第百四十六話 それに気付かせてくれた、貴方の隣に居たいから
「どうですか、浩之さん? 彩音様の事を慕っているのですか? 添い遂げたいと、そう思っているのですか?」
「それは……」
言い淀む俺。そんな俺に、明美は真剣な眼差しを向けて来る。
「……私の事は、嫌いですか?」
「……嫌いじゃねーよ」
「……私と一緒になれば、浩之さん、一切苦労をしなくて済みますよ? 苦しい事なんて何にもないです。言ったでしょ? 東九条の仕事は資産管理と名義貸し、勉強なんて出来なくても良いです」
「……」
「毎日、楽しく暮らせます。難しい事なんて考えなくて、ただただ日々を生きる。張り合いが無いと言うのなら、なにか事業を始めても良いですよ? 働くのがイヤなら、旅行とかもいいかも知れません」
明美の言葉に、俺の顔についつい苦笑が浮かぶ。そんな俺の態度に、訝し気に明美が眉を顰めた。
「……どうしましたか? 私、変な事を言いましたか?」
「いや、そうじゃなくて……明美の言う通りだな、って」
「言う通り……ですか。それでは!」
一瞬にして喜色を浮かべる明美。そんな明美に苦笑の色を濃くして俺は言葉を続ける。
「確かに……お前が言う通り、お前と結婚すれば裕福な生活が送れるかも知れない。難しい問題も、困難な問題もないんだろうな。桐生と結婚して、経営をする以上悩みもあるんだろうが……お前と結婚すれば、そんな事も無いんだろうな」
「でしょう? きっと、楽しい生活です!」
嬉しそうに顔を綻ばす明美。そんな明美に黙って首を横に振る。
「楽しい? 違うぞ、明美。それはな?」
『『楽』と『楽しい』は違うのよ』
「『楽』って言うんだよ」
「――っ!」
「お前の言う通りにすれば、きっと『楽』だとは思う。でもさ? それって楽しいのかな?」
「それ……は……」
唇を噛み、下を向く明美。と、その視線を強いものに変えて俺を射貫く。
「……ダメ、なのでしょうか?」
「……」
「確かに、私の言う生活は『楽』なのかも知れません。毎日毎日、のんびり暮らす生活は楽なのかも知れません。『楽しく』ないのかも知れません」
「……」
「でも……それでも良いじゃないですか。その生活が『楽しく』ないと言うなら、私がきっと楽しいものにして見せます。楽なだけじゃなく、きっと楽しいものに」
だから、浩之さん、と。
「――私と一緒に、毎日『楽しく』生きていきましょう。いいえ……一緒に、生きて下さい」
懇願するような明美の眼差しに、少しだけ心が軋んだ音を立てる。それでも俺はその痛みを押し留めて言葉を続ける。
「……こないだな? 瑞穂が怪我したんだ」
「……茜さんからお聞きしました。靭帯を切ってしまわれた、と」
「それで……まあ、紆余曲折あって俺はバスケをしたんだよ」
「……なぜ?」
「色々あったんだよ」
不思議そうに首を捻りながら、それでも俺の言葉を促すような視線を向ける明美。
「……智美とか、秀明とか、俺のツレの藤田とか……桐生とかとバスケをしてな? 瑞穂には申し訳ねーけど……まあ、楽しかったんだよ」
「……瑞穂さんの怪我は不幸な事ですが、だからと言って浩之さんが暗くなる必要はありません」
「あんがとよ。で、まあ……そうやってバスケをしてみて思ったんだ」
――バスケから逃げなきゃ良かったって。
「! に、逃げた訳では無いじゃないですか! あれは!」
「いや、あれは逃げたんだよ」
「に、逃げてません! 貴方はあれほど頑張っていたのに、その努力を嘲笑うチームメイトのせいです! あ、貴方は何も――」
「いや。それは違う」
「――悪く……ち、違う?」
「ああ、違う。やっぱりそれは違う。皆、言ってくれる。『逃げたワケじゃない』『お前は悪くない』『悪いのはチームメイトだ』って……皆、言ってくれる。でもな? やっぱりそれは違うんだよ」
「……どう、違うんですか?」
首を捻る明美に。
「俺はやっぱり逃げたんだよ」
そう。
