第32話:神域の闘技場と、覚醒の鈴音
第九層の照葉樹林を踏破し、ベースキャンプで万全の補給と装備点検を終えた翌朝。
四月第二週の土曜日、午前八時。
霧島第一ダンジョン第十層へのアタックを前に、ベースキャンプのブリーフィング室はかつてない静寂と緊張感に支配されていた。
「あかねちゃん、橘一尉、熊倉二曹。」
大型モニターの前に立つ赤城燈主任の声には、いつものマッドサイエンティストじみた軽妙さは微塵もなかった。
モニターに映し出されているのは、第九層最奥の大階段の先から漏れ出る、観測限界を振り切った魔素の乱気流データだった。
「第十層。そこは全百層からなる霧島第一ダンジョンにおいて、最初の絶対的な節目よ。……これまでの第一層から第九層までに現れた中ボス(フロアガーディアン)とは、本質的に格が違う。ダンジョンそのものの意思が生み出した領域支配者――真の階層主が待ち受けているわ。」
燈さんが端末を叩くと、赤黒いノイズ混じりの生体反応グラフが投影された。
「第九層の調査データから推測されるボスの魔力総量は、第六層のフォートレス・ゴーレムや第八層の巨大アンコウの倍以上。さらに厄介なことに、地脈の反応が完全に『二分』されているの。つまり……敵は単体ではない可能性が極めて高いわ。」
「複数体の階層主……ですか。」
橘一尉が愛銃の機関部を指先でなぞりながら、低く呟いた。
その表情は、極限の戦場を前にした歴戦の軍人そのものだった。
熊倉二曹も、第八層で手に入れた深海甲殻とミスリル合金で補強された純白のタワーシールドをドンと床に突き立て、無言で頷く。
「あかねちゃん。」
燈さんが私の肩に手を置いた。
「危なくなったら、何よりも命を優先しなさい。貴女のテレポートがあれば、どんな窮地からも脱出できるはずよ。……無理だと思ったら、即座に階段へ引き返しなさい。」
「……はい、燈さん。絶対に、全員で生きて帰ってきます!」
私は胸元の『浄化の魔導チョーカー』を確かめ、二本の黄金の尻尾をギュッと引き締めた。
サキが徹夜で仕上げてくれた白無垢の巫女装束は、美濃黒泥炭とミスリルの極細ワイヤーが幾重にも織り込まれ、防刃・耐熱・耐呪詛の性能が限界まで高められている。
ポケットには、兄の晃が「家宝の全素材を注ぎ込んだ」と豪語した、最高純度の『超特級万能霊薬』が三本。
「オクルス一号、起動。全世界への生中継を開始します。」
橘一尉の合図とともに、黒い魔導ドローンカメラがふわりと宙に浮き、青いレンズが発光した。
画面の向こう、待機画面で待つ視聴者の数は、開始数秒で三千万人を突破していた。
: きたああああああああああ!!
: ついに第10層! 霧島ダンジョン最初の節目!!
: あかねちゃん、橘さん、熊倉さん、絶対勝ってくれ!!
: 日本中が祈ってるぞ!!
何千万もの祈りと声援が、視界の端のコンタクトモニターを駆け巡る。
私たちは第九層の転移ポータル広場から、あの大門の奥に口を開ける、暗黒の階段へと足を踏み入れた。
---
階段を一段、また一段と下りるごとに、周囲の重力が増していくような錯覚に襲われた。
大地の龍脈が激しく軋み、皮膚の表面を無数の針でチクチクと刺されるような、濃密極まりない魔素の圧迫感。
私の二本の狐耳がピンと張り詰め、全身の毛が警戒で逆立つ。
そして――百段を超える大階段を下りきり、巨大なアーチを抜けた瞬間。
パァァァァッ……!
視界を埋め尽くしたのは、息を呑むほど壮大にして無機質な、古代の遺構だった。
「……コロッセオ……!?」
熊倉二曹の驚愕の声が、高々と反響した。
そこは、周囲を何重もの巨大な石造りの観客席が取り囲む、直径三百メートルを超える古代の円形闘技場だった。
頭上には天井が存在せず、禍々しい紫紺の雷雲が渦を巻き、闘技場の砂地には無数の亀裂が走っている。
だが、私たちがアリーナの砂地へと完全に足を踏み入れた、まさにその瞬間――。
ゴゴゴゴゴゴゴゴッ……!!
