第29話:潮騒の贈り物と、深海の幻灯
週が明けた月曜日の朝。
鹿児島市内の県立高校は、春めいた柔らかな陽光に包まれていた。
私の腰の後ろで左右に揺れる二本の黄金の尻尾も、すっかり見慣れたものとして受け止められ、登校風景には穏やかな日常が戻っていた。
昇降口で靴を履き替え、教室へ向かおうとした時のことだ。
「あ、あの……笹貫さん!」
控えめだが、どこか切羽詰まった声が背後からかかった。
振り返ると、そこに立っていたのは同じのクラスにいる女子生徒だった。確か名前は浜崎さん。普段は大人しく、図書委員を務めていたはずだ。
「浜崎さん? どうしたの?」
「その……あかねさんに、どうしても相談したいことがあって。迷惑じゃなかったら、放課後に少しだけお話しできないかな……?」
不安そうに眉を寄せる彼女の指先は、ブレザーの裾をぎゅっと握りしめていた。
クラスメイトとしての普通の頼み事ではない。何か、深刻な事情があるのだとすぐに察せられた。
「うん、もちろん! 放課後、美術準備室でいいかな? サキも一緒だけど、誰にも邪魔されないから。」
「ありがとう……! 待ってるね。」
浜崎さんはホッとしたように小さく頭を下げ、教室へと駆けていった。
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放課後。夕暮れの光が差し込む旧校舎の美術準備室。
サキが淹れてくれた温かい緑茶の湯気が立ち上る中、浜崎さんはぽつりぽつりと家庭の事情を打ち明けてくれた。
「私の実家……錦江湾で代々漁師をやってるの。お父さんは毎朝早くから船を出して、鯛やキビナゴを獲ってきてくれるんだけど……」
浜崎さんは膝の上で拳をぎゅっと握りしめた。
「美濃ダンジョンが開放されてから、スーパーや市場の空気が一気に変わっちゃって。美濃の第4層で獲れる『ジャイアントサーモン』とか、美濃大河の川魚が、信じられない安値と規格外の美味しさで大量に流通し始めたの。そのせいで、地元の天然魚の卸値が暴落して……お父さんの船、このままだと燃料代すら出なくなっちゃうかもしれないんだ。」
「……ダンジョン水産物の影響。」
作業台でミスリルの細工をしていたサキの手が、ピタリと止まった。
現代社会へのダンジョンの恩恵は計り知れない。だがその急激すぎる変革は、既存の第一次産業に強烈な歪みを生み出し始めていた。
魔素を含んだ魚介類は味が濃く、疲労回復効果まである。それが大量に市場へ流れ込めば、昔ながらの漁師さんたちが苦境に立たされるのは必然だった。
「お父さん、毎晩遅くまで帳簿とにらめっこしてて……最近は『いっそ船を売って、俺も探索者の講習を受けるか』なんて言い出して。でも、お父さんは海の男だし、海が大好きなの。……だから、あかねさんに聞きたかったの。もし……もし霧島ダンジョンの中に、地元の漁業を救えるような、すごい水産資源があったりしないかな、って……。」
すがるような瞳で見つめられ、私の胸がキュッと締め付けられた。
そして、私の頭の中に閃いたのは――先週、第七層の大峡谷の最奥で響いていた、あの遥かなる波音だった。
(……第八層。地下海岸・水没珊瑚礁エリア……!)
