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第36話 僕、行きます。手順書、あるので

「第十二層、北側通路、二番目の梁。魔素濃度を測ってから、位置を決めること」


 須賀原望は、それを声に出して読んだ。誰もいない更衣室で。


 九月十二日の午前八時。豊洲第三坑の坑口、共用の更衣室。壁のロッカーが四十個並んでいて、この時間はほとんど空いている。


 彼は手順書を膝の上に開いていた。四十一ページではない。十二層の項は十九ページだ。


 三回、声に出して読んだ。二年半、毎朝そうしてきた。


 読むと、その日やることの順番が頭に入る。入らないと動けない。それが自分の欠点だと思っていて、直そうとしたことがある。直らなかったので、そのままにしている。


 ロッカーの扉に、自分の顔が映っている。作業服は天穹のものではない。胸に刺繍はなく、量販店で買った紺の上下だ。


   ◇


「一人で、行けます」


 階段の下で、須賀原はそう言った。


 背嚢は十八キロ。中継機が一台と、工具と、水と食料。彼の体格だとこれが上限になる。


「無理はしないでください」


 俺はそう言った。それ以上、言うことがない。


 第十二層は浅層と中層の境目だ。人が多い。回線も通っている。何かあれば連絡できる。危険度で言えば、坑の中でいちばん安全な部類になる。


 それでも、一人で降りるのは初めてだ。


「私、十二層までなら付いてく」


 灯が言った。彼女は今日、配信の予定を入れていない。


「いえ」


 須賀原は首を振った。


「一人で行きます。手順書、あるので」


 言い切った。語尾が落ちなかった。


 彼が言い切るところを見るのは、これで四度目になる。四度とも、俺の前で言っている。


 一度目は六月の設備課で、それ、まずくないですか、と言った。二度目は二十層が落ちた日で、僕、行きます、と言った。三度目は先月、もう会社の備品じゃないですよ、と言った。


 彼は作業許可証を出して、判をもらった。同行者欄は空欄だ。九月一日の改正で、経路と作業内容を届け出れば、単独でも第十五層までは入れるようになった。


 坑口の前で、彼は一度止まった。


 それから、小さく言った。


「お邪魔します」


 俺は何も言わなかった。


 誰にも教えていない。会社にいた十五年、あの一言を人前で言ったことがない。


 灯がこちらを見た。目が合った。彼女も何も言わなかった。


   ◇


 第十二層に着いたのは、正午前だった。


 北側通路は人が少ない。第十二層は分岐が多く、南側の広い通路をみんな使う。北は行き止まりが二本ある。


 誰ともすれ違わないまま、二番目の梁まで来た。天井が低い。屈まないと通れない場所が三か所あった。手順書には「屈む箇所三」と書いてある。数まで書いてある。


 須賀原は濃度計を出した。


 胸の高さで三十秒。手順書にはそう書いてある。


 数字が落ち着かない。三十秒待って、〇・二一。もう一度測ると、〇・二四。


 どちらが正しいのか分からない。


 手順書には「二回測って、差が大きければ測り直すこと」としか書いていない。大きいというのが、どのくらいなのかが書いていない。


 彼は手順書をめくった。十九ページの余白に、細い字で書き足しがある。


 「濃度計は体温を拾う。胸の高さで持つとき、腕を体から十センチ離すこと。二回測って差が〇・〇三以内なら、高いほうを採る」


 書いたのは網代さんだ。二週間前に、付箋の質問に答えて書き込んだもののうちの一つだった。


 腕を離して、測り直した。


 〇・二四。〇・二五。


 差は〇・〇一。高いほうを採る。


 位置決めで三十分迷った。


 二番目の梁の裏は、手順書のとおりだと下から二十センチのところになる。だが実際に見ると、そこに古い金具の跡がある。誰かが前に据えた場所だ。跡は錆びていて、周りの岩が少し欠けている。


