クズ男が連れていかれるのは東です!~風評被害を受けた西の辺境伯には、なぜか捨てられた優秀な令嬢ばかり集まってきます~
やらかした貴族令息は辺境に送られがち。
――受け入れる方も大変。
とある王国には、二つの辺境騎士団がある。
一つは西。険しい山脈が国境を成す地を守る、西方辺境騎士団。
もう一つは東。魔獣の棲む深い森と荒野を守る、東方辺境騎士団。
両者はあまりに遠い。王国は東西に細長く、馬で駆けても一月近くかかる距離を隔てている。西では冬になれば吐く息すら凍るような寒風が吹きすさび、東では湿った熱気と獣の唸り声が絶えない。気候も、風土も、そこで暮らす者の気質すらも、まるで別の国のように違っていた。
それでも、本来なら、どちらも王国の盾として等しく敬われるべき存在だった。
――少なくとも、三年前までは。
「団長! また入団希望者が辞退しました!」
執務室の扉が乱暴に開いた。差し込む秋の陽光が、埃っぽい空気に一筋の帯を作る。窓の外では、山脈から吹き下ろす風が城壁の旗を勢いよく鳴らしていた。
副団長の声は大きかったが、その声音には妙な諦めが染みついている。
「……今度は何人だ」
西方辺境伯レオニス・ヴァルガスは、執務机に肘をついたまま、指先で額を押さえた。ここ数か月、この姿勢でいる時間の方が、剣を握っている時間よりも長い気がする。
「七人全員です!」
窓から差す光が、彼の濃紺の髪をわずかに透かしている。
二十九歳。琥珀色の瞳は理知的で、長身だが騎士としてはやや細身に見える体軀だった。もっとも、服を脱げば無駄なく鍛えられた筋肉がついていることを、西方騎士団の者たちはよく知っている。
顔立ちも端整だった。王都の夜会に出れば令嬢たちから熱い視線を浴びる程度には。
けれど、そんな見てくれのよさも、今の彼にはなんの役にも立たなかった。
「……」
レオニスは、しばらく何も言わなかった。窓の外で旗がばたばたと鳴る音だけが、やけに大きく聞こえた。
「辞退理由は」
「……やはり、あれです」
「言え」
「『ヘンタ……辺境騎士団に入ると、男ばかりのところで何をされるか分からないと聞いて恐ろしくなって』と」
「今、変態って言いかけただろ!」
「し、失礼しました!」
副団長は真っ赤になって口元を押さえた。「辺境」と言うつもりが、途中まで別の言葉が口から出かけていた。本人も無意識だったのだろう。だが慌てて言い直したところで、レオニスには何を言いかけたのか、はっきりと伝わっていた。
沈黙が落ちた。
レオニスのこめかみに青筋が浮かぶ。
「それは東だ!」
怒声が執務室の壁を震わせた。
「なぜ西まで一緒にされる!」
「王都の人間にとっては、東も西も『辺境』ですから……」
「五百リーグ離れている!」
「王都の人間は地図を見ません」
「見ろ!」
レオニスは机を叩いた。インク壺が跳ね、危うく倒れかける。副団長は慣れた様子でそれを片手で押さえながら、深く息を吐いた。
すべての元凶は、三年前に東方辺境伯が始めた、とある制度だった。
――通称『クズ男再教育制度』。
婚約者の持参金を使い込んだ。複数の女性と関係を持った。婚約者を虐げた。家の権力を笠に着て使用人に暴力を振るった。借金を令嬢に押しつけた。そういった問題を起こした貴族の男を、家族の依頼によって東方辺境騎士団が引き取るのである。
本人の意思? もちろん、そんなものは関係ない。屈強な騎士が迎えに来る。そして東へ連れていく。
日の出とともに起床。厩舎掃除。井戸掘り。開墾。魔獣討伐。騎士団式礼儀作法。炊事。洗濯。
さらに、東方辺境伯本人による、個人面談。数か月にわたる更生の間、幾度となく呼び出され、自分が何をしでかし、誰を傷つけ、なぜここへ送られることになったのかを、本人が理解するまで徹底的に問いただされるという。
