第8話 北壁、二段目
第三十九層は、三時間かかった。
北壁の二段目というのは、床から四メートルほど上にある岩棚のことだ。棚といっても幅は五十センチもない。下は水が溜まっていて、深さは膝まで。落ちても死なないが、機材が水没する。
中古の筐体は出力が規格の七十六パーセントしかない。据えられる場所はここしかなかった。東の分岐も、下り口の天井も、この出力では四十層まで届かない。
梯子を掛けたが、岩が脆くて上端が決まらない。三度掛け直して、四度目で諦めた。左手で棚の縁を掴んで、右腕一本で十一キロを持ち上げる。
これが一番まずい。
据え付けの最中は、俺は世界から抜ける。ただし、それは据えると決めて手を置いてから、離すまでのあいだだけだ。片手が体を支えているということは、据え付けに使えているのは片手だけということになる。
手順は倍かかる。倍のあいだ、片腕がずっと張っている。
三時間のうち、実際に固定していたのは二時間半くらいだ。残りの三十分は、腕を休めるために床に下りていた。その三十分は、ただの三十六歳の男として、膝まで水に浸かって立っている。
一度だけ、通路の奥から音がした。遠い。方向も分からない。
俺は棚に登り直して、まだ何も決まっていない筐体に手を置いた。据えると決めて、手を置く。それだけで判定は入る。位置が悪いのは分かっていたが、五分そのままでいた。
音は来なかった。無駄な五分だった。無駄で済んだのだから、それでいい。
水の音がずっとしていた。天井から滴が落ちて、足元の溜まりを叩く。不規則で、数えられない。数えようとして三回やめた。
この階層は鉄気の匂いがする。錆びた水の匂いだ。手袋の中まで湿ってきて、指の皮がふやける。ふやけた指はねじを取り落とす。予備のねじは六本持ってきていて、二本落とした。
四度目に棚へ上がったとき、配線が通った。
出力を上げる。上位ノード、第四十層。応答なし。角度を二度戻す。まだない。もう一度、一度だけ上げる。
緑。
繋がった。第四十層から下、四十七層までの八台が、いっぺんに生き返る。
俺は棚の上で、しばらく動かなかった。左腕が言うことを聞かない。
袖で筐体を拭いて、刻印を出す。
AJ-0298。中古なので、番号は前の持ち主が使っていたころのままだ。
その下に、油性ペンで書いた。
2026.6.13
書き終えてから、自分の番号で書き直そうか一瞬考えて、やめた。番号は俺のものではない。日付だけが俺のものだ。
◇
六月十五日、また降りた。
前日に浅利無線へ寄っている。
「一台、貸してもらえませんか」
「金は」
「二十日に十八万入ります」
「じゃあ二十日に来い」
「二十日だと、四十一層が来月になります」
浅利さんはカウンターの下から新品の箱を引き出して、台車に載せた。伝票は書かなかった。
「返せるときでいい」
「はい」
「兄ちゃん、あんた月に何回降りてんの」
「今月は三回目です」
彼はそれきり何も言わなかった。扇風機の羽が回っている音だけが残った。
今度は第四十層と第四十一層。
第四十層は交換ではない。据え直しだ。
二〇二二年に据えたAJ-0388の電池が、あと半年で切れる。他の誰にも外せないので、俺が外す。手を当てて、据えたときの手順を逆から辿る。三分十秒かかった。
外れた瞬間、第四十層のランプが落ちた。
そこから下が、圏外になる。
電池を差し替えて、接点を拭いて、また据える。据え直しは早い。位置も角度も決まっているからだ。一分半で緑に戻った。
合計で五分弱。
その五分のあいだ、第四十一層から下に人がいたら、その人は連絡手段を失っている。
いま第四十層より下に人はいない。俺が確認できるのは、途中の階層で誰ともすれ違わなかったという事実だけだ。すれ違わなかったから、いないことにしている。
毎回、この五分のことを考える。考えるが、外さないと電池は替えられない。替えなければ半年後に落ちる。半年後に落ちたら、五分では済まない。