背後で地鳴りのような轟音が響いた。
振り返ると、私たちが通ってきたはずのアーチ状の入口が、床からせり上がってきた巨大な黒鉄の格子扉によって完全に塞がれていた。
さらに、その格子の表面に、禍々しい赤黒い結界の紋様がびっしりと浮かび上がる。
『――階層主領域への侵入を確認』
『領域閉鎖プロトコル発動。フロアマスターの完全討伐、あるいは侵入者の全滅まで結界は解除されません』
頭の中に直接響いてきた、冷酷なシステムのシステムメッセージ。
「退路が……消えた!?」
熊倉二曹が格子扉に突進し、シールドを叩きつけるが、黒鉄の扉はビクともせず、逆に反発する魔力の火花が熊倉二曹の巨体を弾き飛ばした。
「結界の強度が桁違いです……! 私のテレポートでも、この外部遮断結界を透過することはできません!」
私が空間をスキャンして叫ぶ。
「……背水の陣、ということですね。」
橘一尉が冷徹に小銃を構え、アリーナの中央へと視線を向けた。
「元より、引く気はありません。敵を討伐し、道を切り拓きます!」
闘技場の中央。
紫色の砂煙が激しく渦巻き、そこから二つの巨大な黒い影が、ゆっくりと立ち上がった。
メェェェェェ……ッ!!
グゥオオオオオオッッ!!
大気を切り裂くような、不気味極まりない獣の嘶き。
砂煙を払って姿を現した二体の異形に、全世界の配信画面が息を呑んだ。
右側に立つのは、体長六メートルを超える、筋骨隆々とした漆黒の山羊の魔神――【デーモンゴート(深淵の黒山羊魔卿)】。
二足歩行のその筋骨は鋼のように引き締まり、頭部からは天を衝く巨大な二本の黒角が禍々しくねじれ曲がっている。その両手には、青白い炎を纏った巨大な処刑斧が握られていた。
そして左側に浮かぶのは、同じく体長六メートル、だが全身を雲のような不気味な紫黒の羊毛で覆った魔羊――【デーモンシープ(幻夢の紫羊魔妃)】。
細身の身体に、巨大な螺旋状の羊角。その掌の上には、毒々しい紫色の魔力球が幾重にも回転していた。
【万象識別】!
『種族』:デーモンゴート(階層主・陽核) & デーモンシープ(階層主・陰核)
『危険度』:Cランク(第十層真性階層主/フロアマスター)
『特性』:
【デーモンゴート】:超絶物理攻撃力、黒炎属性、突進衝撃波、麻痺咆哮。
【デーモンシープ】:全属性魔術、紫霧散布(睡眠・精神混乱・脱力)、呪詛障壁。
『連携特性:【深淵の双極輪廻】』
・ 片方が攻撃を行っている間、もう片方が死角を完全にカバーする絶対的連携行動。
・両者をほぼ同時に撃破しない限り、残された片方が相手の魔素を吸収して完全復活・暴走状態へと移行する。
「Cランク……! 危険度Cランクだと!?」
熊倉二曹が唾を飲み込む。
これまでのDランク、D+ランクとは一線を画す、国家戦略級の脅威度判定!
「来ます!!」
私の警告と同時に、闘技場の空気が爆発した。
ヒュオオオオオッ!
デーモンシープが優雅に腕を振るうと、闘技場全体へ目も眩むような紫色の霧が津波のように押し寄せてきた。
第九層の比ではない、超高密度の複合状態異常霧――吸い込めば一瞬で神経を破壊される猛毒と睡眠の嵐!
「サキのチョーカー、最大出力!」
私の首元のチョーカーがキィンと澄んだ音を立て、青い障壁を展開して毒霧を弾き返す。
だが、視界が完全に紫の闇へと閉ざされた!