『女の子を泣かせる男なんて、アタシ大っ嫌いよぉ?』
その時間を、東へ送られた男たちは、魔獣討伐より恐れているとも噂されていた。
東方辺境伯バルガス・オルディーン。
二メートル近い巨躯。岩のような肩。丸太のような腕。厚い胸板。魔獣を素手で絞め殺したという真偽不明の逸話まで持つ、王国屈指の猛将である。
そして、言葉遣いが非常に個性的だった。
東へ連れてこられた問題児を眺めては、
『あらぁん♡ あなた、磨けばいい男になりそうじゃなぁい』
訓練を終えれば、
『いい汗かいたわねぇ。そういう顔、アタシ嫌いじゃないわよぉ♡』
更生が進めば、
『うふふ。いい感じに仕上がってきたじゃなぁい♡』
怖い。
非常に怖い。
帰ってきた男は、まるで魂を入れ替えたかのように変わっているという。腰が低くなり、働き、謝罪し、女性を尊重し、使用人にも礼を言う。おまけになぜか、社交ダンスまで妙に様になっている。そして東方辺境伯の名前を聞いただけで、条件反射のように背筋が伸びる。
更生率、驚異の九割七分。王国司法省すら注目する制度だった。
問題は、その過程について妙な噂が独り歩きしたことだ。
――東の辺境騎士団では、クズ男が送られてきて調教されている。
ここまでは、まあ事実に近い。ところがいつしか、
――辺境騎士団に入ると男同士で何か恐ろしいことをされるらしい。
と、まことしやかに囁かれるようになった。
しまいには酒場の噂話で、
「辺境騎士団っていうか、もうヘンタイ騎士団って呼んだ方が早いんじゃない?」
「バカ、声が大きい。でもまあ、あの辺境伯だしな」
などと、下卑た笑いとともに揶揄されることさえあった。
一度そう言われ始めると、面白がった者たちの間で妙に定着し、真面目な話のはずの制度の噂にまで、いつしかその軽口が混ざり込むようになっていった。
「我々は何もしていないのに!」
レオニスは頭を抱えた。日が傾き始め、執務室の壁に長い影が伸びていく。
その結果、西方騎士団の入団希望者は三年間で四割減った。若手騎士は不足し、国境警備はぎりぎりの人数で回している。募集広告には最近、
『西方辺境騎士団は健全な職場です』
という、書けば書くほど怪しくなる一文まで追加された。
レオニスは窓辺に立ち、遠く霞む山の稜線を眺めた。夕暮れの光が岩肌を薄紅に染めていく。美しい景色のはずなのに、今はただ、重く胸にのしかかるばかりだった。
「……このままでは、国境が持たない」
誰にともなく呟いた声は、風の音に紛れて消えていった。
♢
奇妙なことが起き始めたのは、その翌年の初夏のことだった。
「辺境伯様。お願いがございます」
執務室の扉を叩き、静かに一礼したのは、一人の令嬢だった。旅塵にまみれた外套の下から、上品だが着古された旅装が覗く。震えを堪えるように、両手を胸の前できつく握りしめていた。
名をエミリア・ローデン。子爵令嬢。二十四歳。
婚約者だった男が彼女の持参金を勝手に使い込み、そのうえ別の女性と遊んでいたことが発覚した。
男は現在、東にいる。
実家からの依頼を受けた東方騎士団が迎えに来て、そのまま連れていったのだ。
エミリアの瞳の奥には、怒りとも悲しみともつかない、乾いた光があった。
「王都には、もういたくありません」
エミリアの声は掠れていた。
窓から差す午後の光が、彼女の伏せた睫毛の影を頬に落としている。
「こちらで働かせていただけませんでしょうか」
「……働く?」
「はい」
レオニスは戸惑った。貴族令嬢が辺境で何をするというのか。屋敷の一隅で花でも生けて暮らすというなら分かる。だが「働く」とは。
