狼のつがい
佐彦と別れ、森へと走った。
「私、佐彦にも、狼さんにも酷いことをした……!!いつだって自分可愛さに逃げ出して、傷つけてばかりの、こんな私が優しいはずなんてない!」
花畑にたどり着いたけれど、そこに狼の姿はなかった。
「ここじゃない!じゃあどこ……湖っ!!」
先ほど連れて行ってくれたあの湖にいるだろうかと、案内された道を思い出しながらまた走りだした。
息が上がって、喉が苦しい。ぜぇぜぇと息を切らせて迷いながらも、なんとか歩を進めた。
茂みをかき分けて湖にたどり着いた。
日が沈む、西日が眩しい。
湖に夕日がきらきらと光って、辺りは赤く染め上げられている。
私はその光景に立ちつくし、そしてぽつりとつぶやいた。
「そっか……ゼルは、本当はこれを見せたかったのね…………」
夕陽は私とゼル二人の色だとかつてそう言った。その光景を、見せてくれようとしたのだ。
ここにいない、夕陽に染まった狼の姿を思い出した。
あれは、求婚のやり直しをしてくれたんだ。
夕陽の中で鼻と野兎、鼻先に鼻をくっつけての口づけ。
全部、全部。あれはゼルの愛情の証。力を失って、ゼルの声を聞く力も失って、ゼルの記憶すら失って自分を守ろうとした愚かな私を、それでもゼルは愛してくれていたんだ。
熱を出して倒れた私を村へと運び、その近くでずっと見守りながら、私が怯えないように姿を現して、
「狼さん、いいえ。ゼル……ごめんね……。ゼル、ゼル――――!!」
夕陽に向かって力いっぱい叫んだ。呼んだって、聞こえるわけがないと思いながらも叫ばずには居られなかった。
するとどこからか、狼の遠吠えがした。
辺りいっぱいに響き渡るような、朗々とした鳴き声が体を、森を揺さぶるような気がした。
呼ばれてる、と感じた。
「ゼル――――――っ!!」
あの声に負けないように、お腹から声を振り絞って私は叫んだ。
また遠吠えが聞こえた。
あの声は、私に応えてくれているんだ。ゼルが呼んでる。行かなくては!
けれど、どこへ行けばいいのだろう。遠吠えは辺りに反響していて、どこから聞こえたのかすらよくわからない。
方向さえ分かれば今すぐにでも走ってゆくのに!
ゼルが私に気付いたということは、もしかしてゼルが私を探してくれているかもしれない。そう思って、今すぐにでも駆けだしたい衝動を抑えて静かにその場で待っていた。
がさごそと、背後から音がした。
私がすぐさま振り向くと、茂みの中から一匹の狼が現れた。
夕日に照らされた艶やかな黒い毛並み、柔らかそうなお腹の白い毛、がっしりとした足、凛々しく野性的な顔立ちだけれども、柔らかく優しい光を湛えた薄い金色の瞳。
ゼルだ。急いで駆けつけてくれたのだろう、はぁはぁと牙をむき出しにして舌を出しているけれど、私はちっとも恐怖を感じない。
静かに私に近づいてきた狼に、私はしゃがみ込んで目線を合わせて、そっと告げた。
「私、白い髪になってしまったけれど、夕陽に染まればあの頃と同じように赤い髪に見えるかな……?」
狼がピクリと大きく耳を動かした。
「うん。私思い出したよ、ゼル。ごめんね。ゼルを、忘れてしまってごめんなさい。私はゼルのつがいなのに……忘れてしまって、ごめん…なさい」
最後は涙が堪え切れなくて、途切れ途切れになってしまった。
「ようやく、ようやく思い出したよ。全部、全部。
私は美しくなくて、優秀な個体でもなくて、ゼルの子供も産めないヒトのメスで、ゼルが美しいと言ってくれた赤い色も失って、一度はゼルのことを全て忘れて逃げてしまった愚か者です。
だけど……だけどゼルのことを愛しています。ゼルが私にくれた沢山の愛情と優しさに釣り合わない愚かな私だけれど、もう一度ゼルの奥さんとして、つがいとしてもらえますか……?」
私が全ての言葉を言いきると、ゼルは大きく尻尾を振って、そのまま私に飛びついてきた。私はそれを受け止めようとして受け止めきれず、そのまま後ろにどさりと倒れ込んだ。
間近で私を見降ろすゼルに私は顔を近づけて、ゼルの鼻先に自分の鼻をそっと押し当てた。今度はゼルが私の鼻先にちょんと鼻先をくっつけた。
ゼルと私の口づけ。愛情の証。
涙が溢れて溢れて止まらなかった。ゼルはそれを何度も何度も優しく舐めて、拭ってくれた。
確かに私はゼルの声を聞く力を失った。
けれど、それによって愛情が失われたわけではない。
私はゼルの声が聞こえなくなったことで、ゼルの私への愛情が失われるのではないか、自分のゼルへの愛情が失われるのではないか、ゼルをただの家畜の様に扱ってしまうのではないかと恐れてゼルの記憶を失ったのだろう。
しかしゼルは記憶を失った私を、変わらずずっと見守り続けていてくれた。
