第30話:潮風の約束と、渚の開拓令
日曜日の朝、鹿児島市内の空は薄雲の合間から柔らかな春の光が差し込んでいた。
昨日、霧島第一ダンジョンの第八層――水没珊瑚礁の深海で巨大アンコウを討伐した疲労は、兄・晃が調合してくれた『特級疲労回復ポーション』と、ぐっすり眠った十時間の睡眠によって綺麗さっぱり消え去っていた。
朝食を終えた私は、昨夜のうちに自衛隊の橘一尉と内閣府の担当官へ連絡を取り、正式に「サンプルの個人持ち出し・提供許可証」を発行してもらっていた。
普段であれば、ダンジョンの深層から持ち帰った素材はすべて防衛省と研究機関の厳重な管理下に置かれる。だが、今回の第八層の浅瀬で獲れた貝や魚は、毒性ゼロかつ一般水産資源としての価値検証という名目で、特例的に私個人の裁量での持ち出しが認められたのだ。
「あかね、忘れ物はないか? 保冷バッグの魔力循環は?」
玄関先で、晃がエプロン姿のまま念押ししてくる。
「うん、バッチリ! サキが作ってくれた保冷バッグ、アイテムボックスから出した後も二時間は氷点下をキープできるから大丈夫。」
「よし。……あかね、あのハマグリ、一個だけうちの出汁取り用に残しておいてくれたのは英断だったぞ。今朝の味噌汁、旨味成分が暴走して父さんが泣いてたからな。」
「あはは、お父さん泣かせちゃダメでしょ。行ってきます!」
私はブレザーの制服ではなく、動きやすいパーカーとジーンズに身を包み、二本の尻尾をすっきりと束ねてキャップの中に耳を隠すようにして家を出た。
目指すは、昨日相談を持ちかけてくれたクラスメイト――浜崎さんの自宅だ。
事前に通話アプリで連絡を取ると、「えっ、本当に来てくれるの……!?」と震える声で錦江湾沿いにある実家の加工場兼自宅の住所を教えてくれたのだった。
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鹿児島市街から少し南へ下った、海沿いの小さな港町。
潮の香りと、干物の香ばしい匂いが漂う通りを進むと、古びたトタン屋根の加工場が見えてきた。『浜崎水産』とペンキで書かれた看板の下で、浜崎さんが落ち着かない様子で立っていた。
「浜崎さん!」
「あ、あかねさん……! わざわざ家まで来てもらってごめんね……!」
駆け寄った私に、浜崎さんは恐縮したようにペこりと頭を下げた。
その瞳の下には、ここ数日の心労を物語るように薄い隈ができている。
「ううん、全然! お父さん、いらっしゃる?」
「うん……奥の作業場で、網の繕いをしてるんだけど……。」
浜崎さんに案内されて作業場へ入ると、潮風に焼けた浅黒い肌の、がっしりとした体躯の男性が、無言で網の破れ目を針で縫い合わせていた。
壁には大漁旗が掲げられているが、作業台の上には買い手のつかない近海魚の出荷伝票が積まれているのが見えた。
「お父さん、学校のお友達の……笹貫さんが来てくれたよ。」
浜崎さんの声に、男性――お父さんが顔を上げた。
眉間に深い皺を刻んだ、絵に描いたような頑固そうな海の男。だが、私の顔を見るなり、その目が大きく見開かれた。
「……笹貫……? まさか、あのテレビや配信に出てる……霧島ダンジョンの……?」
「はじめまして、浜崎さんのお父さん。あかねです。」
私がキャップを脱ぎ、ふわりと二本の黄金の尻尾を揺らして一礼すると、お父さんは持っていた網をポロリと落とした。
「本物の……進化者の……お嬢ちゃんが、一体うちのような寂れた加工場に何の用だ……? 娘が何か失礼なことでも言ったのか……?」
「違うよ、お父さん! 私が無理なお願いをしちゃって……!」
慌てる浜崎さんを制し、私は肩から下げていた特製の保冷バッグを作業台の上にドンと置いた。
「浜崎さんから、お話を聞きました。美濃ダンジョンの魚に押されて、地元の漁師さんたちが苦しんでいるって。」
私の言葉に、お父さんは苦々しく顔を歪め、視線を落とした。
「……ああ、その通りだ。情けねえ話だがな、美濃のサーモンだか川魚だかが市場に並び始めてから、うちの獲る天然の鯛もブリも、二束三文でしか買い取ってもらえねえ。味も栄養もダンジョン産の方が上だって言われりゃあ、俺たち昔ながらの漁師は手も足も出ねえよ……。船を畳んで、廃業するしかねえと思ってたところだ。」
絞り出すような、悔しさに満ちた呟き。
私は黙って、保冷バッグのファスナーに手をかけた。
「お父さん。昨日、私たちが潜った霧島ダンジョンの第八層……そこにあったのは、見渡す限りの広大な海でした。」
「……ダンジョンの中に、海……?」
「はい。そして、これを見てください。」
ジッパーを開け、私がアイテムボックスから移し替えておいた『戦利品』を作業台のステンレス板の上へと取り出した。
ゴトッ! ゴトトッ!!