「何ができる?」
その問いに、エミリアは一瞬、驚いたように瞬きをした。まるで、そんな質問をされたのは初めてだと言わんばかりに。
「会計です」
「会計?」
「父の領地経営を手伝っておりました」
半信半疑のまま、レオニスは試しに帳簿を渡した。分厚い、ここ数年分の収支簿だ。片付けの意味も込めていた。おそらく数日で音を上げるだろう、と。
三日後。
「辺境伯様」
「なんだ」
エミリアの目には、隈ができていた。だがその奥には、燃えるような光があった。
「騎士団の食糧調達費が高すぎます」
「……は?」
「業者が相場の一・四倍で納品しています」
「何だと?」
「あと馬糧にも不自然な上乗せがあります。それから武具の修繕費も」
調査すると、全部本当だった。長年出入りしていた商会との癒着が発覚したのである。契約を見直した結果、年間予算が十二パーセント浮いた。その金で騎士たちの給料を上げた。
「団長! 騎士たちが泣いて喜んでいます!」
「そうか」
「食堂でエミリア嬢が胴上げされそうになっております!」
「止めろ! 令嬢だぞ!」
エミリアはそのまま、西方領の会計官になった。
ところが、それで終わらなかった。
翌月。また一人、令嬢がやってきた。
「婚約者が東へ連れていかれまして」
「……またか」
「行くところがございません。雇っていただけませんか?」
「何ができる?」
「薬草学を少々」
少々ではなかった。彼女は王立学院薬学科首席だった。西の山に自生する薬草を摘み、乾かし、丁寧に調合して傷薬を作った。城の裏庭には薬草畑が広がり、夏には涼やかな緑の香りが漂うようになった。騎士団の医療費が三割下がり、余った薬を王都へ売ったところ、莫大な利益が出た。
その翌月。
「元婚約者が東へ」
「何ができる?」
「織物です」
羊毛産業が発展した。西の丘には羊の群れが放たれ、白い毛並みが夕陽に染まる光景は、いつしか旅人が足を止めるほどの美しさになっていた。
翌々月。
「婚約者が」
「東だな?」
「はい」
「何ができる?」
「料理を」
保存食が改良された。長い冬でも兵糧に困らなくなった砦の食堂からは、夜になっても温かい湯気と笑い声が絶えなくなった。
その次。
「東に」
「分かった。特技は?」
「土木設計です」
「なぜ令嬢が土木設計を!?」
「趣味です」
「趣味!?」
橋が架かった。街道が整備された。物流量が倍になった。
さらに来た。農業。教育。染色。養蜂。簿記。法律。建築。商業。なぜか皆、優秀だった。
理由は単純だった。彼女たちは婚約者を支えるために学んでいたのである。領地経営を。社交を。会計を。外国語を。薬学を。商取引を。なのに男たちは、その努力を当然のものとして受け取り、感謝もせず、浮気し、浪費し、傷つけた。そして東へ送られていった。
一方、捨てられた令嬢たちは西へ来た。
西方辺境伯は彼女たちに尋ねる。
「何ができる?」
答えを聞く。
「なら、それをやってみろ」
任せる。成果が出る。
「よくやった」
褒賞を出す。ただ、それだけだった。だが、その「ただそれだけ」を、彼女たちはこれまで誰からも与えられたことがなかった。
♢
三年後。西方辺境領は、とんでもないことになっていた。
「税収が三年前の二・三倍になっています」
「……なぜだ」
「人口が増えました」
「なぜだ」
「仕事があるからです」
「なぜだ」
「令嬢たちが事業を始めるからです」
「……」
「さらに、騎士団員の平均給与は王国一です」
「辺境なのに?」
「辺境なのに」
「食堂は?」
「王都の騎士団より豪華です」
「宿舎は?」
「全室個室になりました」
「浴場は?」
「薬草風呂付きです」
