第82話
どことなく悄然としている神崎だったが、それも当然だろうと思う。遠く離れたN.Yから今日発ってくるんだ、仕事もほっぽり出して。
車の中で『ナイト』と言う名前の犬を膝に乗せた神崎は、静かに犬の頭を撫でながら何かを考え込んでいた。
傍らには小さなカバンと、出てくる際にコンシェルジュから渡された大きな箱。海外からの荷物らしいが、何が入っているんだろうと思うほどデカイ。それを疑問に思ったものの、流石に人の荷物の事までは聞くのは憚れる。
だから、終始無言のまま車は俺の家へと静かに走っていた。
その間、考えていたのは神崎の事で。
先程Skypeで話しただけでも、桐生総一郎の怒りは伝わった。
神崎を犬に引っ張らせて部屋に荷物を纏めに行かせた後、何故か俺が彼と話す破目になったのだが、ひしひしとその怒りが画面越しにわかったのだ。
『龍前寺から電話があった。あいつも全部は把握しきれてないんだろうが、それでも連絡だけは入れてきたからな。そこには感謝しているが、そもそもそんな変態野郎を雇っていたのも龍前寺だ。その辺もちゃんと直で聞いておかないと全くわからん。』
「…理事長も手を打とうとしていた矢先だったと思うんですが…」
『なんだと?』
「これはあくまでも俺の主観でしかないんですが、あまり教員レベル的に高いわけではなかったし、生徒内でも評判は良く無かったと言うことを考えれば、理事長も何かしらの考えを持っていたと思うんです。あくまでも俺の、考えですが。」
俺がそう言うと、黙りこくった桐生総一郎は何かを考えるように腕を組んだ。
今まで気が付かなかったが、ローブだけを着ているのを見るとかなり焦っていた姿がありありと浮かぶ。それを指摘するやいなや、盛大なため息を吐いたかと思うと不機嫌そうな声で答え始めた。
『夜中の二時だぞ、二時!日本から電話がかかってきたのが!!』
「と言う事は、当然お休みだったわけですよね…」
『ああ。それも唯が襲われたって言う電話だろう。電話をしてきたあいつも詳しい状況がわからないからって、用件を伝えただけで切りやがるしな。それから今まで唯に連絡を取ろうとしたのにも関わらず、携帯にも自宅の電話にも、そっちの部屋の電話にも出ない。全く、心臓に悪い。』
「あの、きりゅ…秀人さん達にも知らせたんですか?」
あのシスコン兄姉が、溺愛している義妹にこんな事があっただなんて知ったら何が何でも帰国してくるに決まっている。それこそ、今日の便で帰って来そうな勢いで。
そう思ったのだが、返って来た答えは意外だった。
『あいつらには連絡してない。』
「え?」
『秀人も美奈も今が大事な時だって言う事は俺が誰よりもわかってる。それをいちいち唯の事で帰国したり、仕事を疎かにするのは、それは違うと思うからな。』
「でも、教えなかったら教えなかったで、逆に…」
『何も全く教えないって言うわけじゃない。あいつらもそろそろ自分の道をわきまえて欲しいと思っているだけだ。唯もこんな事があった以上、知られたくないと思ってるだろうしな。俺にも言うの止めろって言われなかったか?』
画面上で苦笑している彼の様子に、頷くことで肯定の意味を伝えた。すると、「やっぱりな」と呟いた後、大きく伸びをし、近くに置いてあったコーヒーらしい飲み物を一口飲んでいたので、俺も神崎が入れてくれたコーヒーを一口飲んだ。
既に若干冷めているが、それでも美味い。
『唯の遠慮癖はどうしようもならんな。わかってはいるんだが…祥子が死んだ時もそうだった。』
「…一年前、でしたか…」
『ああ。祥子が亡くなった時、唯は泣かなくてな。秀人も美奈も、周りの人間は皆泣いてるのに、唯だけが泣かなかった。いや、違うな。泣けなかったと言う方が正しかったのかもな。』
「泣けなかった?」
『誰も彼もが『泣いていいんだよ』だの、『泣かないなんて冷たい』なんぞと勝手な事を言ってたが、結局は唯の精神状態も結構危なかったんだ。実際、ようやく泣くことが出来た一ヶ月後までの間、ほとんど何も食わない、不眠、無表情。あの一ヶ月の事は本人も良く覚えてないらしいが、見て来た俺達がわかってるからな。可哀想・不憫の域を遥かに越えて、唯っていう人間が壊れかけてた。』
「………」
『その時にわかった。唯は俺達よりも祥子に甘えてた分、祥子がいなくなったら誰にも甘えられなくなったんだってな。まあ、マザコンの気があったのかもしれんが、それでも祥子と唯は仲よかったからな。それまでは祥子が居た分俺達にも遠慮しなかったんだろうが、死んでからは無意識に一線を引いてるんだろうな。だから一人暮らししてるのも、その引かれてる一線なんだよ。』
神崎が桐生家に対して遠慮しているのは、何となくだがわかっていた。
でもまさか、そこまではっきりとした線を引いているとは思わなかったので、単純に驚く。
が、俺がそこまで聞いていいのかどうかも正直疑問だ。
確かに俺は事件に関わってしまい、警察にいる友人にも少し頼み事をしてしまった。それが何故かはわからないが、なんとなく放っておけないのも事実で。
ただ単に、神崎が千歳先生の娘だったという事が意識下にあるのだとしても、俺が彼女の事情にそこまで首を突っ込んでもいいものだろうか。
いくら赤ん坊の頃を知っているとしても、そこまで関わる事はないし、本来であれば実家にも連れて行かなくていいはずなのに。
それなのに、どうして俺はここまで神崎を気にかけているのだろう。
黙ってしまった俺を不思議に思ったのか、桐生総一郎も黙った。
無言のリビングに神崎が出てきた音がしてそちらを見ると、小さいカバンを持って黒い犬を従えた神崎が立っていたので、出る前に親子で話もあるだろうと思ってカップを持ってキッチンに行った。流石に客にそんな事をさせられないと思った彼女が止めようとしたけれど、それをやんわりと断って二人が会話しているのを遠目で見ていた。
まさか神崎をアメリカに呼ぶとは思わなかったので驚いていると、懐かしい名前が出てきたのに思わず目を細めた。
『佐江子』
あのババア、まだ生きてたか…。
にやりと口許を歪ませていると、どうやら桐生総一郎は今日の便で帰国の途に着くらしい。
さすが。素早いな…と呆れつつも、半ば呆然としている神崎を連れて俺は実家へと急いだ。