重厚な音を立てて転がり出たのは、大人の両手から溢れんばかりの、黒褐色と黄金の美しい縞模様を纏った超特大の『潮騒の真ハマグリ』。
そして、保冷氷の中から現れたのは、水揚げされたばかりのように桜色の鱗を鮮やかに輝かせ、エラを微かに動かしている、丸々と肥えた極上の『天然真鯛』だった。
「……なっ!?」
お父さんの息が止まった。
その目は、まるで信じられない怪異を見るかのように、台の上の魚介類へと釘付けになった。
「こ、これは……ハマグリ……!? 馬鹿な、こんなデカいハマグリがあるか! 掌二つ分はあるぞ!? それにこの鯛……なんだこの肥え方は! 錦江湾の主でもここまでの魚体は見たことがねえ……! 鱗の艶、身の張り……おい、まさかこれ、生きてるのか!?」
「はい! 昨日の探索で獲れたばかりの、第八層の海の幸です。」
私はニッコリと笑った。
「モンスターじゃないんです。毒も一切ありません。そして……一番大事なのは、この魚や貝が獲れた場所です。」
私は身を乗り出し、真剣な眼差しでお父さんを見つめた。
「霧島ダンジョンはDランク以上の制限がかかっている危険な場所です。でも……このハマグリや鯛が群生している第八層の砂浜と浅瀬には、”危険なモンスターが一切いませんでした”。見渡す限りの白い砂浜を掘れば、この巨大なハマグリが無限に採れて、膝までの浅瀬に、この立派な鯛やヒラメが群れをなして泳いでいるんです。」
「……な……んだと……?」
お父さんの声が震えた。
「美濃の魚は淡水魚や養殖サーモンに近いものが中心です。でも、霧島の第八層にあるのは、本物の『豊かな海』そのものです。……お父さんたち、海のプロが網を持ってあの浅瀬に入れば、どれほどの価値を生み出せるか……私なんかより、お父さんの方がずっとよく分かるはずです。」
お父さんは震える手で、巨大なハマグリをひとつ持ち上げた。
ずっしりとした重み。殻の隙間から、濃厚な潮の香りがフワリと立ち上る。
そして、傍らにあった出刃包丁を手に取ると、手慣れた鮮やかな手つきで真鯛のエラ蓋を外し、腹を裂いた。
刃を入れた瞬間、身の隙間から溢れ出たのは、純白の極上な脂だった。
指先でその脂をすくい、ペロリと舐めたお父さんの全身が、雷に打たれたようにビクンと硬直した。
「……嘘だろ……」
お父さんの目から、ツツ……と一筋の涙が零れ落ちた。
「脂が……甘ぇ。臭みが爪の先ほどもねえ……。身の繊維一本一本に、極上の旨味が詰まってやがる……。こんな魚、築地の最高級料亭だって一生お目にかかれねえぞ……!」
お父さんは包丁を置き、顔を両手で覆ってその場に崩れ落ちるように膝をついた。
「俺たちの海は……まだ、終わってなかったのか……。こんな凄い魚が、鹿児島の足元に眠ってたのか……!」
「お父さん……!」
浜崎さんが駆け寄り、お父さんの肩に抱きついて泣き声を上げた。
二人の姿を見つめながら、私の胸の奥に、温かい誇らしさが満ちていく。
危険な深海でアンコウと命懸けで戦ったことも、大峡谷で必死に水泡草を掘り起こしたことも、すべてはこの瞬間のためにあったのだと思えた。
「お父さん、浜崎さん。この魚とハマグリ、全部置いていきます。ご家族で食べてみてください。」
私は二人に優しく微笑みかけた。
「そして……信じて待っていてください。政府も自衛隊も、この第八層の恵みを地元の皆さんに届けるために、今、全力で動いてくれていますから!」
お父さんは涙で濡れた顔を上げ、何度も、何度も、私に向かって深く頭を下げ続けたのだった。
