第百四十七話 男をダメにする女
俺の言葉を聞いていた明美。しばしの時間の後、ゆっくりとため息をひとつ吐いて見せた。
「……色々お聞きしましたが……結局、浩之さんは彩音様と婚儀を結びたいと、そう思われているという事で宜しいですか?」
「……そこまでは正直、まだ考えきれて無いのが本音の所だ」
桐生と共に生きる未来ってのが悪いとは思ってない。漠然と、『そうなるんだろう』とは思っていたが……
「……お前に散々、現実突きつけられたからな。ぶっちゃけ、逆にイメージが湧かなくなった」
経営者としての才覚とか、結婚後の生活とか……そういう事を考えだすと、今までの『ふわっ』とした認識が曖昧になって来たのは事実だ。
「それでも『努力』を為さると」
「……結婚云々はまあ……ちょっと置いておけ。ただ、桐生と許嫁って生活を俺は悪くないって思ってるのは事実だ。そして、その悪くないって思っている現状が奪われそうなら……そこで足掻きたいって思ってるってのが正しいかな」
自分の中でも考えが纏まっていないというのもある。
「……でも……そうだな。きっと俺は桐生に負けたくないのかも知れない」
「負ける?」
「このまま俺と桐生が結婚したとして、そうなるときっと桐生の方に負担が掛かるだろ?」
「おそらくは」
「それは……やっぱりイヤだからな」
「男としてのプライドですか?」
「それが無いって言うと嘘になるけど……やっぱり、純粋に隣に並び立ちたいんだよ。守って貰うとか、支えて貰うだけじゃなくて……こう、なんていうのかな? お互いに支えあって、守りあって、そういう風に生きて行けたらって……」
……ああ、そうか。
「……色々言ったけど、多分これだわ」
『――凄く格好良かったわよ、東九条君。貴方が許嫁で……私、とっても嬉しい』
「多分な? 俺、桐生に『格好いい』って言って貰いたいんだわ」
言葉にしてみればとってもシンプルで、しっくりと胸に来る。
「俺が格好いいと思う桐生に、『格好いい』って言って貰いたいんだよ、俺。勝つとか負けるとか、男のプライドじゃなくて……単純に、『格好いい』って」
俺の言葉に目を丸くしてこちらを見やる明美。
「……ふ……ふふふ」
次いで、口元を抑えて控えめな笑い声。
「……なんだよ」
「い、いえ……ふふふ……あの浩之さんが、女性に『格好いい』と言われたいなんて……と、思いまして」
「……笑う事か、それ?」
「浩之さんが目の前に居なければ、お腹を抱えて笑っていました」
「そんなに!?」
ひどくない!?
「……当たり前じゃないですか。バスケットを辞めてから、何も求めようとしていなかった……は、語弊がありますか。智美さんは求めようとしてましたし」
「……」
「ともかく、何事もやる気の無かった、事無かれ主義で来ていた浩之さんが何かを求めているんですから」
そう言って、目尻の涙をぬぐい。
「――全く……私をこれ以上貴方に惚れさせて、どうするつもりですか?」
華の咲くような、笑み。
「……そんなつもりは……それに!」
「分かっています。浩之さんが努力をしようとしているのは彩音様の為だと」
笑顔を絶やさずに。
「それでも――何かを為そうと努力している殿方は、とても魅力的ですよ?」
「……」
「……まあ、それが私の為で無いという所に不満が無いと言えば嘘になりますが」
「……わりぃ」
「いえ、それは私のせいでもありますし。もう少し私が魅力的な女性なら、きっとこちらを振り向いて貰えたでしょうしね」
ため息をひとつ。
「……分かりました。それでは次回の期末テストで良い順位を取れば、彩音様との許嫁関係を……そうですね、『見逃して』あげます」
「……認めるじゃなくて?」
「……先ほども申しましたが、勉強が出来るという事が即、経営者としての才覚と結びつく訳ではありません。現状の浩之さんではまだまだ不確定要素が多いのは事実です。東九条の次期当主として、そのような事を認める訳にいかないのは……ご理解いただけますか?」
「……まあな」
「ですが……『勉強』が出来るというのは……まあ、例外もありますが『努力』が出来るという事です」
「あんの? 例外って」
「ごくまれに、趣味特技勉強という方がおられますから」
「……宇宙人かよ」
「少なくとも、浩之さんの様な方ではありませんね。そして……イヤな事を努力できるという事は、今後の伸びしろに期待が持てるという事ですから。今ここで、浩之さんと桐生さんの縁を無理矢理切ってしまうという方法を取らず……そうですね。大学を卒業するまでは『見逃して』差し上げます」
「……」
「不満ですか?」
「いや、不満じゃないけど……」
