悪役令嬢が送られるのは南です! ~風評被害を受けた北の修道院には、なぜか行き場をなくした優秀な女性ばかり集まってきます~
やらかした悪役令嬢は修道院に送られがち。
――受け入れる方も大変。
※『クズ男が連れていかれるのは東です!』と同じコンセプトのシリーズ作品です。舞台は別の国なので、こちらからでもお楽しみいただけます。
とある王国には、二つの大きな女子修道院がある。
一つは北。冷たい風が吹き渡る痩せた大地に建つ、北方聖アウレリア修道院。
もう一つは南。陽光に恵まれた豊かな平野に建つ、南方聖ロザリンド修道院。
両者はあまりに遠い。王国は南北に長く、馬車を乗り継いでも一月半近くかかる距離を隔てている。北は作物を育てるには決して恵まれた土地ではないが、緩やかに連なる丘と、その合間に点在する湖が織りなす景色は美しかった。一方、南では暖かな陽射しのもとで麦が黄金色に実り、なだらかな斜面には葡萄の葉が青々と連なっている。同じ王国にありながら、気候も、土地の豊かさも、そこで営まれる暮らしも、まるで別の国のように違っていた。
それでも、本来なら、どちらも長い歴史を持つ由緒正しい女子修道院として、等しく敬われるべき存在だった。
――少なくとも、三年前までは。
「院長様! また入会希望者が辞退しました!」
院長室の扉が勢いよく開いた。冷たい風が廊下から吹き込み、机の上に積まれた書類の端をぱらぱらと揺らす。
一人の修道女が、息を切らして駆け込んでくる。その顔には焦りよりも、もはや隠しきれない疲労と諦めが浮かんでいた。
「……今度は何人です?」
「六人全員です!」
「……理由は?」
「やはり、あれです」
「言ってください」
「『悪役令嬢ばかり集められている修道院では、何をされるか分からなくて怖い』と」
「…………」
北方聖アウレリア修道院長、マザー・セシリアは目を閉じた。
三十五歳。淡い栗色の髪を白い頭巾の中に収めた、小柄で穏やかな女性である。修道院長という立場ではあるものの、威厳より親しみやすさの方が勝っている。孤児たちからもよく懐かれ、何かあれば真っ先にセシリアのもとへ駆け込んでくるほどだった。
「それは南です!」
普段滅多に荒げない声が、院長室の壁を震わせた。
「こちらは北です!」
「は、はい!」
「王国の反対側です!」
「存じております!」
「どうして間違えるのです!」
「王都の方々にとっては、どちらも『遠くの女子修道院』なので……」
「一月半かかります!」
「はい」
「地図を見てください!」
「私に言われましても!」
マザー・セシリアは頭を抱えた。机の上には、支払いの目処が立たない請求書が積み上がっている。
すべての元凶は、三年前に南方聖ロザリンド修道院が一人の公爵令嬢を預かったことだった。
公爵令嬢ヴィクトリア・ハーグレイヴ。艶のある赤褐色の髪に、深い緑の瞳を持つ、美しく聡明な令嬢だった。
ヴィクトリアは、名門公爵家の嫡男と婚約していた。ところが婚約者は、学園で知り合った男爵令嬢に心を奪われた。そして卒業を祝う夜会の席で、ヴィクトリアを「彼女を虐げた悪女」と断じ、その場で婚約破棄を宣言したのである。
『お前は彼女を虐げた!』
『そのような事実はございません』
『黙れ! 証言者は何人もいる!』
確かに証言者はいた。だが、その多くは男爵令嬢と親しい者か、「そう聞いた」「そう見えた」と曖昧なことを口にする者ばかりで、ヴィクトリアが彼女を虐げたと裏付ける確かな証拠は何一つなかった。
それでも、大勢の前で騒ぎになった以上、両家とも体面を守らなければならない。婚約は解消され、しばらく王都を離れた方がよいという話になり、ヴィクトリアは遠く南の修道院へ預けられることになった。
実家の公爵家が娘を見捨てたわけではない。むしろ両親も兄たちも最後まで婚約破棄に憤っていたという。だからこそ、ヴィクトリアが不自由なく暮らせるよう、南方聖ロザリンド修道院には十分すぎるほどの寄付金が添えられた。
そして、なぜ南方聖ロザリンド修道院が選ばれたのか。
理由は単純だった。
当時、すでに院長を務めていた女性が、
『よこせ』
と言ったからである。
南方聖ロザリンド修道院長、マザー・マルグリット。