どちらも正しくないので、短いほうを選んでいる。
会社にいたころ、この五分を報告したことがある。作業報告書に「交換中、当該階層以下が五分間不通」と書いた。翌月から、その欄は「作業時間」に統合された。書く欄が減ると、書かなくてよくなる。
第四十一層は新設だった。
節点は下り口のすぐ横で、足場は悪くない。借りた新品は出力が規格どおり出る。位置決めに迷いがなく、四十分で終わった。
拍子抜けするほど楽だった。出力が出るというのは、こういうことらしい。
中古を使うと、据える場所が減る。場所が減ると、悪い場所を選ぶことになる。悪い場所は時間がかかる。時間がかかると、危ない。
三万五千円の差が、三時間と、片腕ぶんの疲労になって返ってくる。安く上げたつもりが、体で払っている。
刻印の下に日付を書く。
2026.6.16
ノートに三行増えた。
第39層/北壁二段目/AJ-0298
第40層/据え直し/AJ-0388
第41層/下り口横/AJ-0501
図面の×が、二つ増えた。残りは三つ。
◇
第四十一層の休憩地点で、端末を開いた。
動作確認だ。ここで映像が滑らかに出れば、通信は成立している。出なければ、どこかの節点で詰まっている。実測が要る。
配信アプリを立ち上げて、適当な生放送を選ぶ。数字が出る。遅延0.4秒。十分だ。
選んだのは、たまたま一番上にあったやつだった。
『はいどうもー、アカリでーす』
女の人の声だ。早口で、息継ぎが少ない。画面が揺れているのは、本人がカメラを持って歩いているからだ。
『今日も三十二層、いつもの行き止まりまで行きまーす』
同時視聴、十一万。
コメントが流れる。
【また三十二層かよ】
【アカリは深く行かないからな】
【まあB級だし】
【でも撮り方はいちばん上手い】
【それはガチ】
【編集しないのがいい】
【待ち時間もそのまま出すもんな】
【今日も行き止まりで座るんでしょ】
【座る】
行き止まり、と俺は思った。
第三十二層に、行き止まりはない。
あそこは南の斜坑で下の階層に繋がっていて、通り抜けられる。実際、A級の遠征隊は毎回そこを通って降りていく。俺も去年、通っている。
彼女が言っているのは、たぶん別のことだ。
第三十二層の南の斜坑を降りると、そこから先はしばらく節点がない。正確には、あった。二〇一九年に据えたやつが、三年前に落石で潰れて——潰れてはいない、俺が据えたものは潰れない。埋まった。岩の下に固定されたまま、電波だけが岩に食われている。
だから第三十三層から先は、映像が上がらない日が多い。上がる日と上がらない日があるのは、岩の隙間の湿り具合で減衰が変わるからだ。
彼女はそこで引き返している。
撮れないから引き返している。行けないから引き返しているのではない。
B級だから深く行かない、とコメントは言っていた。第三十三層の下り口まで降りて、そこで座って、戻ってくる。それを何年か続けているらしい。
二〇一九年に据えたあの一台が埋まっていなければ、彼女はもっと下まで撮れている。埋まったのは三年前で、俺はその報告を会社に上げた。上げた記録は残っている。予算がつかなかった記録も残っている。
画面の中で、彼女はしゃがんで岩肌を撮っていた。喋りは止まっている。カメラだけがゆっくり動いて、通路の奥の暗がりを舐めている。
その暗がりの先は、俺の記録では第三十三層の下り口だ。
端末を閉じた。
動作確認は終わっている。遅延0.4秒。問題なし。
言うことは何もない。俺は回線の話しかできないし、彼女に会うこともない。
◇
地上に出たのは、六月十七日の朝だった。
駅の券売機の前で、若い連中が携帯を覗き込んでいた。
「四十層まで映るようになってるらしいよ」
「嘘だろ、先週まで三十七で切れてたじゃん」
「協会が工事したんじゃない」
「そんな金あるわけないって」
俺は改札を通った。
深層の映像は、この二週間で明らかに増えている。
増えていることを不思議に思っている人間も、増えている。