私は言葉が通じなくても、ゼルの中に確かに愛情を見つけることが出来た。言葉が通じなくたって、私の愛情もゼルの愛情も確かにそこに存在したのだ。
ゼルの心の声を聞けると言う強い力に溺れて、私は大切なことを見失っていたのかもしれない。
私がゼルの首に腕をまわしてぎゅっと抱きつくと、ゼルは私にすりすりと頬ずりしてくれた。
私の幸福。失わなくて良かった。私のつがい。旦那様。
すると、突然ゼルが警戒するように唸り声をあげ、茂みの方を睨みつけた。私も茂みの向こうを見つめた。
刹那、茂みの向こうから風を切る音とともに、ゼルの背中に矢が突き刺さった。
「ゼル!!」
ゼルが避けなかったのは、避けると私に当たるかもしれないと思ったからだろう。
茂みががさがさと揺れ、現れたのは佐彦だった。
私達、正確にはゼルに矢を構え、弦を絞っている。
「狼め!朱美を放せっ!!」
佐彦は私がゼルに襲われていると勘違いしたのだろう。あわててゼルの下から這い出て、ゼルを背にかばった。
佐彦は驚愕の表情で私を見ている。
「朱美!?何をしているんだ!危ないから早くこっちへ!」
「やめて佐彦!この狼は私を襲っていたわけではないの。ゼルは人を傷つけたりしないわ!だから武器をおろして!」
けれど佐彦は弦から手を離さない。
ゼルは私の背後から今にも飛び出しそうな形相で、低く唸り声をあげている。
私は静かに佐彦に言った。
「佐彦、やめて。この狼は私の夫よ。傷つけるのならば、私はあなたを許さない」
「何を言ってるんだ朱美……?狼が夫?そんなことありえるはずがないだろう!言葉もわからぬ動物と、心を通わせられるはずがない!」
「そうね。けれど私は心を通わせた。私はかつて人間から化け物だ魔女だと忌み嫌われて、孤独の中に生きてきた。そんな私を救い、支えて、愛してくれたのがゼルだった。信じてもらえないかもしれないけれど、私にはかつてこの狼、ゼルと心を通わせる力があったの。私を忌み嫌う人間よりも、私を愛して共に暮らしてくれたゼルの方が、私にとってはよほど大切な存在だったの。だからゼルのつがいになった」
佐彦は、私の告白を困惑しながらも静かに聞いてくれた。
「熱を出した私を村に運んでくれたのはゼルよ。そして私はもう一度、ゼルとつがいになった。狼のつがいは生涯たったひとりだけなの。そんなたった一人に、ゼルは私を選んでくれたの。
ゼルの子を産むこともできない、人間の私を選んで、愛してくれたの。私はそれに、私の全てで応えたい。ゼルが私の失った過去の全てよ」
私の強い言葉に、佐彦はしばらく私の真意を問うように私の目を見つめていた。
私も佐彦にどうか伝わってほしいとじっと佐彦を見つめる。
永遠に感じるような静かな沈黙の後、佐彦は私に静かに問うた。
「そうか……それがかつての朱美だったんだな。だが、これからはどうするつもりだ?」
佐彦の言葉に、私は考えるように一度目をつぶり、そしてゆっくりと目を開けて佐彦を見つめて言った。
「お婆さんお爺さんには全て話す。出来れば村のみんなにも。私の過去、ゼルのこと、私がゼルのつがいであることも……。それで受け入れられたのならば、私は今まで通り村でお爺さん達の手伝いをしながら暮らしていきたい。そして毎日森にゼルを尋ねに行くわ」
私がゼルと共に同じ生活をすることは不可能だ。かつての様な力もなく、私の様な小娘が森や山で生きていくことは出来ないだろう。そして、きっと私が望めば、ゼルは村で共に暮らしてくれるだろう、けれどそれはしたくなかった。ゼルは狼だ。人間ではない以上、人間のそばで暮せば扱いは家畜と変わらなくなるだろう。そしてきっと、誇り高い狼のゼルはそれを望まない。
私がゼルとかつて暮らせたのは、私に山で暮らしていける強い力があったことと、ゼルの心の声を聞いて対等な関係を気付くことが出来る力があったから出来た奇跡のような状態なのだ。
そして人は言葉の通じない異なる存在を、自分より上にみるか、下にみるかの線引きをしないと接することが出来ないのだ。私も含めて……。
だから私がゼルと対等に生きてゆくためには、共に暮らしてはだめなのだ。森で生きてゆく力のない私と、村で生きるには言葉を話せないゼル。ならば私は人間として暮らし、ゼルは狼として暮らし、その境目で交わるように生きる努力をする。
これが私が出した結論だった。
「もちろん。お爺さん達や佐彦、村のみんなが、私がゼルのつがいであることを認めてくれなければ、私は村を出ていくわ。村のみんなとゼルを選べと言われたら、私はゼルを選ぶ。よそ者の私にとてもよくしてくれたみんなには申し訳ないけれど、私はもう二度とゼルを孤独にしたくないの。私を孤独から救いあげて愛してくれたゼルを、私が孤独にしたくない」