あの大階段の奥に広がっていた、どこまでも広大でみずみずしい海の気配。
そして、その海へ潜るために手に入れた、あの『水泡草』。
「浜崎さん、」
私は彼女の手を両手で優しく包み込んだ。
「実はね……次の土曜日、私たちが潜る霧島の第八層、”海の世界”なんだよ。」
「えっ……海……!?」
「うん。ダンジョンの中にどんな魚がいるのか、どうやって獲れるのか、まだ誰も知らないの。直接お魚を全部あげることはできないかもしれないけれど……もし第八層で素晴らしい水産物が見つかったら、どんな魚がいるのか、どうすれば安全に獲れるのか、絶対に調べて配信やデータで伝えるね。お父さんたちの新しい希望になるようなものを、必ず見つけてくるから!」
「あかねさん……! ありがとう……本当に、ありがとう……!」
浜崎さんの目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
二本の尻尾をパタパタと揺らしながら、私は心の中で強く誓った。
ただモンスターを倒すだけじゃない。困っている誰かの生活を、未来を照らすための探索をするのだと。
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そして迎えた土曜日、午前八時半。
霧島ベースキャンプのブリーフィング室で、私は出発前に橘一尉と熊倉二曹へ浜崎さんからの相談内容を包み隠さず報告した。
「……なるほど。美濃ダンジョンの水産物による価格破壊、ですか。」
橘一尉は腕を組み、深く頷いた。
「防衛省や農水省の経済分析レポートでも、既存の沿岸漁業への打撃は深刻な懸念事項として挙げられていました。魔素を含んだダンジョン食材は栄養価が高すぎるため、一般市場がそちらへ急速に傾倒してしまうのです。」
「直接漁協に魚を卸したり、特定の一軒だけに利益を横流しするのは協会の規約上難しいが……。」
熊倉二曹が太い顎を撫でながら、ニヤリと笑った。
「何が獲れるか、どうやって獲るかを全世界に生中継して、協会の公認買取ルートを開拓することならできるぜ。お嬢さんの配信は今や世界基準のカタログだからな。鹿児島の海で獲れる魚とダンジョン魚の『共生レシピ』でも見せつけてやりゃあ、風向きも変わるはずだ。」
「はい! 錦江湾の漁師さんたちが『これなら勝負できる!』って思えるような宝物を、絶対に見つけたいです!」
「素晴らしい着眼点です、あかねさん。第一次産業との共生こそ、ダンジョン開拓の真の目的ですからね。」
橘一尉が力強く頷き、愛銃のセーフティを点検した。
「それでは参りましょう。第八層――水没珊瑚礁エリアへ!」
「オクルス一号、起動!」
宙に浮かぶ魔導ドローンカメラの青いランプが点灯し、全世界へのライブ配信がスタートした。
: きたあああああ!! 土曜の朝のお楽しみ!
: あかねちゃん、今日の装備は……水着!? じゃないな!
: 軽装のダイバースーツ風巫女服!? かわいすぎる!!
: 霧島第8層、いよいよ地下の海か!
今日の私の装いは、サキが『水泡草』の繊維を組み込んで突貫で仕立ててくれた、防水・耐圧仕様の特製アクアスーツの上に、いつもの白無垢羽織をベスト状にアレンジした特別装備だ。
二本の尻尾も撥水加工されたバンドでコンパクトにまとめられ、足元は水流を推進力に変える特製フィン付きの魔導ブーツ。
私たちは第七層のポータルから、あの潮の香りが吹き上げる巨大な石造りの大階段を駆け下りていった。
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階段を抜け、最後のアーチをくぐり抜けた瞬間――。
パァァァッ……! と視界一面に広がった光景に、私たち三人、そしてドローンカメラの向こうの何千万人の視聴者が、一斉に言葉を失った。
: う、うそだろ……
: ここが地下……!?
: 海だ……本物の海じゃん!!
: 白い砂浜……エメラルドグリーンの水面……美しすぎる……
頭上、遥か数百メートルのドーム状の発光岩盤は、まるで南国の抜けるような青空と入道雲を模した眩い白光を放っていた。
そして眼前に広がっていたのは、見渡す限りの”白銀の砂浜”と、どこまでも透き通った”エメラルドグリーンの海”!
