第22話 三十二層の行き止まりの話
『はいどうも。今日は、撮ってきたやつを出します』
七月二十九日、午前十一時。
霧島灯は、机の上に四年ぶんのハードディスクを積んでいた。三台。中身は六百本以上の素材で、総時間は二千時間を超える。
彼女は編集ソフトを開いて、五分で閉じた。
切ることになるからだ。
四年、一度も切っていない。撮ったものを切ると、そこにあったことがなくなる。それが嫌でこの撮り方を選んで、そのせいで動画は長いと言われ続けてきた。長いのを見てくれる人だけが残って、四十二万人になった。
だから、切らない。
彼女は素材から百七本を選んで、時系列に並べただけの動画を作った。編集はしていない。切っていない。頭に説明を三分入れて、あとは全部そのまま。
尺は四時間十一分。
頭の三分で喋ったのは、こういうことだ。四年前から自分は第三十二層で引き返している。実力の問題だと思っていた。違った。第三十二層の行き止まりの壁に箱があって、その先には何もない。箱の日付は二〇一八年。誰かが八年前にそこまで置いて、その先に置かなかった。
言いながら、一度も画面を見なかった。カメラのほうを見て喋るのが、まだ苦手だ。
タイトルを打ち込む。
『三十二層の行き止まりの話』
サムネイルは作らなかった。動画の最初のフレームがそのまま出る。第八層の通路の、壁の上のほう。灰色の箱が一つ映っている。
説明欄には一行だけ書いた。
「私が四年、行き止まりだと思っていた場所の話です」
網代には止められた。あなたの配信が止まります、と言われた。深いところを撮る人がいなくなると、そこがどうなっているか誰も知らないままになる、とも言われた。
全部、彼女ではなく回線の心配だった。
押す前に、一度だけ手が止まった。
この人は、名前を出されたくないはずだ。四年ぶんの映像に、顔ははっきりとは映っていない。作業服の胸に刺繍がある。ロゴの形は分かる。
消そうかと思って、消さなかった。切らないと決めているからだ。
灯は投稿ボタンを押した。
◇
二時間で、視聴が十万を越えた。
動画は長い。四時間十一分を通しで見る人間は少ない。だが見た人間が、タイムスタンプを書いてコメントを残した。
【0:03:40 説明終わり。ここから素材】
【0:11:22 第十八層。AJ-0154。日付2015.11.2】
【0:47:05 第二十四層。AJ-0201。2017.3.9】
【1:26:40 これだ】
【1:26:40 見て】
一時間二十六分四十秒。
第二十七層の通路。ヘッドランプの光が二十メートル先の壁を照らす。窪みの奥に灰色の箱。その前で、紺の作業服の男が、片手で蓋のねじを締めている。
三分四十秒。
男は締め終わって、袖で箱を拭いて、胸ポケットからペンを出し、刻印の下に何かを書く。
【作業服、天穹のロゴ入ってる】
【左胸。刺繍】
【天穹?】
【昨日の会見で「協会の技術的判断に委ねております」って言ってた会社だぞ】
【待て】
【整理する】
【①坑内の中継機は全部AJ刻印 ②設置記録の実施者は「天穹 設備課」 ③その設備課は六月に外注化で解体 ④天穹が七月に撤去を申請 ⑤協会が受理 ⑥昨日執行】
【つまり】
【自分の会社の人間が十五年かけて置いたやつを、自分の会社が撤去申請したのか】
【……え、待って】
【昨日外した一台のせいで、八人が行方不明なんだよな】
【いま何時】
【遭難二日目】
拡散は夕方に加速した。動画の切り抜きが出回った。四時間十一分のうち、三分四十秒だけを抜いたものが、別のところで六百万回再生された。
切り抜きにはタイトルがついていた。「人類の攻略配信を十五年支えてきた男」。灯が絶対につけない種類の言葉だ。
その下に、別の切り抜きが並んだ。「天穹、自社設備を自社で撤去申請」「協会、十五年間の設置記録を非公開化した翌週に八人遭難」
どれも事実に基づいていて、どれも半分しか合っていない。
