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第1話 あなたの十五年は、コストなんですよ

本日より毎日更新します。全40話、完結まで執筆済みです。楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価、感想で応援していただけるとうれしいです。

「通信設備は外注で足ります」


 梶原さんは手元のタブレットから目を上げずに言った。三十三階の会議室は空調が効きすぎて、長机が指先に冷たい。


「網代さん。あなたの十五年ぶんの仕事は、コストなんですよ」


 俺の前に契約解除通知が一枚。押印箇所に黄色い付箋が三枚。総務の誰かが貼ったものだ。丁寧な仕事だと思う。


 壁のモニタに見積の比較表。左が設備課、右が外注先。左の数字が赤い。


「年間四千二百万円です。設備課を人件費ごと維持する場合と、保守を外部に切り替えた場合の差額。この数字に反論できますか」


 できない。坑内の減衰率なら小数点以下二桁まで言えるが、一円にもならない数字だ。


「誤解のないように申し上げますが、これは品質の話ではありません。うちの配信部門の収益は、九割が第十層から第二十五層で出ています。浅層と中層が整備されていれば、その九割は守れる。加えて、坑内回線は協会が公共インフラと定めていて、通信料を取ることが禁止されています。つまり設備は、どれだけ良くしても一円も回収できない費目です。回収できない費目に、正社員を五人置いておく理由が、決算上どこにもない。これが今日ご説明したいことの全部です」


「深層は、どうしますか」


「需要がありません」


 即答だった。


 資料の端が見えた。設備課全員の名前が縦に並び、扶養家族の人数まで印字してある。名前は覚える。顔は見ない。両立するものらしい。


「外注先は、もう決まっているんですか」


「エヌ・ティー・サポート。上場企業の坑内設備を三十社受けています」


「浅層の保守は、あそこは上手いです」


「では、問題ありませんね」


「浅層は」


 梶原さんの指がタブレットの上で一度止まった。それだけだった。


「網代さん。第三十層から下に、いま中継機が何台据わっているか、ご存じですか」


 俺は答えた。


「二百八台です」


「……資産台帳には、七十四台と出ています」


「はい」


「残りは」


「台帳にありません」


「では、無いということでしょう」


 あるものを無いと言われたとき、こちらから証明する手続きを、俺は持っていない。


「そうですね」


「六月末で契約は終了になります。引き継ぎ資料は、須賀原さんに」


 窓の外で、湾岸のクレーンが荷を降ろしている。俺は天井の隅に目をやった。点検口の縁に、細い黒のケーブルが一本、空調ダクトに寄り添って走っている。


 三年前、この階だけ電波が入らないと苦情が来た。鉄骨とダクトが悪さをしていて、業者は三社匙を投げた。俺が土曜に来て、屋内中継を四台、位置を変えながら据え直した。四回目で通った。


 いま梶原さんのタブレットが会議資料を読み込めているのは、その四台目のおかげだ。彼はそれを知らないまま、この部屋で俺を切っている。


 悪意はない。憎まれてすらいない。梶原さんは会議の間、一度も俺の顔を見ない。


「何か、ご意見は」


 第三十二層の節点は東の壁面では駄目で、あそこは魔素の吹き溜まりだから夏場だけ減衰が二桁変わって、だから北の梁の裏に回して角度を七度下げてある。外注の見積書に、その一行はどこにもない。あの見積で入った業者は、来年の八月に一度、三十二層から下を落とす。