耳を澄ませば、ザザァァン……と穏やかな波の音が響き、頬を撫でる風は、温かく心地よい潮の香りに満ちていた。
「すげえ……! 完全に南国のプライベートビーチじゃねえか!」
熊倉二曹が思わずタワーシールドを下ろし、砂浜を踏みしめて叫んだ。
「……あかねさん、索敵を。」
橘一尉が周囲を油断なく見渡しながら促す。
私は砂浜にしゃがみ込み、波打ち際の濡れた白砂に両手を差し入れた。
二本の尻尾を広げ、【地脈統御】を海全体へと走らせる。
「……っ!? あれ……?」
私の狐耳がピクリと跳ね上がった。
「どうしました、あかねさん? 凶悪なモンスターの群れですか?」
「いえ、逆です……! この砂浜から、沖合五百メートルまでの浅瀬にかけて……”モンスターの反応が、ほとんどありません!”」
「なんだと!?」
熊倉二曹が目を丸くする。
「わずかにいるのも、第一層のスライム並みに大人しいヤドカリくらいで……それどころか、この砂浜と浅瀬、”とんでもない量の『普通の海の幸』で溢れかえっています!”」
私の言葉を証明するように、足元の波打ち際がポコポコと泡立った。
私がスコップで白砂をわずか数センチ掘り返すと――。
ザクッ!
「……うわぁぁぁぁっ!?」
掘り出された砂の中から転がり出たのは、大人の両手に収まりきらないほど巨大な、黒褐色と黄金の縞模様が美しい”超特大のハマグリ”だった!
それも一個や二個ではない。波打ち際を軽く撫でるだけで、アサリやハマグリ、大きなホタテ貝が、まるで宝石のようにゴロゴロと顔を覗かせているのだ。
【万象識別】!
『名称』:潮騒の真ハマグリ(神籬蛤)
『品質』:極上(Aランク)
『分類』:水産資源/完全無毒・超高純度魔素食品
『特性』:グリコーゲンおよびタウリンが通常種の十倍。濃厚なコハク酸(旨味成分)を極限まで蓄積。疲労回復・肝機能改善・魔素循環促進。
『生息環境』:第八層の清浄な砂浜全域。外敵が存在しないため、無尽蔵に繁殖している。
「ハ、ハマグリ……! しかも一個が拳二つ分くらいある!」
私が掲げてみせると、ドローンカメラのコメント欄が爆発した。
: デッカッッ!? なにそのハマグリ!?
: 潮干狩り会場じゃんwww
: 砂浜に足突っ込むだけで高級貝が無限に採れるのかよ!
: 待って、モンスターいないの!? 安全エリアなの!?
「はい! この砂浜全体が、まるごと広大な安全エリア(セーフティゾーン)になっています!」
私は立ち上がり、二本の尻尾を歓喜でブンブンと振り回した。
さらに浅瀬に目を凝らすと、膝ほどの深さの透明な海水の中を、銀色に輝く魚の群れが悠々と泳ぎ回っていた。
丸々と太った天然のヒラメが砂地に擬態し、鮮やかな桜色の巨大な真鯛が、手の届くような距離を優雅に横切っていく。
「橘さん、熊倉さん! 見てください、ヒラメです! タイです! どっちも丸々と肥えてて、人間をちっとも怖がってません!」
橘一尉が水面を覗き込み、息を呑んだ。
「……信じられない。これほど豊かな漁場が、一切の危険なく浅瀬に広がっているとは……。霧島ダンジョンはこれまで過酷な試練ばかりでしたが、この第八層の入り口は……まるで、人間への『ダンジョンからの贈り物』のようですね」
「贈り物……本当にそうかもしれない!」
私はカメラに向かって、真剣な眼差しで語りかけた。
「全国の皆さん、そして地元の漁師の皆さん! 見てください! 霧島第八層の砂浜には、危険なモンスターはいません! Dランクの入場制限がある霧島ですが、この浅瀬エリアに限っては、網や籠を持って入れば、誰でも安全に最高級の貝や魚を収穫できます! 錦江湾の潮風と同じ、素晴らしい海の恵みがここにあります!」
コメント欄には、驚愕と感動の声が津波のように押し寄せていた。
: 地元の漁師救済キタアアアアア!!
: 危険な戦闘なしで獲れるのか!
: あのハマグリの酒蒸し食いてえええええ!!