その煙を突き破り、音速を超えて突進してきたのは、処刑斧を振り上げたデーモンゴートだった!
「ガハハハハッ! 潰レロォッ!!」
「【堅守の構え】――限界突破ッッ!!」
熊倉二曹がタワーシールドを構え、全身の筋肉を軋ませて受け止める!
ドォォォォォォォォンッッッ!!!!
闘技場の石畳が半径数十メートルにわたって粉々に砕け散った。
凄まじい衝撃波。熊倉二曹の足が石の床を深く削り、数十メートルも後退させられる。
シールドのミスリルコーティングが火花を吹き、熊倉二曹の口元から血条がツーッと垂れた。
「ぐ、がぁぁっ……! な、なんだこの馬鹿力は……! ダンプカーが突っ込んできたどころじゃねえぞ!」
「熊倉二曹! 【精密射撃】――【徹甲撃】!」
橘一尉が即座に回り込み、デーモンゴートの無防備な側頭部へ魔導徹甲弾を三連射した。
タアンッ! タアンッ! タアンッ!
完璧な射撃。
だが――。
キィィィィンッ!
弾丸が着弾するコンマ一秒前、虚空から現れた紫色の魔力障壁が弾丸を完璧に弾き飛ばした。
後方に浮遊するデーモンシープの呪詛障壁だ。
「ウフフフフ……無駄ヨ、矮小ナ人間ドモ……」
デーモンシープの瞳が妖しく光ると、闘技場の天井から、無数の黒い雷槍が一斉に降り注いできた!
「妖術――【水華天蓋】!」
私は咄嗟に水流の天蓋を展開し、雷槍を受け止める。
だが、雷の魔素が水流を伝って逆流し、私の全身を激しい電撃が襲った。
「きゃあっ!?」
「あかねさん!」
橘一尉が駆け寄ろうとするが、そこへデーモンゴートの薙ぎ払う処刑斧の暴風が割り込む。
物理と魔法、剛と柔、突進と広域制圧。
二体の階層主の連携は、一切の隙が存在しなかった。
どちらかを攻撃しようとすればもう片方が完璧に割り込み、守りに徹すれば状態異常の霧と黒炎でじわじわと削り殺される。
(強い……! 今までの敵と、次元が違いすぎる……!)
私は二本の尻尾を激しく逆立て、砂埃にまみれながら必死に【万象識別】と【地脈統御】を張り巡らせた。
どんな敵にも、必ず世界の理に基づいた『弱点』があるはずだ。
核の配置、魔素の循環経路、二体の魔力の接続点――。
「橘さん、熊倉さん! 二体の角の根元を見てください! あそこに、お互いの魔力を繋ぐ細い光の糸があります! あれを切断すれば、連携が崩れます!」
必死の私の叫び。
だが――階層主は、その知謀を見逃すほど甘くはなかった。
「サセナイワヨ……目障リナ狐ノ小娘……!」
ゾクッ……!
私の背筋に、氷水を浴びせられたような絶対的な死の予感が走った。
気がついた時には、目前の空間が鏡のように割れ、デーモンシープの歪んだ笑みが、私の鼻の先へと転移してきていた。
音も気配もなかった。空間を歪曲させた、完全な死角からの零距離奇襲。
シープの細く鋭利な黒い爪が、紫黒の呪詛の光を纏って、私の喉元めがけて振り下ろされる――!
「あかねさんッッ!!」
橘一尉の悲痛な叫び。
(テレポート――間に合わな――っ!?)
ドガァァァァァァァンッッ!!
私の目の前に割り込んだのは、熊倉二曹の巨体だった。
シールドを構える暇もなく、自らの肉体を盾にして私の前に滑り込んだ熊倉二曹の腹部を、シープの呪詛の爪が容赦なく抉り取った。
「ぐ、ぶっ……!!」
鮮血が闘技場の砂を赤く染める。熊倉二曹の巨体が、糸の切れた人形のように真後ろへと吹き飛ばされた。
「熊倉さんッ!!」
私が叫ぶ暇すら与えられず、後方から突進してきたデーモンゴートの処刑斧の柄が、橘一尉の胸元を強打した。
バキィィィンッ! とプレートキャリアが砕け散り、橘一尉が血を吐いて石柱へと叩きつけられる。
そして――。
二頭の悪魔の視線が、残された私へと注がれた。
「死ネ、霊狐ノ裔ヨ……!」
デーモンシープの巨大な螺旋角が、至近距離から私の腹部へと突き刺さった。
ドスゥゥゥッ……!