レオニスは窓の外を見た。
三年前まで閑散としていた城下町。今では商人が行き交い、工房から煙が上がり、新しい家々が建っている。夕暮れには灯りが一つ、また一つと点り、町全体がやわらかな橙色に包まれていく。かつては寂れて見えたその景色が、今は誰の目にも活気に満ちて映るようになっていた。
「……東のおかげなのか?」
思わず呟く。
副団長が首を振った。
「それだけは認めない方がよろしいかと」
「そうだな」
絶対に認めたくない。
しかし、領地が豊かになっても、西方辺境騎士団を取り巻く誤解は一向に消えなかった。むしろ、令嬢たちが次々と西へ集まることで、別の噂まで広がっていた。
――東へ連れていかれた男たちの元婚約者は、西へ行くらしい。
――西方辺境騎士団には、男ではなく令嬢が集められている。
――西へ行けば、捨てられた令嬢でも仕事がもらえるらしい。
最後の噂だけは、完全な間違いとも言えなかった。実際、西方辺境領の門前には、令嬢を乗せた馬車が列を作るようになっていた。
もっとも、集められているのは騎士団ではなく、あくまで領地の仕事の方だ。だが噂話にそんな区別は関係ない。「辺境伯領」も「辺境騎士団」も、王都の人間の耳にはひとまとめに「西の辺境」としか届かなかった。
「辺境伯様。お願いがございます」
「またか」
「婚約者が東へ連れていかれまして」
「……何ができる?」
その繰り返しの中で、募集所の受付係は、とうとう新しい一文を要項に加えた。
『西方辺境騎士団は、男性騎士も募集しております』
その下には、さらに小さな文字で。
『令嬢の方も歓迎いたします』
――そして、ある日の募集結果は。
「団長! 本日の入団希望者です!」
「何人だ」
「男性が一人。女性が十二人です!」
「……」
「男性の方は、ヘンタ……いえ、東方辺境騎士団と間違えて来たそうです」
「帰ってもらえ」
「はい!」
副団長が言い間違えかけた「ヘンタ……」にも、レオニスは何も突っ込まなかった。もはや、そんな気力も残っていなかったからだ。
♢
そんな西方辺境領に、ある秋の日、とんでもない女がやってきた。
城門の前に停まった馬車は、他のどれよりも装飾が豪奢だった。従者たちの動きにも一分の隙もない。見物に集まった領民たちが、ざわめきながら道を空ける。
馬車の扉が開き、降り立った女性を見て、レオニスは言葉を失った。
淡い金髪が、秋の陽光を受けて絹糸のように輝いていた。澄んだ青い瞳は、遠く故郷を離れてきたはずなのに、少しも揺らいでいない。背筋は真っ直ぐに伸び、纏う空気そのものが、これまで見てきたどの令嬢とも違っていた。
公爵令嬢アデライド・ロシュフォール。そして――ひと月ほど前まで、王太子の婚約者だった女性。
「……まさか」
「はい」
アデライドは微笑んだ。その微笑みの奥に、長い年月をかけて磨り減らされた何かを、レオニスは見た気がした。
「殿下は、ひと月ほど前に東へ連れていかれました」
「王太子まで!?」
「国王陛下がお決めになりました」
「何をしたんだ、殿下は」
「私の侍女と浮気を」
「……」
「それから国家予算を一部、贈り物に流用されました」
「……」
「さらに公務を私に押しつけて遊んでおられました」
「……東でいいな」
「ええ。東でよろしいかと」
初対面なのに意見が一致した。
「それで」
レオニスは尋ねた。
「あなたは何ができる?」
アデライドは、少しだけ目を見開いた。これまで彼女に向けられた質問は、いつも違っていた。王太子妃として相応しいか。殿下を支えられるか。世継ぎを産めるか。王家の名誉を守れるか。
誰も、彼女自身に問うたことはなかった。
――あなたは何ができる?