灯はそれを止めなかった。切り抜きは嫌いだが、いま止める理由がない。
夜のニュースが触れた。
『——SNS上で拡散している映像について、株式会社天穹はコメントを控えるとしています』
『——日本坑管理協会は、撤去命令は適法な手続きに基づくとしています』
『——第四十層の遭難については、救援隊が本日午前六時に入坑しており、通信手段がないため状況は伝令によって確認される見通しです』
コメント欄が二十万を越えたのは、その日の午後十一時だった。
【この人、いま何やってるんだろう】
【自分で外させられたんだよな】
【外せるのがこの人だけだったから】
【なんで一人でやってたんだ】
【会社の仕事なら記録が出るはずだろ】
【出てないんだよ】
【じゃあ誰が金出してたんだ】
【】
【誰が金出してたんだよ】
◇
その夜、灯は江東区の作業場に来た。
シャッターを半分上げて入ってきて、開口一番に言った。
「出しちゃいました」
「みたいですね」
俺は土間で地図を広げていた。彼女はその横に立った。
「怒らないの」
「怒る理由がないので」
「止めたじゃん」
「止めましたけど、止める権利はないです」
彼女は少し黙った。それから、真上から俺を見下ろして言った。
「私、あんたのために出したんじゃないから」
「はい」
「四年、自分が弱いからだと思ってた。それが違ったって、自分で言いたかっただけ」
「それでいいと思います」
「よくないでしょ、普通」
「よくないですか」
「あんた、自分の顔が全国に出てんだよ」
「顔は映ってないです。作業服だけです」
「刺繍は映ってる」
「あれ、もう俺の会社じゃないので」
彼女は答えを探すような顔をして、やめた。工具箱の上に腰を下ろした。今日は座った。
しばらく、二人とも地図を見ていた。
豊洲第三坑の縦断面図。第三十層から第四十層まで、俺が鉛筆で丸を打っている。丸には番号が振ってあって、その横に時間が書いてある。
「これ、何」
「据え直しの順番です」
「順番」
「第三十層に一台入れれば、そこから下は繋がるはずでした。でも、三十一層と三十四層と三十七層の電池が、今月中に切れます。三十層だけ直しても、二週間で同じことになります」
「じゃあ」
「三十層、三十一層、三十四層、三十七層。四か所。それと、第三十三層の埋まってるやつの迂回に一台」
彼女が指で数えた。
「五台」
「五台です」
「一台八万でしょ」
「四十万です」
通帳には九万しか残っていない。中層の保守の入金は八月二十日で、それまで動く金がない。
浅利さんに借りるという手はある。六月に一度借りて、返した。返したから、もう一度借りられる。借りられるが、四十万は店の一週間ぶんの売上に近い。
それに、坑口で止められる。七月一日から、俺の許可証は単独では通らない。
金と、書類と、体。三つとも足りていない。
「八人、まだ見つかってないんでしょ」
「はい」
「地上に連絡できないんでしょ」
「はい」
彼女は地図の上の丸を、上から順に指でなぞった。第三十層、第三十一層、第三十四層、第三十七層。
指が第三十三層のところで止まった。丸に×が入っていない。横に小さく「埋没・迂回要」と書いてある。
「ここ、私が引き返してるとこの下だ」
「そうです」
「ここが埋まってるから、私は三十二層で止まってたんだ」
「そうです」
彼女は指をそこに置いたまま、しばらく動かさなかった。
「これ、何日かかるの」
俺は答えを持っている。昨日から三回計算した。
第三十層に一台据えて、そこから下りながら三十一層。第三十三層の迂回。第三十四層。第三十七層。据え付けが一か所につき四十分から三時間。移動が合わせて二十六時間。
背負えるのは二十五キロで、中継機は一台十一キロだ。
一回に二台は運べない。
「往復で、二日です」
「一回で全部は」
「持てないので、三回に分けます」
「三回」
「はい」
「六日」
「六日です」
彼女は地図から目を上げなかった。
「間に合うの」
俺は答えなかった。