女性としてはかなりの長身。肩幅も広く、農作業で鍛えられた腕は逞しい。穀物袋を両肩に一つずつ担いで倉庫へ運ぶ姿など、並の男たちよりよほど頼もしく見えるほどだった。
顔立ちは整っている。若い頃は王都で名の知れた伯爵令嬢だった、という噂もある。
もっとも、本人に聞けば、
『昔の話なんざどうでもいいだろうが』
と一蹴される。
そして、言葉遣いが非常に独特だった。
南方修道院へ向かう道中、ヴィクトリアは何度も涙を流していた。婚約を失い、王都を離れ、これからどうなるのかも分からない。長い旅のあいだに少しは落ち着いたつもりでも、修道院へ着き、馬車を降りた途端、張りつめていたものがまた崩れた。
『わ、私は……何もしておりませんのに……』
『あぁん?』
『……っ』
『今なんつった』
『ですから、私は……』
『やってねぇんだな?』
『……はい』
『じゃあ胸張れや!』
ヴィクトリアは、思わず泣くのを止めた。
『え……?』
『百人がテメェを悪女だっつったら、テメェまで自分を悪女だと思うのか?』
『……』
『テメェまでテメェを捨てんじゃねぇ!』
ヴィクトリアの目から、また涙が零れた。
『泣くなとは言わねぇ。腹減ってんだろ』
『……はい』
『飯だ』
『え?』
『泣くのも怒るのも反省すんのも、腹いっぱいになってからにしろ!』
その日。婚約破棄されて以来、まともに食事を取っていなかったヴィクトリアは、南方修道院の食堂でシチューを三杯食べたという。
それだけなら、美談で終わった。
ところが翌年、別の侯爵令嬢が送られてきた。
婚約者から、
『お前は妹を虐げた』
と言われたからだった。
その翌年は伯爵令嬢。婚約者を平民の娘に奪われた。
さらに子爵令嬢。男爵令嬢。騎士爵令嬢。
いつしか、
――悪役令嬢とされた貴族令嬢は、南方聖ロザリンド修道院へ。
という妙な慣習が生まれてしまった。
婚約破棄された。家族と揉めた。聖女に嫌われた。高位貴族の不興を買った。
理由は様々だが、貴族家にとっては、王都から遠く離れた南へ娘を預けてしまえば、とりあえず騒ぎは収まる。
そして娘を預ける実家は、必ずと言っていいほど多額の寄付を添えた。
公爵家から金貨五百枚。侯爵家から葡萄園。伯爵家から小麦畑。子爵家から牧場。男爵家から診療所建設費。騎士爵家から荷馬車二台分の薪。
その結果。南方聖ロザリンド修道院は、とんでもないことになった。
「マザー! 今年の葡萄酒ができました!」
「出来は?」
「過去最高です!」
「なら樽詰め急げ! 王都の商人どもが来る前に値ぇ決めとけ!」
「はい!」
「マザー! 今度はロゼッタ様のご実家から寄付です!」
「いらねぇっつってんだろ!」
「金貨二百枚です!」
「……仕方ねぇ。もらっとけ!」
「はい!」
「孤児院の屋根直せ!」
「もう直しました!」
「学校の机!」
「新調しました!」
「井戸!」
「新しく掘りました!」
「……」
「マザー?」
「ガキどもに肉食わせろ!」
「昨日も食べました!」
「毎日食わせろ!」
「はい!」
南方修道院には、葡萄園、小麦畑、薬草園、養蜂場、織物工房、診療所、孤児院、学校まで揃った。
しかも、送られてくる令嬢たちは皆、優秀だった。
領地経営。会計。語学。薬学。刺繍。音楽。外交。
貴族令嬢として、いつか婚家を支えるために学び続けてきた女性たちである。
その能力を眠らせておくようなマルグリットではなかった。
『会計ができる? じゃあ帳簿見ろ!』
『法律に詳しい? 契約書ひっくり返せ!』
『外国語? 商人と話してこい!』
『音楽ができる? ガキどもに教えろ!』
その始まりが、ヴィクトリアだった。修道院へ来てしばらくすると、財務と交易を任されるようになり、その働きぶりが、後に続く令嬢たちの先例となった。
「マザー」
ある日の午後、ヴィクトリアが帳簿を抱えてマルグリットのもとへやってきた。
「南部の小麦ですが、今年はかなりの豊作です」
「おう」
「このまますべて王都へ出荷すれば値崩れを起こします」
「じゃあどうすんだ」
「一部を小麦粉にして保存します。それから、残りは北へ回すのがよろしいかと」
「……北?」
マルグリットの眉が動いた。
「はい。北方では今年、麦の収穫があまりよくないそうです」
「北っつーと、聖アウレリアか」