 言っても、四千二百万円は動かない。


「まあ、そうですね」


 通知を二つ折りにして、作業服の胸ポケットに入れた。梶原さんが顔を上げる。一瞬、資料と俺の間で視線が止まった。拍子抜けした人の顔だ。


「ご理解いただけて、助かります」


 立ち上がるとき、椅子の脚が床を鳴らした。


「網代さん」


 ドアノブに手をかけたところで呼ばれた。振り返ると、彼はもうモニタのほうを向いている。


「十五年、お疲れさまでした」


 声に温度はない。嫌味でもない。締めの一行を読み上げただけだ。


 ケーブルは天井を這ったまま、俺が出ていっても電波を通し続ける。


   ◇


 設備課の島で、段ボールを四箱もらった。


 工具は自前だから全部持って帰る。トルクドライバー、測定用のスペアナ、絶縁テープの使いかけ。ロッカーの底の乾電池は捨てた。液漏れして粉を吹いている。


 三箱目にノートを詰める。B5の大学ノートが十七冊。表紙の年は2011から2026まで。角が丸くなって、背が汗で灰色になっている。


 その一番下に、色の褪せた青焼きの図面を一枚、寝かせて入れた。折り目が繊維になりかけて、開くたびに粉が落ちる。もらったときには、もう古かった。


「あの、網代さん」


 振り向くと、須賀原が立っていた。手に何も持っていない。用があるわけではないらしい。


「……えっと」


「うん」


「いえ、あの、その」


 語尾が消える。作業前に手順書を声に出して読む男で、あのファイルには付箋が四十七枚貼ってある。何枚貼ったかを本人が数えて、俺に報告してきた。


「手順書、棚に置いてあるから。中層はあれで足りる」


「はい。はい」


「深層のぶんは、書いてない」


 書けなかった。会社の業務として降りていない階層のことを、会社の手順書に書く方法がない。


「深層って、これから誰が行くんですか」


「外注さんが行くよ」


「行きますかね」


 須賀原の声が少し低くなった。彼が言い切った文を、久しぶりに聞いた気がする。


「行かなかったら、通らないだけだから」


「それ、まずくないですか」


「まずいよ」


「え」


「まずいけど、もう、うちの話じゃなくなった」


「網代さんは、まずいと思ってるんですよね」


「思ってるよ」


「じゃあ、言ってくださいよ。会議で」


「言ったよ。深層はどうしますかって」


「それだけですか」


「うん」


 彼は付箋のはみ出したファイルを胸に抱えたまま、床を見ている。


「網代さん、あの」


「うん」


 彼は口を開けて、閉じた。


 最後に、設置記録票を出した。今月ぶんの二十三台。設置場所、日付、型番、電池残量を埋めて、判子を押す。


 作業者欄は空欄のままだ。埋めなかったのではない。この用紙には、個人名を書く欄がそもそも無い。備品を据えるのは会社であって、人ではないからだ。


 十五年、一度も違和感を持たなかった。


 受け取った事務の人が「お疲れさまでした」と言った。書類の話か、十五年の話か、聞かなかった。


「あとは頼むね」


 須賀原が何か言う前に、エレベーターが来た。


   ◇


 江東区の元運送倉庫は、家賃七万二千円で借りた。


 一階は土間で、シャッターが半分しか上がらない。油と埃と、前の借主が残したコンテナの匂いがする。二階に布団を敷けば住める。


 ノート十七冊を床に並べる。


 2011年5月14日、第三層、AJ-0009。二台目。刻印の下に書いた日付が歪んでいる。手が震えていた。据え付けの最中は魔物に見つからないと知ってはいても、体は簡単に信じない。


 2019年8月3日、第三十層、AJ-0288。暑い年で、下の減衰が予測より一割悪く、八月だけで五回降りた。


 最後のページ。


 2025年11月22日、第四十七層、AJ-0473。


 四百七十三台。それが十五年の総量だ。


 協会が認定している公式踏破記録は、第四十二層だ。俺のノートの最後の行は、そこより五つ下にある。


 この差について、思うことは特にない。記録は協会のもので、ノートは俺のものだ。


 気になるのは、別のことだ。


 第三十八層。北側の枝坑に入って二百メートル。あそこに節点が一つ要る。据えていない。


 三十七層までは通っている。四十層から四十七層までも機材は据わっている。あいだの三十八層と三十九層だけが、去年の秋から空いたままだ。金と休みが揃わなかった、それだけの理由で。


 落ち着かない。机の上の書類が斜めになっているのと同じ種類の、落ち着かなさだ。


 床に座って、開業届の用紙を広げた。屋号の欄に、油性ペンで書く。


 網代通信。


 書き終えてから、段ボールの底の図面を取り出し、棚の一番上へ寝かせた。広げるのは、据えに行く日だけと決めている。


 卸のカタログをめくる。坑内仕様の据置型、一台八万円。五年、値が動かない。買う人間が少なすぎるからだ。手元に残るのは月に十数万。六月に買えるのは、一台。


 コンビニの袋からおにぎりを出した。海苔が湿気ていて、米が冷たい。噛みながら、ノートの最後の行をもう一度見る。


 第四十七層。あと三層で、あの図面の終点に届く。


 シャッターの隙間から、湾岸の風が入ってきた。潮と鉄の匂いがする。


 ──この時の俺は、まだ知らない。


 昨夜通したばかりの階層から、翌朝、生中継が届くことを。


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