 同じ場所に据えていいのか、避けるべきなのか、書いていない。


 汗が背中を伝った。第十二層は暑い。地上の空気がここまで降りてくる。


 彼は付箋を探した。四十七枚のうち、十二層の項に貼ってあるのは一枚だけだ。


 「金具の跡がある場所は、使っていいのか」


 自分が三年前に書いた質問だった。


 その横に、書き込みがある。


 「跡があるのは、そこが正しいから。岩が欠けているのは、外すときに割ったからです。同じ位置に据えて、樹脂板を一枚多く噛ませてください」


 須賀原は、しばらくそれを見ていた。


 答え、書いてある。


 三年前に貼った付箋の隣に、答えがある。


 彼は樹脂板を二枚出した。持ってきた四枚のうちの二枚。手順書の標準は一枚で、二枚使うと後の階層で足りなくなるかもしれない。


 書いてあるとおりにした。


 二枚目を差し込むとき、指が滑って一枚落とした。拾うのに腹ばいになって、梁の下へ手を伸ばした。誰も見ていない。見ていないのに、恥ずかしかった。


 固定に一度失敗した。角度が浅くて、上位ノードに届かない。外して、据え直す。


 外れる。彼が据えたものは、彼にも他人にも外せる。ねじを緩めれば、ただ外れる。


 二度目で通った。


 外して据え直すのに、四分かかった。ねじを緩めて、位置を直して、また締める。それだけの作業だ。


 六月に第二十層で同じことをやろうとして、外れなかった。四人がかりでも動かなかった。あのとき網代さんは、そこは外さなくていいと言った。


   ◇


 据え終わって、袖で筐体を拭いた。


 刻印を出す。


 SG-0001。


 AJではない。彼の会社の資材コードではないし、天穹のものでもない。個人事業として登録するときに、卸に振ってもらった新しい記号だ。


 須賀原という名前とは、たぶん関係がない。担当者が適当に決めた二文字だと聞いた。


 彼は胸ポケットから油性ペンを出した。


 少し迷った。


 刻印の下に、小さく書いた。


 2026.9.12


 誰にも教わっていない。手順書にも書いていない。会社の規則にもない。


 ただ、映像で見たことがある。第二十七層の窪みの前で、片手で蓋を締めた男が、そのあとペンを出して同じことをしていた。


 書き終えて、蓋を閉めた。


 ねじを四本。締めすぎないこと、と手順書には書いてある。締めすぎるとパッキンが潰れて、そこから水が入る。


   ◇


 坑口に戻ったのは、午後五時を過ぎていた。


 階段を上がると、網代と灯が待っていた。二人とも座っていない。自販機の前で立っている。


「通りました」


「はい」


 網代はそれだけ言った。


 須賀原は背嚢を下ろした。肩が張っている。十八キロを九時間背負うと、こうなるらしい。


「濃度計の書き込み、助かりました」


「そうですか」


「あの、それと」


「はい」


「日付、書いちゃったんですけど」


 網代の眉が、少し動いた。


「あれ、規則ですか」


 彼はしばらく答えなかった。


「いえ」


「え」


「俺が、勝手にやってるだけです」


 須賀原は、そこで少し笑った。


「じゃあ、僕も勝手にやります」


 網代は何も言わなかった。


 灯が自販機に小銭を入れて、缶コーヒーを三本買った。一本を須賀原に、一本を網代に押しつけて、残りを自分で開けた。


 網代は缶を持ったまま、開けなかった。手が塞がっていると落ち着かない人だ、と灯が前に言っていた。


 彼は缶を左手に持ち替えて、それから、こう言った。


「須賀原」


「はい」


「第四十八層まで、機材を運んでもらえませんか」


 須賀原の手が止まった。


「四十八層」


「いえ。第三十四層までです」


 網代は坑口のほうを見ていた。


「そこから先は、俺が行きます。四十八層に三台要るんですが、一人で背負うと四・七キロ超えます。三十四層まで二台担いでもらえれば、そこで受け取って、帰りのぶんを置いていけば、ちょうど二十五キロになります」


 須賀原は缶を持ったまま、返事をしなかった。


 それから、網代のほうではなく、地面を見て言った。


「僕、行きます」


「はい」


「手順書、あるので」


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