「これはつまり大学を卒業するまで努力し続けるという事です。今回のテストを乗り切れば私は口を出しませんし、縁を切る事は致しません。致しませんが……まあ、今回のみを努力した程度の実績では、私がどうこう言わなくてもお父様から反対が入るでしょうし。仮に反対が入らなくても……浩之さんだって、嫌でしょう?」
「……まあな」
……まあ、当たり前と言えば当たり前だ。一回こっきりのテスト、まぐれ……が起こっても流石に十番以内には入れんだろうが、一回だけ頑張ったところで桐生の家の事業を継げる訳ないし。継続的な努力が大事になるのは簡単に想像が付く。
「……どうです? 考え直しますか? 今なら、先ほどの言葉は聞かなかった事にして、私と怠惰な生活を送る選択肢を選んで頂いても構いませんよ?」
茶目っ気たっぷりにそう笑って見せる明美。その姿に、俺は苦笑を浮かべて首を横に振る。
「……男をダメにするヤツだろ、それ」
「あら? それも良いかも知れませんね。浩之さんがダメになれば、私以外の女性陣は見向きもしなくなるかも知れませんし。ほーら。浩之さんは私と一緒に居たくな~る、居たくな~る~」
「どんな呪文だよ、それは。それにお前だったらイヤだろ? そんなヤツ」
「イヤな訳ありませんよ」
笑って。
「――貴方が今まで通りの浩之さんであれば、私は何も望みませんよ」
「……マジで男をダメにする女だよな、お前」
「違います。私がダメにしたいのは浩之さんだけですので。誰でもいい、みたいな言い方、やめて貰っていいですか?」
「……さよけ。まあ……ともかくその案は却下だ。悪いけど、頑張るさ」
「……ええ。そうですね。そうは言っても私も見てみたいですし、浩之さんの頑張ってる姿を」
「……分かったよ」
「あ! それでも苦しくなったらいつでも言って下さい。迎え入れる準備は万端ですので!」
「……そうならない様に頑張るさ」
そう言ってカップに入ったコーヒーを一気に飲み干す。
「……長居した。帰るわ。急に押しかけて悪かったな」
そう言って席を立つと、明美も一緒に席を立つ。
「いいえ。むしろ気を遣わずにいつでも来てください。お待ちしてますから。というか今日、泊まって行かれます? 夜も遅いですし、夜道は危ないですよ?」
「……まだ五時前だし、そもそも隣の部屋なんだが?」
どんだけアウトローなマンションだよ、此処。隣の部屋までの数メートルが危ないって。世紀末か。
「幼い頃は一緒のお布団で寝ていたではありませんか。たまには幼心を思い出すのも良いかと」
「……勘弁しろ下さい」
いくつの時の話だよ。今更お前が隣で寝てたら緊張して寝れねーよ。
「ふふふ。まあ、女性からあまり迫るのもはしたないですし、今日の所は帰して差し上げましょう。玄関までお見送りしますね」
「此処で良いぞ?」
「お見送りしたいんですよ。新婚さんみたいでしょ?」
「……ノーコメントで」
「ふふふ!」
可笑しそうに笑う明美に肩を竦めて、俺はリビングを出て玄関に向かう。
「忘れ物はありませんか? 具体的には愛しの又従姉妹に対する愛の言葉など」
「……ぐいぐい来るな、お前」
「それぐらいしておかないと、一気に負けてしまいそうなので」
玄関で靴を履く俺の背中にそう声を掛ける明美。後ろで絶対おかしそうに笑っているだろう事が分かる程に言葉に笑いを含める明美に肩を竦めて靴を履き終わった俺は立ち上がって明美を見やる。
「……んじゃ、またな」
「ええ。折角のお隣さんですので、よろしかったら遊びにいらっしゃって下さいね?」
「……気が向いたらな」
『お待ちしております』という明美の声を受けながら、俺は玄関のドアを開けて。
「――あ」
同時に、隣の部屋のドアが開く。そこから顔を出した桐生は、俺の顔を見た瞬間に一瞬、安心した様に『ふにゃ』と顔を緩ませて。
「どうしました、浩之さん? 玄関先で立ち止まって」
ひょいっとドアの隙間から明美が顔を覗かせる。そんな明美と目が合った瞬間、桐生の顔が引きつる。見ていられない程悲しそうな顔を浮かべて、その顔のまま、まるで逆再生の様に出て来たドアの内側に戻っていった。
「あら……別に悪い事をしている訳では無いですが……まあ、彩音様にしてみれば気分の良いモノでは無かったかも知れませんね」
少しだけ唖然とした表情を浮かべながら、そう言って俺を見やる明美。
「……まあな」
「……」
「……」
「……ああ、そうですね」
不意に明美はポンっと手を打って。
「浩之さんはともかく、彩音様が『もう浩之さんなんて知らない!』と言っても、この許嫁は解消になるんでしたね。そっちで行きましょうか?」
きっと、その言葉は冗談なんだろう。面白そうにクスクスと笑う明美に、俺は今日一番のため息を吐いた。
「……勘弁してくれ」
割と、マジで。