初めて、自分自身の輪郭を問われた気がした。喉の奥が、わずかに熱くなる。その問いが、凍りついていた何かをゆっくりと溶かしていくのを感じた。それを悟られぬよう、彼女は静かに息を吸った。
「外交、財政、法律、行政、農政。それから五か国語を話せます」
「……全部?」
「はい」
「王太子は何をしていた?」
「お昼寝でしょうか」
レオニスは天井を仰いだ。乾いた笑いが漏れる。
「東で鍛え直してもらおう」
「私もそう願っております」
また意見が一致した。夕暮れの光が、二人の間に長い影を落としていた。
♢
アデライドは、西方辺境領で働き始めた。最初に手をつけたのは交易だった。
「西には鉄鉱石があります」
「ああ」
「隣国は鉄を欲しがっています」
「だが関税が高い」
「交渉しましょう」
「誰が?」
「私が」
三か月後、関税が半分になった。
「……何をした?」
「普通に交渉を」
「普通とは」
「相手国が欲しがっていた羊毛の優先取引権をつけました」
「それだけ?」
「それだけです」
半年後、西方領の交易額はさらに一・七倍になった。
レオニスは思った。王太子は馬鹿だったのではないか。いや、馬鹿だ。こんな女性を手放すなど。
仕事を共にする時間が増えるにつれ、レオニスはアデライド自身を見るようになった。完璧な公爵令嬢。そう思っていた。だが違った。
「レオニス様!」
ある秋晴れの日、彼女が庭から駆けてきた。裾を軽く持ち上げ、頬を上気させて。
「見てください!」
「どうした?」
「じゃがいもが採れました!」
満面の笑顔だった。頬に泥までついている。陽射しを受けたその表情は、公爵令嬢という肩書きからすっかり解き放たれた、一人の女性のものだった。
「……アデライド」
「はい?」
「頬」
「あ」
レオニスが指で拭う。触れた指先に、彼女の頬の温もりが伝わった。アデライドの顔が赤くなった。そして、レオニスも少しだけ目を逸らした。
「……公爵令嬢が泥だらけになるな」
「今は西の役人です」
「そうだったな」
二人で笑った。庭の向こうでは、蜜蜂の羽音と、働く令嬢たちの明るい声が響いていた。
それからも季節は巡った。夏には麦の穂が金色に波打ち、秋には葡萄畑が甘い香りを漂わせ、冬には炉端で誰かの淹れた茶の湯気が窓を曇らせた。レオニスは、いつしかその日常の中に、アデライドの姿を探すようになっていた。
さらに半年後、レオニスはアデライドに求婚した。
夕暮れの庭。薬草の香りがかすかに漂う中、彼は緊張を隠せぬまま、彼女の手を取った。
「俺は王太子ではない」
「存じております」
「王都ほど華やかな暮らしもさせられない」
「必要ありません」
「辺境だ」
「好きです」
「冬は寒い」
「暖炉があります」
「……俺は口下手だ」
「知っています」
「それでも」
レオニスは彼女を見る。夕陽が二人の影を長く伸ばし、地面に一つに重ねていた。
「俺の隣にいてくれないか」
アデライドは微笑んだ。今度は仮面などではない、心からの笑みだった。
「喜んで」
こうして、元王太子妃候補の公爵令嬢は、西方辺境伯夫人になった。
♢
それから一年後。王宮で建国記念祝賀会が開かれた。西方辺境伯夫妻も招待された。
王都の空は、澄んだ紫紺に染まっていた。宮殿の窓という窓に灯りが点り、遠くからでも音楽の調べが聞こえてくる。馬車を降りたアデライドは、大理石の階段を見上げ、小さく息を吸った。
「久しぶりの王宮ですね」
「緊張するか?」
「いいえ」
アデライドは微笑んだ。
「もう、誰かの期待に応えるためにここへ来たのではありませんもの。今の私は、西方辺境伯夫人ですから」
その言葉に、レオニスも笑う。かつてこの階段を、自らの心を押し殺し、王太子の婚約者として求められる役目を果たすためだけに上っていた彼女は、もういない。
「そうだったな」
二人で大広間へ入る。シャンデリアの光が、磨き抜かれた床に反射して煌めいていた。ざわめきが起こる。西方辺境領の発展は、すでに王都でも有名だった。