: 鯛の刺身絶対美味いじゃん……あかねちゃん最高のレポートだよ!
私はアイテムボックスからサキが持たせてくれた大型の保冷ネットを取り出し、砂浜の特大ハマグリと、浅瀬で網を振るって捕獲した見事な真鯛を次々と収穫していった。
アイテムボックスの中なら時間停止で鮮度は永遠に獲れたてのピチピチだ。浜崎さんのお父さんへの最高のお土産ができた。
だが――。
恵みの浅瀬の向こう側。沖合五百メートルを境にして、海の色はエメラルドグリーンから、底知れぬ藍色――”深い藍碧の深淵”へと急激に落ち込んでいた。
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「さて……ここからが、本番ですね。」
橘一尉が砂浜の波打ち際で立ち止まり、藍色の沖合を見据えた。
その先からは、これまでの穏やかな波音とは異なる、地脈の重苦しい水圧の唸りが響いてきている。
「ああ。浅瀬が天国なら、深海はいつもの霧島の地獄ってわけだ。」
熊倉二曹が首の骨を鳴らし、白銀のシールドを構え直す。
私はアイテムボックスから、先週第七層の大峡谷で採取したあの霊草――『水泡草』の半透明な果実を三つ取り出した。
「橘さん、熊倉さん。これを口に含んで、薄皮を噛み破ってください。」
「これが、あの水中呼吸の草ですね。」
三人が同時に水泡草の果実を口に含み、プチリと噛み破る。
その瞬間、果実の中からひんやりとしたミントのような清涼なエキスが溢れ出し、喉を通って全身の皮膚へと染み渡っていった。
体表を薄い青い光の膜がふわりと包み込む。
『特殊状態:【水泡の呼吸肺】適用』
『効果』:持続時間三時間。水中における完全呼吸、水圧耐性(深度千メートルまで無効化)、水中視野明瞭化、遊泳速度+50%。
「……おおっ! 息が苦しくねえ! 身体が羽みたいに軽くなったぞ!」
熊倉二曹が胸を叩いて驚嘆する。
「行きますよ。第八層の深部――水没珊瑚礁の最深部へ!」
ザブンッ……!
私たちは砂浜を蹴り、エメラルドグリーンの浅瀬を越えて、藍色の深海へと飛び込んだ。
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ドローンカメラ『オクルス一号』も完全水密モードへと変形し、パタパタと水かきのような魔力スクリューを回して私たちの後を追う。
海中へと潜った瞬間、視界に広がったのは、息を呑むほど幻想的な光景だった。
海底には、蛍光ピンク、コバルトブルー、黄金色に発光する巨大な珊瑚礁が、まるでファンタジーの巨木の森のように林立していた。
水泡草の膜のおかげで、水圧は全く感じない。水中にいるのに、まるで地上で風に乗って滑空しているかのように、手足を軽く動かすだけでスイスイと三次元的に泳ぎ回ることができた。
私の二本の黄金の尻尾が、まるでスクリューのように優雅に水流を掻き、推進力を生み出している。
: うわああああ海中配信だ!!
: めっちゃ綺麗……! 竜宮城みたい!
: あかねちゃん泳ぐの早っ!? 尻尾がスクリューになってるwww
: 水中でも普通に喋れてるの凄すぎ!
だが、珊瑚礁の森を抜けて深度が百メートル、二百メートルと深くなるにつれて、海中の空気は一変した。
周囲を泳ぐ魚たちの姿が消え、代わりに現れたのは、岩肌に擬態した凶暴な魔獣たちだった。
ガチガチガチッ!