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そして――事態の進展は、私の想像を遥かに超える猛烈なスピードで動き出していた。
翌週の火曜日。
首相官邸および日本探索者協会(JDA)、農林水産省、防衛省の四者合同による”緊急共同記者発表”が、全国に向けて電撃的に放送された。
テレビ画面に映し出されたのは、真剣な面持ちの内閣総理大臣と、JDA会長、そして霧島前線本部の赤城燈主任の姿だった。
『――霧島第一ダンジョン第八層における、限定的立ち入りおよび漁業資源採取の解禁について』
発表された内容は、全国の漁業関係者、そしてネット社会に巨大な衝撃波をもたらした。
1. 解禁日時:4月15日(水)より
2. 対象区域:霧島第一ダンジョン第八層・転移ポータル広場および、接続する砂浜海岸線から”半径1キロメートル以内の浅瀬水域”。
3. 入場資格の特例緩和:
霧島ダンジョン本来の「Dランク以上」の入場制限を、当該区域に限り特例免除。
”「一般探索者カード(Fランク以上)」を所持し、かつ「漁業協同組合員」または「水産事業従事者」の公的証明書を事前申請した者”に限り、専用の『特務漁業ライセンス』を発行。
4. 安全管理体制:
・自衛隊工兵部隊により、第八層ポータルから砂浜に至る防護フェンスおよび生簀プラント、冷温急速冷凍コンテナ施設を4月14日までに完全設営。
・沖合深海部(モンスター危険水域)との境界線に、大型防護ネットおよび自衛隊哨戒ボートを常時配備。
5. 目的:美濃ダンジョン開放に伴う水産市場の価格変動に対する緊急是正措置、および伝統的沿岸漁業者への新たな活動領域の提供。
会見の最後、赤城主任がカメラに向かって誇らしげに胸を張って言い放った。
「この特例解禁は、先日の先行調査において笹貫あかね特務探索員が持ち帰った詳細な生体データ、および水質サンプルの完全な安全性が証明されたことによるものです。……ダンジョンは、既存の産業を破壊する悪魔の穴ではありません。手を取り合い、共に生きるための新しい大地なのです!」
この発表の瞬間、国内のネット掲示板、SNSは過去最大級の狂乱状態へと突入した。
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【特報】霧島第8層、4/15より漁業関係者へ限定開放決定! Part.1【ハマグリ&真鯛】
1 :名無しさん@海鮮好き:203X/03/31(火) 14:30:22.45 ID:SakanaNet01
内閣府・JDA・農水省より公式発表!
霧島ダンジョン第八層(地下海岸エリア)の砂浜および浅瀬が、”4月15日より漁業関係者限定で開放”されます!
■発表の要点
・Dランク制限を特例解除! Fランクでも漁業従事者なら申請で立ち入り可能!
・ポータルから1km以内の砂浜・浅瀬限定(自衛隊が防護ネットと冷凍施設を突貫工事で設営)。
・モンスター出現ゼロの奇跡の海。
・拳二つ分の特大ハマグリ、極上真鯛、天然ヒラメが無尽蔵に採取可能。
・先週のあかねちゃんの海中配信とサンプル提出が決定打に。
前スレ:なし(本スレです)
15 :名無しさん@海鮮好き:203X/03/31(火) 14:32:45.12 ID:FisherMan99
うおおおおおおおおおおおおおおっっっ!!!!
神対応キタアアアアアアアアアアアア!!