「が……っ、あ……!?」
呼吸が止まった。
サキの作ってくれた巫女服が衝撃を大幅に減衰させたが、突き抜けてきた膨大な呪詛と運動エネルギーが、私の華奢な身体を紙屑のように吹き飛ばした。
ズザザザザザッ……!
背中から冷たい石畳を何十メートルも転がり、闘技場の壁際へと激突する。
激痛。視界が赤く明滅し、呼吸をするたびに肺が引き裂かれるように熱い。
アイテムボックスからポーションを取り出そうとするが、指先がピクリとも動かない。デーモンシープの爪から注ぎ込まれた強烈な脱力呪詛が、私の霊核の魔力循環を完全に麻痺させていた。
「う……あ……橘、さん……熊倉、さん……」
霞む視界の先。
血まみれになって倒れ伏し、ピクリとも動かない熊倉二曹。
壁にもたれかかり、小銃を杖にして必死に立ち上がろうとしながら、膝をつく橘一尉。
そして、ゆっくりと、愉悦に歪んだ笑みを浮かべて私たちへと歩み寄ってくる、二体の巨大な悪魔。
黒山羊が処刑斧を天へと掲げ、紫羊が止めの一撃となる極大呪詛球を練り上げる。
万策尽きた。
HPのない世界。
この一撃が振り下ろされれば、私たちは全員、間違いなく肉片となって消滅する。
: いやだあああああああああ!!
: あかねちゃん!! 立って!!
: 自衛隊! 誰か助けてくれよ!!
: 嘘だろ……全滅するのか……!?
: 逃げて……お願いだから逃げてぇぇぇぇ!!
視界の端のモニターが、絶叫と涙のコメントで真っ白に染まっていく。
(ごめん、なさい……お父さん、お母さん……兄ちゃん……サキ……)
冷たい砂の上で、私の瞳からポロリと涙が零れ落ちた。
処刑斧が、空気を引き裂いて振り下ろされる――。
その、瞬間だった。
――”カァァァァァァァァァン……ッ!!”
澄み切った、どこまでも清廉で、厳かな鈴の音が、闘技場全体に響き渡った。
---
ピタリと、世界が静止した。
振り下ろされる途中の巨大な処刑斧。
渦を巻く紫黒の呪詛球。
舞い散る砂埃、飛び散る血飛沫、そして頭上に渦巻いていた雷雲に至るまで――。
世界の全ての物理現象、時間の流れが、まるで一枚の写真のように完全に凍結していた。
動けないはずの私の身体。
けれど、その耳元に、サラサラと絹が擦れ合うような心地よい衣擦れの音が届いた。
トン、と静かに砂を踏む足音。
闘技場の中央、静止した悪魔たちの間を抜けて、こちらへと歩み寄ってくる人影があった。
眩いばかりの、純白と黄金の後光。
そこに立っていたのは、息を呑むほど神々しく、息を呑むほど美しい、一人の女性だった。
艶やかな黒髪を古代風の結い上げにし、白と朱の豪奢な神衣を纏っている。
その瞳は慈愛に満ちた黄金色。
そして何より――その背後には、天を覆い尽くすように、白銀の光を放つ”九本の巨大な神尾”が、優雅に揺らめいていた。
「……きゅう……び……?」
私の唇から、掠れた声が零れ出た。
女性は静かに私の前で膝をついた。
その優美な顔立ちに、母のような、暖かく切ない微笑みが浮かぶ。
伸ばされた細く白い指先が、私の血に汚れた頬を優しく撫でた。