「アデライド様、相変わらずお綺麗ね」
「辺境伯様も素敵……」
「本当にお似合いだわ」
そんな囁きが聞こえてくる。レオニスは濃紺の正装。細身ながら鍛えられた身体に仕立てのよい衣装がよく似合う。隣には美しい妻。申し分のない辺境伯夫妻だった。
――そのとき。
「レェオニスちゃぁぁぁん!」
聞き覚えのある低音が響いた。会場の空気が一瞬止まる。
レオニスの身体が硬直した。
「……来た」
人垣が割れる。
いや、正確には、近づいてくる男を見た人々が左右へ避けた。
現れたのは、ひときわ大きな男だった。
煌びやかな正装に身を包んでいても、その身体が舞踏会より戦場に似合うことは一目で分かる。居並ぶ貴族たちより頭ひとつ高く、ただ歩いてくるだけで迫力があった。
それなのに、本人は満面の笑みを浮かべている。威圧感たっぷりの巨躯とは裏腹に、纏う空気はやけに華やかで、仕草の端々には妙な艶っぽさまであった。
東方辺境伯、バルガス・オルディーン。通称――東の魔王。
「あらぁぁん!」
その魔王が両手を広げた。
「久しぶりじゃなぁい!」
「……ご無沙汰しております」
「あらやだ、他人行儀ぃ」
バルガスがレオニスを上から下まで眺める。そして唇の端を上げた。
「あんた――」
一歩近づく。周囲の貴族たちが、蜘蛛の子を散らすように距離を取った。
「相変わらず、いい男ねぇ♡」
ぞぞぞぞぞ。
レオニスの背筋を猛烈な悪寒が走った。反射的に、隣にいるアデライドの手を握る力が強くなる。指先が、少しだけ冷たくなっていた。
「あら」
妻が笑った。
「レオニス様?」
「……すまない」
「怖いのですか?」
「怖くない」
「あらぁ?」
バルガスが身を屈める。厚い胸板が近づき、シャンデリアの光を遮った。
「アタシ、何にもしてないわよぉ? ま・だ♡」
「近い!」
周囲の貴族たちが笑いを堪えている。バルガスは満足そうに笑うと、今度はアデライドへ顔を向けた。
「あらぁん。あなたが奥様ね」
アデライドはドレスの裾を軽くつまみ、優雅に腰を落とした。
「お初にお目にかかります、東方辺境伯様。アデライド・ヴァルガスと申します」
流れるようなカーテシーに、バルガスが嬉しそうに目を細める。
「綺麗ねぇ。レオニスちゃんにはもったいないわぁ」
「私もそう思います」
「アデライド!?」
すました顔で答える妻に、レオニスが思わず声を上げた。
バルガスが豪快に笑った。それから、ふと思い出したように言う。
「あ、そうそう」
「?」
「あなたの元婚約者」
アデライドの表情が、わずかに止まった。
「元王太子殿下ですか?」
「そうそう」
バルガスは意味ありげに微笑む。
「あの子ねぇ――」
妙に艶っぽく腰に手を当てた。
「いい感じに仕上がってるわよぉ♡」
「……仕上がる?」
レオニスが青ざめる。
「何をした!?」
「やぁねぇ。礼儀と労働と筋肉と、あと社交ダンスを教えただけよぉ」
「なぜダンス!?」
「あら、必要よぉ」
即答だった。
「最初はねぇ、『僕は王太子だぞ!』なんて言ってたの」
「言いそうですね」
「三日目には『父上に言いつけるぞ!』」
「言いそうです」
「一週間目には『もう帰りたい』」
「でしょうね」
「一か月目には?」
バルガスはにっこり笑った。
「『バルガス様、今日の薪割りは何本でしょうか!』」
「……」
「今じゃ朝四時に起きて、厩舎を掃除して、朝食を作って、薪割ってるわぁ」
アデライドは瞬きをした。
「殿下が……朝四時に?」
「ええ」
「ご自分で?」
「ええ」
「起きられるのですか?」
「そこ?」
レオニスが思わず突っ込む。だがアデライドにとっては重大だった。王宮時代、何度起こしても昼近くまで寝ていた男なのだ。侍女たちが毎朝、扉の前で途方に暮れていた光景を思い出す。
「それは……」
アデライドは少し考え、やがて、とても穏やかに微笑んだ。
「素晴らしいことですね」
「あらぁ?」
バルガスが面白そうに彼女を見る。
「取り戻したくなった?」