28 :名無しさん@海鮮好き:203X/03/31(火) 14:34:10.89 ID:KagoshimaHama
鹿児島で巻き網漁やってる者だが、事務所で親父と親方連中が発表見て全員で抱き合って号泣したわ。
美濃のサーモンショックでガチで首括るか船売るか追い詰められてたんだよ。
政府の対応が異例の超スピードすぎて信じられん。
42 :名無しさん@海鮮好き:203X/03/31(火) 14:36:33.45 ID:GachiGourmet
> > 28
> > マジでよかったな……!
> > てか先週のあかねちゃんの配信見たけど、あの浅瀬の魚影の濃さ異常だったぞ。
> > 網を一回引くだけで、料亭で一匹数万円するレベルの丸々と太った真鯛が何十匹も獲れるんだから、文字通りの『宝の海』だ。
>
>
55 :名無しさん@海鮮好き:203X/03/31(火) 14:38:50.01 ID:HamaguriLover
あのハマグリよ!!
あかねちゃんが砂浜をスコップでホイホイ掘り出してたあの特大ハマグリ!!
あれが4月半ばから市場に並ぶのか!?
酒蒸し! 網焼き! 醤油垂らしてジュウジュウ焼いて食いてええええええ!!
68 :名無しさん@海鮮好き:203X/03/31(火) 14:41:15.67 ID:PolicyNerd
この政策、政治的にも経済的にもパーフェクトすぎる。
・美濃ダンジョン:内陸部(岐阜)発の淡水魚・サーモン・農産物で内陸経済を潤す。
・霧島ダンジョン:沿岸部(鹿児島)発の超高級海水魚・貝類で沿岸漁業を完全救済。
既存の漁師たちをダンジョン排除するんじゃなくて、「本職のプロの技術」をそのままダンジョンに移植させる仕組み。
政府の有能さと自衛隊の設営スピードが光りすぎてる。
82 :名無しさん@海鮮好き:203X/03/31(火) 14:43:40.23 ID:AkaneShinja
そしてその全ての起点があかねちゃんという事実。
先週の配信で、
「地元の漁師の皆さん! 見てください! 霧島第八層の砂浜には危険なモンスターはいません! 錦江湾の潮風と同じ、素晴らしい海の恵みがあります!」
ってカメラに向かって必死に呼びかけてたの、マジで伏線だったんだな……。
96 :名無しさん@海鮮好き:203X/03/31(火) 14:46:05.78 ID:LocalTsuuhou
地元ローカルニュースでやってたけど、
あかねちゃん、日曜日にお忍びで市内の困窮してた漁師さんの加工場にサンプル届けてたらしいぞ。
その漁師さん、あかねちゃんから受け取った鯛を捌いて一口食った瞬間、泣き崩れたってインタビューで語ってた。
聖女……! 現代のリアル豊受大神かよ……!
110 :名無しさん@海鮮好き:203X/03/31(火) 14:48:30.12 ID:MofuMofuLove
耳と尻尾が生えた女子高生が、日本の食卓と一次産業を救っていく物語。
熱すぎて涙出てくるわ。
美濃の時もそうだったけど、あかねちゃんが潜る場所、必ず誰かの救いと希望が生まれるの本当に凄い。
125 :名無しさん@海鮮好き:203X/03/31(火) 14:51:00.45 ID:JieitaiFan
自衛隊の設営部隊も今頃総出で第八層に資材運び込んでるんだろうなw
ポータル直結の冷凍倉庫とか、防護フェンスの突貫工事。
「漁師の親父たちのために最高の職場を作ってやるぜ!」って張り切ってる熊倉二曹の顔が目に浮かぶわ。
140 :名無しさん@海鮮好き:203X/03/31(火) 14:53:25.89 ID:FoodPornNext
4月15日の解禁日、全国のスーパーとデパ地下で「霧島第八層・神籬ハマグリ特売フェア」が開催される未来が見えた。
美濃の野菜と米、霧島の鯛とハマグリ。
日本の食のレベルが人類史上最高地点に到達しようとしている……!
158 :名無しさん@海鮮好き:203X/03/31(火) 14:56:00.00 ID:SakanaNet01
ダンジョンと人類の共生、ここに極まれりだな!
4月15日を楽しみに待とう!