触れられた瞬間、全身を苛んでいた激痛と呪詛が、春の陽だまりに溶ける雪のようにすうっと消え去っていく。
『よくぞここまで辿り着きましたね、我が愛しき同胞、我が小さき後継者よ。』
頭の中に直接響いてきた、鈴の音のように澄み渡る神聖な声。
『私の名は、”宇迦之御霊神”。……人びとは私を、稲荷の大神、あるいは九尾の仙狐と呼びます。』
「ウカノ……ミタマ……? 神様……?」
『ええ。世界が再び大いなる魔素の理へと立ち返り、星の霊脈が目覚めた時……私の霊核の欠片を受け継ぎ、この地で最初に目覚めたのが、貴女――あかね、貴女なのです。』
女神様は、慈しむように私の頭の上の二つの狐耳に触れた。
その手のひらから、温かな、果てしない神気が私の霊核へと注ぎ込まれていく。
「神様……助けて……橘さんが、熊倉さんが……」
私が泣きじゃくりながら縋り付くと、宇迦之御霊神は静かに首を横に振った。
『大いなる理の定めにより、神仏たる私が直接この試練の魔獣を滅ぼすことは許されていません。このダンジョンは、ヒトが自らの足で歩み、未知を切り拓くための試練の揺籃なのだから。』
女神様は立ち上がり、静かに天を仰いだ。
『けれど……我が愛しき後継者が、理不尽なる悪意の前に散るのを、ただ見過ごす母はいません。……直接倒すことはできずとも、貴女たちに『悪しきを払う力』を授けることなら許されています。』
宇迦之御霊神が、そっと右手を天へと掲げた。
その掌から、目も眩むような黄金の神光が溢れ出る。
光の粒子が収束し、そこへ具現化したのは――三段の輪に吊るされた幾つもの黄金の鈴、そして五色の絹の垂れ幕が美しく揺れる、一振りの神聖なる祭具だった。
『これを受け取りなさい。我が神気より分かちし秘宝――【破邪の神楽鈴】です。』
フワリと浮遊した神楽鈴が、私の両の手の中へと優しく収まった。
触れた瞬間、私の魂の奥底で、眠っていた霊狐の血が歓喜の産声を上げた。
【万象識別】!
『名称』:神宝・破邪の神楽鈴(三種神宝の眷属具)
『品質』:神話級(固有神宝)
『効果』:
・【破邪の神鈴】:鈴を鳴らすことで、あらゆる邪悪・呪詛・状態異常・無敵結界を強制解除・霧散させる。
・【神気共鳴】:使用者の全妖術の消費MPをゼロにし、威力を十倍に増幅する。
・【豊穣の息吹】:鈴音の届く範囲の味方全員の傷と状態異常を完全全快させ、全ステータスを極大上昇(覚醒バフ)させる。
「これ……は……」
私の手が震える。
そして、宇迦之御霊神はゆっくりと振り返り、静止した時間の中で血を流して倒れている橘一尉と熊倉二曹へと視線を向けた。
その黄金の瞳に、厳かな神威が宿る。
『そして……命を賭して我が子を守り抜いた、勇敢なる武人たちよ。……貴方たちにも、大いなる星の恩寵を与えましょう。これまでの過酷なる戦い、仲間を思う自己犠牲の魂……その器は、すでにヒトの限界を越えています。』
宇迦之御霊神が両手を広げ、二人の身体へ向けて神光を放った。
『今こそ目覚めなさい。肉体の限界を解き放ち、霊性を帯びし新しき種族へ――”種族進化の時”です!』
カァァァァァァァァァッッ!!!!