私の決意を聞いて、佐彦は何かを堪えるように耐えた後、静かに矢を下におろした。
「そうか……それが朱美の愛情か。その狼が羨ましいな……」
「佐彦……」
佐彦はくしゃりと笑った。
「狼、悪かった。朱美、狼、村に行くぞ。傷の手当てと……みんなに話すんだろ」
佐彦はゼルに視線を向けて謝罪した。ゼルはやや緊張した様子だけれども、唸るのをやめた。
私達は静かに村に戻った。
狼が村に入ってきたことにみんなは騒然としたけれど、私と……佐彦の口添えで何とか遠巻きにではあるが、武器をおろして話を聞いてくれた。
私は言葉を尽くしてこれまでのことを詳細に語った。その上で私はゼルのつがいとして生きて、村で暮らしたいと告げた。全てを語り終えた私は静かに村のみんなの答えを待った。
かつてのように心の声が聞こえないことに、恐怖を覚えた。けれどかつてとは違い、心の声を聞く力を失ったかわりに私は心を伝える手段を得た。
心の声は本来聞こえなくて当たり前のものなのだ。だからこそ人は言葉と言う心を伝える手段を得たのだ。私がかつて化け物、魔女と言われていたのは人を傷つける力を持っていたからではなく、人に自分の想いを伝える術を持たなかったからなのだろう。
ゼルと山小屋で暮らしていた時に、子供は私の言葉がわからなくても私の心を受け取ろうとしてくれた。お爺さん達は言葉のわからない私に懸命に話しかけてくれた。
けれど、かつての私は子供の心を勝手にのぞくばかりで自分の心を伝える努力はしなかった。力を失った私は必死でお爺さん達の言葉の意味を受け取り、伝えようと努力した。それは山小屋に村人が詰め寄った時も同じだ。あの時、私に心を伝える術があったのならば、結果は違っていたのかもしれない。
かつての記憶が頭をよぎり、あの時の村人の冷たい目と分かり合えない言葉を思い出して不安を覚え、すぐにあの時とは違うと自分に言い聞かせた。
私は言葉を得た。私に可能な限りの言葉を尽くして、自分とゼルのことを伝えた。あとは、村のみんなが出した答えを受け取るだけ……。
誰もが互いの目を見てどうすると伺いあっている中で、お爺さんとお婆さんが進み出た。
「朱美……」
「お爺さん、お婆さん……」
二人は静かな瞳でまっすぐ私を見つめた。
「朱美に野兎をくれたり、リンゴをくれた相手はこの狼だったんかい?」
「はい」
「朱美が薬草を採りに毎日森へ出かけていたのも、この狼に会いたかったからかい?」
「お婆さんの腰を心配したのも嘘じゃない。……けれどゼルに会いたかったのも本当なの」
「そんで、朱美はこの狼の嫁なんじゃな?」
「はい。私が望んでゼルの嫁になりました。ゼルが望んで私をつがいにしてくれたの」
「ほんならそれでええ」
「……お爺さん?」
お爺さんは、なんでもないことのようにそう言った。
「朱美が選んだことじゃ。それは難しい道じゃぞ。じゃが朱美が望んで選ぶんじゃったらええ。わしらはそれを見守るだけじゃ」
お婆さんも優しく言った。
「朱美は私らの家族だからねぇ。朱美に立派な牙を持った旦那さんがおったいうだけのことだからねぇ。言葉なんぞわからなくても、お互いの気持ちが向いていて、傷つけあうことがなけりゃあいいんじゃないかねぇ」
「お婆さん……」
二人の言葉がきっかけだった。
村のみんなもゼルが村人や家畜を傷つけないのならば、私がこの村で暮らすことも、ゼルのつがいであることも受け入れようと言ってくれた。
感謝してもしきれないくらいのみんなの優しさに、私は泣きながら何度も何度もお礼を言った。ゼルはそんな私の涙を何度も何度も拭ってくれた。
私は毎日森へ向かう。
ゼルは森で私を待っている。
私はゼルの姿を見つけて駆け寄り、ゼルは尻尾を振って私を迎えてくれる。
私は相変わらず村でお爺さんお婆さんと共に暮らし、ゼルは森で暮らしている。ゼルは時々、村人が熊に襲われたり、山賊に襲われるのを守ってくれるようになった。
初めはゼルを遠巻きにしていた人も、いつしかゼルを森にすむ村の仲間だと認識してくれるようになった。
「朱美ちゃんの旦那は、村の守り神みたいな存在だな」と言われた時が、とても嬉しかった。
いつしか村は「狼に守られた村」と呼ばれるようになった。
今日はお婆さんが繕ってくれた朱色の着物を着てみた。ゼルは気に入ってくれるだろうか。
私は今日も森へ行く。
『シュビー、シュビー!』
森からゼルの声が聞こえたような気がした。
これにて「狼のつがい」完結です。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。