そしてあかねちゃん、いつも希望を届けてくれて本当にありがとう!!
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火曜日の放課後。
美術準備室の作業台でスマートフォンを見ていたサキが、「あかね、ニュース見たわよ!」と満面の笑みで抱きついてきた。
「やったわね、あかね! 4月15日解禁! 浜崎さんのお父さんたち、本当に救われたじゃない!」
「うん……! さっき浜崎さんからもメールが来てね、『お父さんが泣きながら船の整備を始めたよ』って……!」
私の二本の黄金の尻尾が、嬉しさのあまりパタパタとサキの背中を叩いた。
頭の上の狐耳が、窓から吹き込んでくる春の温かい風を心地よさそうに受け止める。
机の上には、兄の晃が昨夜あのハマグリの出汁と美濃の純白砂糖を使って試作してくれた、特製の『潮騒の貝出汁ジュレ』が小瓶に入って並んでいた。
一口舐めるだけで、口内いっぱいに爆発的な旨味が広がり、体内の魔素がじんわりと温まる奇跡の調味料だ。
「新しい食の文化が、ここから始まるのね。」
サキがジュレの小瓶を光にかざし、目を細めた。
「ええ。あかねさんのあの日の言葉が、国の重い腰をこれ以上ない速度で動かしたのですよ。」
静かにドアを開けて入ってきたのは、私服姿の橘一尉だった。
手には、第八層の施設設営に関する進捗状況が記された書類。
「自衛隊の工兵部隊はすでに第八層へのプレハブ冷凍プラントの搬入を開始しました。熊倉二曹も『親父たちのために頑丈なフェンスを張ってやる』と、現地で現場監督として泥だらけになって汗を流していますよ。」
「橘さん! ありがとうございます……! 自衛隊の皆さんにも、ご負担をかけちゃって……。」
私が頭を下げると、橘一尉は優しく首を横に振った。
その表情には、自衛官としての深い誇りと、温かい慈しみが満ちていた。
「いいえ。われわれ自衛隊の本来の任務は、国民の生命と財産、そして平和な暮らしを守ることです。……あかねさんが繋いでくれたこの希望を形にすることこそ、われわれの最大の誇りですよ。」
橘一尉は作業台の端に腰掛け、真剣な眼差しで私を見つめた。
「さて、あかねさん。第八層の浅瀬が人々の生活を支える拠点となる一方……われわれ特務小隊の視線は、さらにその奥へ向けられねばなりません。」
橘一尉が広げたのは、第八層の海底最深部――あの巨大アンコウを倒したすり鉢の先、”第九層へと続く海底神殿の大階段”の図面だった。
「第九層を越えれば……いよいよ、霧島ダンジョンの最初の節目である『第十層』。そこには、これまでの階層の中ボスとは次元の異なる、迷宮の真の守護者――『階層主』が待ち受けています。」
第十層。
その言葉を聞いた瞬間、私の背筋にツンと心地よい緊張感が走った。
レベル10で二尾へと進化し、テレポートを覚え、数々の新素材を手に入れてきた私たち。
けれど、第十層の先に待っているのは、ただのボスの討伐だけではないような――世界そのものが、次のステージへと大きく動くような、不思議な予感が胸の奥で静かに脈打っていた。
「準備を怠らずに進めましょう。サキさん、深海での活動限界をさらに引き上げる装備の改良をお願いできますか?」
「任せてください、橘一尉! 第八層で採れた深海甲殻と魔光宝珠を使って、あかねの巫女服をさらに強化して見せます!」
サキが力強く胸を張る。
窓の外を見上げれば、夕暮れの空の向こうに、雄大にそびえる霧島連山のシルエット。
その地下深くで、いま無数の大人たちが、人々の未来のために冷たい汗を流して道を作っている。
そして、その先にある未踏の深淵が、私たちを静かに待っている。
「行きましょう、橘さん、サキ!」
私は二本の尻尾を誇らしげに掲げ、満面の笑顔で頷いた。
誰かの暮らしを守り、未知の扉を開き続けるために。
私たちの冒険は、いよいよ霧島ダンジョン最大の山場――第九層、そして運命の第十層へと向かって、力強く歩みを進めていた。