静止した時間の中で、橘一尉と熊倉二曹の身体が、目も眩むような極大の光の繭に包まれた。
熊倉二曹の傷口が瞬時に塞がり、その鋼のような肉体がさらに一回り大きく、重厚に膨張していく。
皮膚の表面に、大地の守護を象徴する金剛石のような微細な鉱石の結晶が幾何学模様となって浮かび上がり、その背後には雄大な大山のごとき霊気の巨人が顕現した。
『【熊倉剛の種族進化を確認】』
『新種族:【金剛の巨神】』
『獲得特性:【不壊金剛体】【大地同化】【絶対防御障壁】』
そして、橘一尉の身体からも、蒼穹を切り裂くような鋭利な疾風の光条が噴き上がった。
折れていた骨と筋肉が完璧に再生し、その切れ長の瞳が青銀色の神眼へと覚醒する。
両の手のひら、そして足元に、風の魔素を光速で加速させる天翔ける翼のごとき紋様が刻まれた。
『【橘玲香の種族進化を確認】』
『新種族:【風天の戦巫女】』
『獲得特性:【疾風神速】【魔弾神化】【天眼の先読み】』
『……さあ、目覚めなさい、我が愛しき者たちよ。』
宇迦之御霊神の姿が、光の粒子となって徐々に透き通っていく。
女神様は最後に、私へ向けて優しく微笑み、ウインクしてみせた。
『あかね。貴女の選んだ仲間たちと共に、新しき世界の扉を開くのです。……母は、いつも見守っていますよ。』
――シャラァァァァァァン……。
神楽鈴の余韻とともに、女神様の姿が完全に光の中へ溶け去った。
そして――。
ドクンッ!!
止まっていた時間が、爆発的な轟音と共に一気に動き出した!
---
「死ネェェェッ!!」
デーモンゴートの巨大な処刑斧が、私の頭上へと猛烈な速度で振り下ろされる!
だが――。
ドッガァァァァァァァァァァンッッッ!!!!
闘技場全体を揺るがす、凄まじい激突音。
処刑斧を受け止めたのは、私の身体ではなかった。
「……あ? てめえの斧、ずいぶんと軽くなったじゃねえかよ、ヤギ野郎。」
砂煙の向こう。
仁王立ちしていたのは、全身から黄金と白銀の金剛気を立ち昇らせた、熊倉二曹だった。
タワーシールドすら構えていない。
熊倉二曹は、あの数トンの質量を誇る処刑斧の刃を――”ただの左手の平一本で、片手で受け止めていた”のだ!
「ナッ……バカ……ナ……ッ!?」
デーモンゴートの紅い瞳が、信じられないものを見るように見開かれる。
斧をいくら押し込もうとしても、熊倉二曹の足元の大地が同化し、ミリ単位たりとも動かない!
「オラァッ!!」
熊倉二曹の右手のシールドバッシュが、至近距離からゴートの胴体へ炸裂した。
ドォォォォンッ! と、巨大な衝撃波とともに体長六メートルの黒山羊が真後ろへ吹き飛ばされ、石柱を三本へし折って瓦礫の山へと埋もれた。
「……身体が、軽い。魔力の流れが、完全に視えます。」
風のざわめきと共に、私の隣に音もなく着地したのは、橘一尉だった。
その姿からは、青白い神速の疾風がオーラとなって立ち上っている。
小銃を構えるその眼差しは、未来の射線を完全に予見しているかのように澄み切っていた。
「橘さん……! 熊倉さん……!」
「あかねさん、お待たせしました。」
橘一尉が柔らかく微笑み、私に手を差し伸べて引き起こしてくれた。
「貴女が繋いでくれた命です。……われわれも、新しい力に目覚めました。」
「がはは! なんだか知らねえが、力がみなぎって仕方ねえぜ!」
熊倉二曹が豪快に拳を打ち鳴らす。
瓦礫を跳ね除けて立ち上がったデーモンゴート、そして狂乱の形相で紫黒の呪詛球を膨張させるデーモンシープが、信じられない事態に絶叫した。
「キサマら……タダノ人間ノハズガ……ソノ神気ハ何ダァァァッ!!」
「許サナイ……全テ灰ニシテヤルワァッ!!」
闘技場を埋め尽くす、黒炎と呪詛の超極大複合魔術の嵐!
だが、私の両の手には、あの神宝があった。
私は背筋を伸ばし、白無垢の巫女装束を翻して、天へと向けて高く神楽鈴を掲げた。
二本の黄金の尻尾が優雅に扇のように広がる。
「悪しきを祓い、穢れを清めよ――」
手首を優雅に返し、神楽鈴を打ち鳴らす。
”――チリィィィィン……シャラシャラシャラァァァァンッッ!!”