その瞬間、レオニスの手に力が入った。硬い指先が、彼女の指をきつく包む。アデライドはそれに気づいた。だから、夫の手を握り返した。
「いいえ」
きっぱり答える。声には迷いのかけらもなかった。
「今さら必要ありません」
「あら」
「それに」
アデライドは隣を見る。夜会の灯りの中、少し不安げに、それでいて誠実にこちらを見つめる男がいた。自分の能力を初めて認めてくれた男。何ができる、と聞いてくれた。任せてくれた。成功すれば褒めてくれた。失敗しても責めず、一緒に原因を考えてくれた。そして、自分自身を愛してくれた。
アデライドは幸せそうに微笑んだ。
「私の夫は、最初から仕上がっておりますので」
沈黙。そして――
「まぁぁぁぁぁぁ!」
バルガスが両頬を押さえた。
「言うじゃなぁぁい!」
「アデライド……」
レオニスの耳が赤くなる。だが妻の手は離さなかった。
するとバルガスが、ちらりとレオニスを見る。
「でもぉ」
「……なんだ」
「アタシなら、もっといい感じに仕上げられるわよ♡」
「結構だ!」
即答だった。大広間に笑い声が響く。シャンデリアの光を受けて、アデライドの目元がやわらかく緩んでいた。
その夜、王国には新しい噂が流れた。
――東へ連れていかれれば、どうしようもないクズ男でも更生する。
それは以前からあった噂だった。
だが、その夜から、もう一つの噂が加わった。
――クズ男に捨てられた令嬢は、西へ行けば幸せになれる。
どうやら、こちらの噂の方が、はるかに早く王国中へ広まったらしい。
♢
翌春。西方辺境伯のもとには、また三人の令嬢がやってきた。城門の前には、若葉の香りを乗せた風が吹き抜けていた。
「元婚約者が東へ連れていかれまして」
執務机で書類を読んでいたレオニスは顔を上げる。窓辺には、蜂蜜の壺と薬草の束が並んでいる。三年前には想像もしなかった光景だった。
隣ではアデライドが楽しそうに笑っていた。
レオニスは、もう驚かなかった。
「分かった。それで――あなたたちは、何ができる?」
「私は灌漑設備について学んでおります」
「私はガラス工芸を」
「私は家畜の品種改良について少々」
「……また随分と優秀だな」
三人が顔を見合わせる。
「元婚約者を支えるために学びましたので」
「私もです」
「私も」
レオニスは何とも言えない顔になった。相変わらずである。東へ送られる男たちは、どういうわけか揃いも揃って、自分を支えるために努力していた優秀な婚約者を蔑ろにしている。そして男が東へ消えるたび、その元婚約者が西へやってくる。
彼女たちはここで仕事を得て、その能力を存分に発揮する。灌漑設備が整えられ、新しい工房が建ち、牧畜が盛んになり、商人が集まり、人が増える。
その年、西方辺境領の税収は、さらに二割増えた。騎士団の給与も上がった。宿舎も増築された。食堂には専属の菓子職人まで雇われた。
もはや王都の騎士団員の間でも、『西方は羨ましい』という声が聞かれるようになった。給料も、食事も、待遇も、王都の騎士団よりずっといい。誰もがそれを知っている。
――それでも、実際に転属を願い出る者は、一人も現れなかった。あの噂が、まだ誰の耳にもこびりついていたからだ。
「辺境伯様!」
ある日の午後、副団長が執務室へ駆け込んできた。
「今度はなんだ」
「入団希望者が来ました!」
「おお」
レオニスは珍しく顔を輝かせた。
「男か?」
「はい!」
「何人だ!」
「八人です!」
「八人!」
ついに。ようやく。長年悩まされ続けた人手不足が解消されるかもしれない。レオニスは立ち上がった。
「すぐ面接する!」
「それが……」
副団長が目を逸らした。嫌な予感がした。
「……なんだ」
「全員、東方辺境騎士団への入団希望者でした」
「どうやったら間違える!」
「それが……間違えたわけではないようなのです」
副団長は言いにくそうに言葉を選んだ。
「話を聞いたところ、あの噂――建国祭の夜に広まった、『東へ送られればクズ男でも更生する』という噂を、当人たちも耳にしたそうで」
「……それで?」