珊瑚の影から突如として飛び出してきたのは、体長三メートルを超える、全身を漆黒の甲殻で覆った巨大なハサミを持つ甲殻類――”シールド・ロブスター”。
さらに、頭上からは大蛇のような体躯を持つ、鋭利な牙を並べたウツボ型の怪獣――”アビス・モレイ”が三頭、海水を切り裂いて急降下してきた。
「グルルァッ!」
「【堅守の構え】――水中展開ッ!!」
熊倉二曹が水中でタワーシールドを構える。
ドガァァァンッ! と水中で重い衝撃波が走り、巨大ロブスターのハサミを真正面から受け止めた。
水中の粘性抵抗を逆手に取り、熊倉二曹の巨体がガッシリと海底の岩盤を踏みしめてビクともしない。
「水中でも俺の盾は破れねえぞ!」
「橘さん、ウツボのエラ蓋の奥、青く光っている器官が魔素コアです!」
「了解――水中精密射撃!」
橘一尉が構えた小銃の銃口から放たれたのは、美濃黒泥炭の超硬合金で鍛え直された特製の水中徹甲弾。
ズドォォンッ!
気泡の螺旋を一直線に引き裂きながら放たれた弾丸が、急降下してきたウツボの急所を百発百中で穿つ。
ギャオッ! と断末魔の泡を噴き上げ、モンスターたちが次々と光の粒子へと弾け飛んでいった。
「妖術・水流加速――【水華双龍】!」
私は水中で掌を突き出し、周囲の海水を味方につけた。
ただでさえ強力な水属性妖術が、無尽蔵の水が存在する海中においてその威力を三倍に跳ね上げる。
猛烈な渦潮がロブスターを巻き上げて身動きを封じ、熊倉二曹のシールドスマッシュが一撃でその装甲を粉砕した。
手に入ったのは、高純度の『水霊魔鉱石』、頑丈な『深海甲殻プレート』、そして『大ウツボの白身肉』。
浅瀬の平和な海とは打って変わった、いつもの霧島ダンジョンの過酷な死闘。
だが、水泡草の加護と二尾に進化した私の魔力、そして歴戦の自衛官二人の連携により、私たちは危なげなく深度を深めていった。
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そして――水深五百メートル。
光の届かないはずの海底の最深部に、巨大なすり鉢状のクレーターが現れた。
そのすり鉢の底には、古代の沈没船のような巨大な木造構造物が幾重にも折り重なり、不気味な青白い燐光が海水をぼんやりと照らし出していた。
「……あかねさん、気配は?」
橘一尉が水中でハンドサインを送りながら、耳元の通信機で囁く。
私は海底の沈没船の残骸に指先を触れさせ、【地脈統御】を海流の波形へと同期させた。
その瞬間、私の二本の狐耳が、水流の不気味な脈動を捉えて激しく震えた。
「……います。すり鉢の底、沈没船の竜骨の隙間です。」
私の声が、水泡草の膜を通じて二人の鼓膜へ届く。
「とてつもなく巨大な生体反応……そして、その周囲の海流が、不自然な渦を巻いて引き寄せられています。」
ゴボボボボボ……ッ!
海底の砂煙が巻き上がり、沈没船の巨木をへし折りながら、その主がゆっくりと姿を現した。
「ギチギチギチ……グルルルルルァッッ!!」
大気を震わせる代わりに、海水を激震させる重低音の咆哮。
暗黒の深海からぬらりと這い出てきたのは、体長十二メートルを超える、丸々と太った醜悪にして巨大な深海魚――”チョウチンアンコウの怪獣”だった。
その口には、大人の背丈ほどもある無数の針のような牙がびっしりと並び、ゴムのように伸縮する漆黒の皮膚は、あらゆる打撃を吸収するかのようにブヨブヨと波打っている。
だが、何よりも異様だったのは――その頭頂部から長く伸びた触手、その先端で怪しく輝く巨大な『発光提灯』だった。
【万象識別】!
『種族』:アビス・ランタンタイラント(深海の誘引大怪魚)
『危険度』:D+ランク(第八層階層守護獣/中ボス)
『特性』:超柔軟粘弾性皮膚(打撃・射撃半減)、大顎丸呑み、水圧破砕音波
『特殊能力:【深海の幻灯魔光】』
・頭頂部の提灯から放たれる怪しい光により、階層全域の肉食モンスターを狂乱状態で無限に誘引・使役する。
『弱点』:頭頂部の発光触手(提灯)の切断・破壊。光を失うと視界を完全に喪失し、使役能力が崩壊する。
「ギチッ! グオオオオオッッ!!」
アンコウが巨大な鰭を打ち鳴らした瞬間、頭の提灯がカッと眩い紫色の光を海中に放った。
その光が深海を照らし出した、まさにその時――。
ヒュルルルルルッ!