澄み切った、至高の神気の調べが闘技場いっぱいに響き渡った。
その瞬間、鈴から放たれた目も眩むような白銀と黄金の波動が、円形闘技場全体を津波のように呑み込んだ!
ジュワァァァァァァァッッ!!
「ギ……ギャアアアアアッッ!?」
「ワタシノ……ワタシノ魔術ガ……消エテイク……!?」
二体の悪魔が悲鳴を上げた。
彼らが放った黒炎も、紫黒の呪詛霧も、身体を覆っていた絶対無敵の魔力障壁も、鈴の音に触れた瞬間、朝露が陽光に照らされるように跡形もなく消滅したのだ!
悪しき力を全て解呪され、無防備な肉体を晒す二体の階層主。
さらに、神楽鈴の豊穣の光が橘一尉と熊倉二曹を包み込み、二人のステータスが限界を突破して跳ね上がった。
「今です、二人ともッ!!」
私の号令が響く!
「【大地粉砕撃】ッッ!!」
熊倉二曹が大地を踏み抜いた。
闘技場の地面から巨大な金剛石の棘が間欠泉のように突き上がり、デーモンゴートの巨体を空高く打ち上げる!
「逃がしません――【神速魔弾・千華連射】ッッ!!」
橘一尉の身体が風となって宙を駆けた。
光速のステップで空中に跳躍した橘一尉の小銃から放たれたのは、青白い光の軌跡を描く無数の魔導神弾!
タタタタタタタタタンッッ!!
打ち上げられたデーモンゴート、そして空中にいたデーモンシープの急所へ、数百発の神弾が寸分の狂いもなく同時に突き刺さる!
「グギャアアアアッッ!!」
装甲を砕かれ、悲鳴を上げて二頭が闘技場の中央へと叩き落とされた。
角の根元の魔力連結糸は完全に断ち切られ、もはや連携の欠片もない。
そして――。
トドメを刺すべく、私が前へ進み出た。
神楽鈴を左手に握り、右の手のひらを二頭の悪魔めがけて突き出す。
宇迦之御霊神から授かった無尽蔵の神気と、二尾の霊核が完全にシンクロする。
「天に座す神気よ、我が鈴音に応えよ――妖術・極光神嵐――【水華白光波】ッッ!!!!」
カァァァァァァァァァッッ!!!!
私の掌から放たれたのは、水流などという生易しいものではなかった。
水と光と神気が完全に融合した、目も眩むような超極大の純白の極光レーザー!
ドババババババババアンッッッ!!!!
極光の奔流が、もがき苦しむデーモンゴートとデーモンシープの巨体を真正面から飲み込んだ。
二頭の悪魔の全身が光の奔流の中で白熱化し、その魔素コアが同時に、完全に粉々に砕け散る!
「「ゴ……オオオオオオオオオオオォォォォォォンッッッ……!!」」
最後の断末魔が響き渡り、二体の階層主の身体が、息を呑むほど膨大な光の粒子となって爆散した。
---
光の嵐が収まり、静寂が闘技場に戻ってきた。
頭上の紫紺の雷雲が晴れ渡り、古代のコロッセオに、美しいエメラルドグリーンの光が木漏れ日のように降り注ぐ。
『――第十層真性階層主【デーモンゴート&デーモンシープ】の討伐を完全確認』
『霧島第一ダンジョン・第十層の踏破を認定します』
『笹貫あかねのレベルが【15】に上昇しました』
『橘玲香のレベルが【15】に上昇しました』
『熊倉剛のレベルが【15】に上昇しました』
頭の中に響くファンファーレ。
倒れていた格子扉が音を立てて消滅し、闘技場の中央に、第十一層へと続く巨大な白亜の凱旋門が現れた。
「……勝っ……た……?」
熊倉二曹が自らの光り輝く分厚い掌を見つめ、呆然と呟いた。
橘一尉も小銃を下ろし、深く息を吐き出して、信じられないといった面持ちで微笑んだ。
「ええ……勝ちました。われわれは、生き残ったのです。」
: うわあああああああああああああ!!!!
: 勝ったあああああああああああああ!!!!
: 鳥肌が止まらない!! 涙出てきた!!
