」
慚愧に堪えない様子で告げた男の姿を思い出す。
———駆け付けた時には既に連れ去られた後だった。あの時、王宮で足止めさえ食らわなければ———
だから、己を縛り付けている暗部の誓約書を燃やしたのだと言った。
あの日、お嬢様は全てご存知の上で、最後の機会を与えられたのではないだろうか。全てを黙許するための機会を。
だが、切なる願いは届かなかった。
私はこの国に生まれ、この国で育った。そして、この国を愛していた。
なのに、崩壊した現実を目の当たりにしたというのに、何の感情も湧かない。
ただ———お嬢様のお顔を思い出すと胸が刺すように苦しくなる。
幼き頃からずっと仕えてきたエミリアお嬢様。
私の父は子爵だが、母は平民。だが、物心ついた頃には邸で過ごしていたし、母の顔さえ知らない。
ただ礼儀作法だけは厳しく躾けられて、父の前で委縮する私は、必死で教えを叩き込んだ。
ストーン公爵家へ召使見習いとして預けられたのは、12歳の時。
初めて挨拶した日のことを、まるで昨日のことのように覚えている。
テラスで本を読んでいた小さなお嬢様。伸びた背筋にさらりと零れ落ちる銀の髪。髪と同じ銀糸の刺繍だけが施されたドレスは、公爵令嬢として素朴過ぎるデザインだったけれど、顔を上げた瞬間、それは極上の衣のように思えた。
真っ直ぐに向けられる紫の双眸。まるで囚われたように私の身体は動かない。
「今日から召使見習いとしてお預かりしたリーナ・ハミルトン嬢です。お嬢様の良い話相手になれると思いますよ。」
エミリア様の乳母であるカイラ様は、ふっくらとした優しい印象の女性だった。
促されて、ようやく足が動く。
「———リーナ・ハミルトンと申します。精一杯務めさせていただきます。よろしくお願い申し上げます。」
身体に沁みついた淑女の礼は、流れるように行われ最高の出来だと安堵した。
だが、次の瞬間、真の淑女というものを目の当たりにすることとなる。
「こちらこそよろしくお願いいたします。」エミリア様は、軽く首を動かされただけ。たったそれだけ。なのに目が離せない。少し目を細め微笑んだ姿は天使のようで、時が停止したかのような錯覚さえ引き起こす。
今まで目にした貴族令嬢など、到底及ばない。
この方にお仕えする好機に私の胸は高鳴った。
仕方なく学び続けていた日々を払拭するように、私はお嬢様の好みをひたすら叩き込んだ。
ドレスや装飾、お茶や菓子、部屋の灯り、飾る花———些細なことでも全て、目を凝らしてお嬢様の一挙一動を見つめた。
『リーナは私の心が読めるの?』
小難しい本を読み耽っていたお嬢様が、そろそろお茶を望まれるだろう頃合いを見計らって、お疲れの時に好まれる紅茶に砂糖一匙とたっぷりめのミルクを注いでお出しした時のこと。少し驚いた顔をしてカップを手にされ、一口飲んだ後、冗談混じりに発せられた言葉は、私の誇りであり宝物だ。
だから、気づいていた。
お嬢様の双眸が、澄んだ色が、少しずつ翳りを帯びてゆくことに。
決して公爵令嬢としての誇りを失わなかったお嬢様。
けれど、たった一度だけ漏らした願い。
『リーナだけは―――変わらないでね。』
俯きながら呟かれたそれは、どこか縋るような声だった。
皆が口をそろえてお嬢様をこう呼ぶ———非の打ちどころのない完璧な公爵令嬢、と。
けれど、それはお嬢様が作り上げた仮面であり、生きる為に必要な鎧でもある。
その内側で膝を丸めて蹲るお嬢様の折れそうな心に、何故誰も気づいてくれないのだろう。
「連れて行って、シャド。お嬢様の元に。」
お嬢様がご無事だと知らせてくれたのはシャドだった。差し出された光沢のあるリボンは、間違いなくお嬢様のもの。髪を結い上げる際、私が選び取ったものだ。そして、そこに刻まれた、流れるように美しい文字を、私が見間違う筈もない。
私が気づかない間に、お嬢様とシャドは連絡を取り合っていたのだと知る。
互いに知り合った経緯はどうでもいい。重要なのはお嬢様がご無事で生きていらっしゃるということだけだ。
だが、他国に連れ去られたお嬢様がどういう扱いを受けているのか―――そこまでは掴めない。
立ち去り際、チラリと振り返り、正城門を見上げた。
この光景を忘れない。目の奥に焼き付けて生きていく。
お嬢様を裏切り、傷つけた———憎むべき男の末路を。
「…やはり貴方様は———嫌いです。」
死してもなお、お嬢様の心を縛り付ける。
王子として最期の決断を否定するつもりはない。そんな権利もない。
けれど、思わずにはいられないのだ。他に道はなかったのかと。
私に出来ることはお嬢様のお傍にいること。それだけ。
だから、この地を去る。
高く聳える城壁を背に、私は二度と振り返らない。
タイトルに沿って、これで完結とします。
これからガイヤ王子とエミリア嬢との闘いが始まるのではないかと。
愛していた国を崩壊した(させられた)事実を知ったエミリア嬢は王子と国を許さないだろうし、思慮の浅い人間ではないので、じっくりじっくり報復の手段を講じることでしょう。内側に爆弾を抱えた大国と、初めて思い通りにならない相手に直面した俺様、それらの行く末を想像すると楽しかったです。
お付き合いいただいてどうもありがとうございました。