「一人はこう言っていました。『自分は婚約者を大事にできなかった自覚がある。だから鍛え直してもらいたい』と」
「……」
「もう一人は、『実家の期待に応えられず、情けない生き方をしてきた。変わりたい』と」
「……」
「皆、口を揃えて『ヘンタ……いえ、辺境騎士団に入って、一からやり直したい』と申しておりました」
「今、変態って言いかけなかったか!?」
「気のせいです」
「五百リーグ離れていると言っているだろう! なぜわざわざここまで来て東を志望する!」
「王都からは、こちらの西の方が近いのです。道を尋ねながら来るうちに、いつの間にか西へ着いてしまったと」
「……それは、間違えたと言うのではないのか」
「厳密には、行き先の意志ははっきりしていたが、道のりで間違えた、ということでしょうか」
「ややこしい!」
「ちなみに一人は『ここでクズ男を調教しているんですよね?』と」
「していない!」
怒声が城中に響き渡った。
アデライドが口元を押さえて笑う。
「笑い事ではない!」
「申し訳ありません。でも、レオニス様」
「なんだ」
「昔よりずっとよくなったではありませんか」
「どこがだ!」
「以前は怖がって誰も来なかったのでしょう?」
「……そうだ」
「今は間違えてでも八人も来てくださいました」
「東への入団希望者がな!」
「一歩前進です」
「前進なのか、これは!?」
アデライドは楽しそうに笑った。
西方辺境領には、今日も優秀な令嬢たちがやってくる。元婚約者のために身につけた知識を持って。
けれど今度は、誰かを支えるためではなく、自分自身の人生を築くために。
「なぜ、こうも優秀な者ばかり来るのだろうな」
ある日、レオニスは窓辺で書類の山を前に、ふと呟いた。
「簡単なことです」
帳簿から顔を上げて、アデライドが答える。
「優秀だからこそ、婚約者に軽んじられて捨てられるのですよ。凡庸な男は、自分より賢い女性が隣にいることに耐えられませんから」
「……なるほど」
「行き場のない優秀な令嬢が、噂を頼りに集まってくる場所が、他にどこにございますか?」
レオニスは何も言えなかった。
令嬢が一人増えるたび、新しい産業が生まれ、新しい仕事が生まれ、領地はますます豊かになっていった。
一方、西方辺境騎士団はというと。待遇は王国屈指。給料よし。食事よし。全室個室。薬草風呂あり。休暇制度まで整っているというのに。
――なぜかいまだに、『男を連れて行って調教する、ヘンタ……辺境騎士団』と間違われることがある。
「なぜだ……」
今日もレオニスは頭を抱える。
そんな夫の机に、アデライドが一通の手紙を置いた。
「東からです」
「……嫌な予感しかしない」
封を開く。
見覚えのある豪快な筆跡が躍っていた。
『そろそろ紹介料をいただいてもいいんじゃなぁい? こっちに駄目な男が来るたびに、そっちへ優秀な女の子が行ってるじゃなぁい♡』
レオニスは無言で立ち上がり、暖炉へ向かう。そして、手紙を炎の中へ放り込んだ。
パチリ、と紙の燃える音が響く。
「あら、返事はよろしいのですか?」
「必要ない」
「でも、書いてあることは間違っていませんわ」
「アデライド」
「はい?」
「それだけは絶対に認めない」
きっぱりと言い切る夫を見て、アデライドは、とうとう堪えきれなくなって笑い出した。
窓の外では、夕陽が城下町を橙色に染めている。灯りが一つ、また一つと灯っていく。誰かの新しい人生が、今日もこの領地のどこかで始まっている。
西では今日も、優秀な令嬢が一人、新しい人生を始める。
東では今日も、クズ男が一人、薪を割る。
そして王国のどこかで、今日もまた――。
「ヘンタ……辺境騎士団って、男を捕まえて調教するところだろ?」
――そんな声に応えるかのように。
「それは東だ!」
遠く離れた西方辺境伯の執務室では、相変わらずレオニスの怒声が響いていた。
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