キエエエエエエッッ!
「なっ……!? 上空……いや、海面側から無数の影が!?」
熊倉二曹が息を呑んだ。
提灯の光に引き寄せられるように、海底の岩陰や暗闇から、数十頭を超えるアビス・モレイ、シールド・ロブスター、さらには獰猛なノコギリザメ型のモンスターが、目を血走らせて狂乱状態で雪崩れ込んできたのだ!
: うわあああああ大群だ!!
: 提灯が仲間を呼んでる!?
: 無限湧きギミックかよ!!
: サメとウツボに囲まれたら水中でミンチにされるぞ!?
コメント欄が悲鳴で埋まる。
中ボス単体でも巨大な上に、周囲から絶え間なく雑魚モンスターが特攻を仕掛けてくる絶望的な乱戦!
「熊倉二曹、全方位防御! 取り巻きを近づけさせるな!」
「おうよッ!! 【挑発の咆哮】――水中最大出力ッッ!!」
ボオオオオオオンッ!!
水中で放たれた熊倉二曹の咆哮が、音波兵器のように海水を震わせた。
突進してきたサメやウツボの群れが、強制的に意識を熊倉二曹の巨大なタワーシールドへと引きつけられる。
ガキガキガキィンッ!
無数の牙とハサミがシールドに群がり、熊倉二曹の足が海底の砂を抉る。
「ぐ、ぐあああっ……! 数が多すぎる! このままじゃシールドごと削り殺されるぞ!」
「アンコウ本体が突進してきます!」
橘一尉が小銃を連射するが、ブヨブヨとしたアンコウのゴム皮膚に弾丸がめり込み、威力を殺されて弾き返される。
アンコウは巨大な口を大きく開け、熊倉二曹をシールドごと丸呑みにしようと突進してきた!
「橘さん、熊倉さん! あの提灯です!」
私の二本の黄金の尻尾が、海中で激しく魔力を迸らせた。
「あの頭の提灯を壊せば、光が消えてモンスターたちの狂乱が止まります! 視界も奪えます!」
「狙撃しようにも、頭の触手が激しく揺れて捉えきれません!」
「なら――私が、あいつの頭上へ直接跳びます!」
「あかねさん!?」
橘一尉の制止の声を背に、私は両足を揃えて海中を蹴った。
第六層で習得した、至高の空間魔法――【空間転移】!
水中であろうと、空間を跳び越える理は変わらない!
(跳べ――提灯の直上へ!)
シュンッ……!
私の身体が水中で青銀色の光となって掻き消えた。
次のコンマ一秒後――。
パッ! と私の身体が現れたのは、突進するアンコウの巨大な頭頂部、怪しく発光する提灯の触手の、まさに真上だった!
「妖術・二重螺旋刃――【水華断ちの刃】ッッ!!!!」
私の両の手のひらから、超高圧で極限まで圧縮された二筋の薄い水の刃が、巨大なハサミのように交差して撃ち出された。
レベル10で二尾に進化した私の、並列魔力による最大切断魔術!
キィィィィィンッッ!!
海水を両断する澄んだ超音波の響きとともに、高圧水刃がアンコウの頭頂部から伸びる太い触手を、根元からスパァンッ! と一刀両断に切り落とした!
ボタァッ……!