「――チームメイトに、『俺はこうしたい』って、自分の意思を主張する事から。『楽しい』バスケから逃げて、『楽』な道に行ったんだ」
「……」
「あの時の俺はキャプテンだった。なら、練習の意味も、意義も、説明する必要があった」
「してなかったのですか?」
「勝ちたい、しか伝えて無かった気がするな」
いや……今思えば、それもきちんと口に出したかどうか怪しい。
「……本当にバスケが好きで、本当にあのチームで勝ちたいと思うのなら……きっと、俺は皆にそれを説明しなくちゃいけなかった。頑張ろうって、一生懸命やろうって。でもそれってさ? 言ったら絶対揉めるんだよな。皆と違う事をしようって言うのって、きっと物凄く気力と体力を使う事なんだよ」
今にして思う。
「……そんな事にすら気付かなかったんだよ、俺は」
あの時、声を大にして主張すれば良かったのだ。『俺はこうしたい』と『俺は勝ちたい』と。それをせず、チームメイトの怠惰に怒り、勝手にバスケ部を投げ出した俺は。
「だから……やっぱり、俺は逃げだしたんだよ」
やっぱり、逃げ出したんだ。
「……そんな説明をせずに、俺はバスケから逃げた。正確にはバスケからって言うよりはチームメイトからだけど」
「……」
「……瑞穂の怪我で、ちょっとだけ真面目にバスケに取り組んだ。そりゃ、小学校とか中学校の時ほど真剣では無かったかも知れんが……それでも勝ちたいと思って取り組んだ」
「……はい」
「そしたら、思ったんだよな。なんで俺、こんな楽しいバスケを辞めたんだろうって。ああ、違う。なんであの時『逃げた』はずのバスケがこんなに楽しいんだろうって」
「……」
「……そりゃ、そうだよな。俺は別にバスケから逃げたワケじゃない。バスケ自体はずっと好きなままで……俺は単純に、俺に厳しい環境から逃げ出しただけだった、って」
何時だって、俺はそうだった。
チームメイトから逃げ。
大好きな筈のバスケから逃げ。
智美の言葉で、想いを伝える事から逃げ。
涼子の優しさを感じながら、その想いに応える事から逃げ。
「……そして」
――目の前の『現実』から、逃げ。
「……ずっと逃げ続けて来たからな、俺は」
「……そんな事は……」
「……」
「……いえ。それを私が言っても仕方ありませんね」
そう言って、ため息をひとつ。
「ですが……『逃げる事』はそんなに、悪い事でしょうか? 別に良いじゃないですか、逃げたって。そこにしか道が無いのなら、その道を進むしかないでしょう。ですが、浩之さん? 貴方には選ぶべき道が他にある。なら、別に茨の道を進まないでも良いのではないですか?」
だって、現実は苦しいから、と。
「……そうだな。別に悪い事じゃないと思う。無理して厳しい道に進むことが、絶対的に正しいなんて言うつもりはねーよ」
「……でしょう?」
「……でも、アイツは違うんだよ」
どんな時でも、桐生は一人で歩いて来た。
勉強だって。
運動だって。
容姿に関してだって、手を抜かなかった。
「……その姿は」
純粋に格好良かった。純粋に眩しかった。こんな人間になりたいと、こんな人間でありたいと、そう思わせてくれた。
「……」
「俺は……きっと、どんどん上手くなって行ったんだよ。諦める事に。辞める理由を探す事に。逃げる言い訳を見つける事に」
「……」
「……でも、それはイヤだよ、やっぱり」
「その生き方はイヤ、ですか?」
「ああ」
一息。
「……桐生が好きかどうかって問われたら……まあ、当然好きだよ」
「……」
「勿論、男女の感情も込みだよ。でもな?」
でも。
「それ以上に俺は、桐生の隣に立って、並び立つ男になりたい」
「……」
「だから……これが正解かどうかは関係ない。勉強したって優秀な経営者にはなれないかも知れない。でもな?」
それは、俺が始めない理由にはならない。
「辞める理由も、投げ出す言い訳をするのももう、飽きたんだよ」
俺が欲しいのは。
「――始める理由と、続ける意思だ」