: 二人も進化した!? なんだあの超パワー!?
: 神楽鈴の音色、綺麗すぎて画面越しに浄化されたわ……
: 第10層クリアおめでとううううううううう!!
ドローンカメラの向こう、何千万、何億人もの視聴者が歓喜の涙と拍手でコメント欄を埋め尽くしていた。
私は神楽鈴をそっと胸元に抱きしめ、天を仰いだ。
(神様……ありがとうございました……!)
心の中で深く感謝を捧げると、鈴がチリンと優しく鳴り、私の魂を温かく撫でてくれた。
消滅した二頭のボスの足元。
そこには、神話級の討伐報酬として、眩い白金の宝箱と、山のような超希少素材が転がり落ちていた。
『深淵魔卿の角』『幻夢魔妃の神毛皮』、そして深紅に輝く『階層主の極大核晶』。
「よし……素材、回収しましょう!」
私が駆け寄り、笑顔でそのドロップ品に手を伸ばした――。
”まさに、その瞬間だった。”
”――ウォォォォォォォォォォン……ッ!!”
大気を切り裂くような、重厚にして冷徹な電子音のような共鳴音が、闘技場だけでなく、霧島ダンジョン全体、いや――”全世界の空間そのものを揺るがして鳴り響いた”。
「なっ……何だ!?」
熊倉二曹が身構える。
橘一尉が即座に空を見上げた。
視界の端の配信画面が、突然砂嵐のノイズに覆われ、全言語共通の巨大なシステムウィンドウが、空中に強制投影された。
それは、地球上の全人類、全探索者の頭の中へ、同時に直接響き渡る【世界変革の号砲】だった。
『――世界通告』
『条件合致:いずれかの特級迷宮における【第十層階層主】の初討伐を確認』
『これにより、地球領域におけるダンジョンシステムは【第1フェーズ:揺籃期】を終了します』
厳かな無機質な声が、鼓膜を震わせる。
『――【第2フェーズ:共生と試練の時代】へ移行します』
『全ダンジョン統制プロトコル【ダンジョンカーニバル】を実装』
「だ、ダンジョン……カーニバル……!?」
私が息を呑むと、アナウンスは容赦なく次の宣告を告げた。
『本プロトコルの実装に伴い、世界各地のダンジョンにおいて、不定期に【領域変異事象】が突発開催されます』
『各事象において提示される防衛条件を達成できなかった場合、該当ダンジョンおよび周辺領域のモンスター分布に不可逆的な狂乱(高難易度化・低層氾濫)が発生します』
『――警告。最初の事象を検知』
『発生地点:【日本国・美濃ダンジョン】』
『事象開始まで:【72時間00分00秒】』
『防衛目標:第5層安全エリアへの侵攻阻止、および変異核の破壊』
『カウントダウンを開始します――』
空中に浮かび上がった、真紅の巨大なデジタルタイマー。
『71:59:59』……『71:59:58』……。
「美濃ダンジョンに……スタンピード事象……!?」
橘一尉の顔色がサッと青ざめた。
「美濃は……一般の探索者たちが、ようやく第5層に到達したばかりの場所です! あんな場所に高難易度のモンスターが氾濫したら……!」
「72時間……あと三日しかねえぞ!」
熊倉二曹が拳を握りしめる。
静まり返る古代のコロッセオ。
第十層を制覇した歓喜の瞬間は、一瞬にして世界を巻き込む巨大な防衛戦へのカウントダウンへと塗り替えられた。
だが――私の手の中には、宇迦之御霊神から授かった『破邪の神楽鈴』があった。
隣には、種族進化を果たし、神の力を得た無敵の仲間たちがいる。
私は二本の黄金の尻尾を力強く掲げ、美濃の空を思い浮かべながら、真っ直ぐに前を見据えた。
「帰りましょう、橘さん、熊倉さん! 72時間後……私たちは、美濃ダンジョンへ駆けつけます!」
新時代の幕開けを告げる鐘の音。
世界を揺るがす大試練に向けて、私たちの本当の戦いが、いま幕を開けようとしていた。