切り離された巨大な提灯が、光を失いながら海底へと沈んでいく。
「ギ……ギギャアアアアアアアアッッッ!!!!」
アンコウが狂乱の絶叫を上げた。
視界を奪われ、使役の核を断たれた巨躯が、方向感覚を失って海底の沈没船へと激突する。
そして、提灯の魔光が消え去った瞬間――。
熊倉二曹を取り囲んでいたサメやウツボたちの瞳から、血走った狂乱の光がスッと消え去った。
我に返ったモンスターたちは、アンコウの暴走と熊倉二曹の威圧に恐れをなし、蜘蛛の子を散らすように深海の暗闇へと一目散に逃げ去っていったのだ!
「……光が、消えた! 取り巻きが逃げていくぞ!」
熊倉二曹が叫ぶ。
「あかねさん、ナイスです!」
橘一尉が空中で身を翻し、盲目となって沈没船の瓦礫にもがくアンコウの眉間へと小銃を突きつけた。
「これで……沈みなさい! 【徹甲撃】・連射ッッ!!」
ズドォォンッ! ズドォォンッ! ズドォォンッ!
水中で放たれた三連発の魔導徹甲弾が、触手を切り落とされて装甲が脆くなったアンコウの頭部中枢へと完璧に吸い込まれた。
パリンッ……! と、深海に響き渡る魔素コアの砕折音。
「ギ……ル……ァ……ッ……」
アビス・ランタンタイラントの巨躯から完全に力が抜け、海底の白砂の上へとドスン……と前のめりに沈み込んだ。
そして――。
シュウゥゥゥゥ……ッ!
深海を埋め尽くすように、息を呑むほど眩いサファイアとエメラルド色の光の粒子が、海中イルミネーションのように舞い上がった。
水泡草の膜に包まれた私たちの身体を、温かい光の奔流が優しく包み込んでいく。
『――中ボス【アビス・ランタンタイラント】の撃破を確認』
『第八層の安全航路が確立されました』
『笹貫あかねのレベルが【12】に上昇しました』
『パッシブスキル:【万象解体】により、超希少素材『深海魔光の宝珠』『絶品・深海アンコウの肝』を獲得』
静寂が戻った深海。
私の二本の尻尾が、ふわりと水中に漂い、ドローンカメラに向かってホッとした笑顔を向けた。
「……ふぅ! やりました……撃破完了です!」
コメント欄は、もはや判読できない速度の拍手と歓声で埋め尽くされていた。
: きたあああああ!! 水中ボス撃破!!
: テレポートで頭上に跳んで触手切断とか神業すぎる!!
: 水中戦であの立ち回りできるのあかねちゃんだけだろ!
: アンコウの肝ドロップしてて草、絶対美味いじゃん!
: 最高のチームワークだった!!
橘一尉が水中で敬礼を送り、熊倉二曹がサムズアップを作って豪快に笑った。
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アンコウが消滅した海底のすり鉢の中央。
光の粒子が晴れ上がったその場所に、それは静かに佇んでいた。
青白い光を放つ”第八層の【帰還ポータル】”。
そしてその奥に、さらに深く――第九層へと続く、海底神殿のような巨大な下り階段が口を開けていた。
階段の奥からは、水流が途絶え、どこか重厚で張り詰めた、大いなる試練の気配が吹き上がってきていた。
第九層。そしてその先に待つ、最初の節目である”第十層の大ボス”への道。
「……橘隊、第八層の先行調査任務を完了とします」
橘一尉がドローンカメラに向かって告げた。
「皆さん、応援ありがとうございました! 浅瀬のハマグリと真鯛、本当に最高ですから、地元の皆さんもぜひ期待してくださいね!」
私がカメラに向かって両手で手を振ると、配信終了の合図とともに青いランプが静かに消えた。
ポータルクリスタルに手を重ね、転移の光が全身を包み込む。
私のアイテムボックスの中には、浜崎さんのお父さんたちに届けるための、山のような特大ハマグリと極上の真鯛、そして深海の宝物がぎっしりと詰まっていた。
地上へ戻ったら、すぐに浜崎さんに教えてあげよう。
「錦江湾の海は、まだまだ終わらないよ」と。
誰かの生活を支え、未来を照らし出す確かな希望を携えて、私たちは誇らしく地上へと帰還したのだった。