「ええ」
「…………」
「どうされました?」
「いや」
マルグリットは腕を組んだ。
「なんか、あそこ最近ヤベェって聞いたぞ」
「悪役令嬢が集まっているという噂のことでしょうか」
「ああ、それだ」
眉間に深い皺が寄った。
「それウチだろ」
「はい」
「なんで北まで巻き込まれてんだよ」
「世間の認識など、その程度なのでは」
「ふざけやがって」
マルグリットは吐き捨てた。
問題は、南方修道院が栄える一方で、その噂だけが妙な形で王国中へ広まっていたことだった。
――悪役令嬢は南の修道院へ送られる。
それがいつしか、
――悪役令嬢は修道院へ送られる。
となり、さらに、
――女子修道院には恐ろしい悪女たちが山ほどいる。
へと変化した。
南か北か。そんな細かいところまで、王都の人間はいちいち覚えていなかった。
そのあおりをまともに受けたのが、北方聖アウレリア修道院だった。もともと豊かな修道院ではない。石の多い痩せた土地では麦の収穫量も少なく、昔から寄付によって孤児院や診療所を維持してきた。
ところが、その寄付まで、
『悪役令嬢たちを養うために使われるのなら……』
という意味不明な理由で次々と打ち切られてしまったのである。
「我々は何もしていないのに……」
北方聖アウレリア修道院では、セシリアが今日も頭を抱えていた。
「院長様」
「何でしょう」
「厨房から報告です」
「はい」
「小麦が今週いっぱいで尽きます」
「…………」
「豆もです」
「…………」
「塩も」
「塩まで!?」
北方聖アウレリア修道院は極貧だった。
修道女志望者が来ない。巡礼客も減った。寄付もない。屋根は雨漏りし、修道服は何度も繕われ、食卓に並ぶスープは日に日に薄くなっていた。
「ここには悪役令嬢など一人もいません!」
「存じております」
「なぜ南ではなく我々の寄付が減るのです!」
「王都から見れば、どちらも女子修道院ですので」
「だから地図を!」
そのとき、ぎぃ、と乾いた音を立てて扉が開いた。
「……マザー」
修道院で預かっている小さな孤児が顔を覗かせる。
「今日のスープ……お豆、一つしか入ってなかった」
「…………」
セシリアは立ち上がった。
「市場へ行きます」
「院長様?」
「私の冬用外套を売ります」
「院長様!」
「外套より子供のスープです!」
「ですが冬は雪が!」
「修道服を三枚重ねます!」
一方、その頃。
遠く南で事情を聞いたマルグリットは、しばらく黙り込んだあと、ヴィクトリアへ言った。
「……よし」
「はい?」
「小麦、北へ送れ」
「……売るのではなく?」
「くれてやるっつってんだ」
「……寄付ですか?」
「余ってんだろ」
「お優しいですね」
「うるせぇ。腐らせるくらいなら食わせろ」
ヴィクトリアの口元がわずかにほころんだ。
「承知いたしました」
「笑うな」
「笑っておりません」
「笑ってんだろ」
結局、送ることになったのは小麦だけではなかった。
「豆も余ってんな」
「はい」
「積め」
「干し肉も余裕があります」
「積め」
「蜂蜜は?」
「今年は豊作です」
「積め」
「冬用の毛布も何十枚か」
「北は寒ぃんだろ。全部持ってけ」
「薬草から作った薬も」
「持ってけ」
「薪は?」
「積めるだけ積め!」
こうして一週間後。
「院長様ぁぁぁ!」
北方聖アウレリア修道院の院長室へ、修道女が血相を変えて駆け込んできた。
「なんですか!」
「馬車です!」
「借金取りですか!?」
「違います!」
「では寄付を打ち切るという使者ですか!?」
「違います!」
「では何です!」
「食料です!」
「…………はい?」
セシリアは椅子から立ち上がった。
修道院の門前には、荷馬車が十二台も並んでいた。
小麦。豆。干し肉。蜂蜜。毛布。薬。薪。
「……これは」
呆然とするセシリアへ、御者が一通の手紙を差し出した。
「南方聖ロザリンド修道院からです」
「南!?」
セシリアは恐る恐る封を切った。
中には、筆圧の強い豪快な文字が並んでいた。
『余った。食え。礼はいらねぇ。次会ったとき礼なんか言ったらシメる。 マルグリット』
「…………」
セシリアの目から、ぽろりと涙が零れた。
「なんとお優しい……」
「院長様」
「はい」
「最後の一文、脅迫では?」
「照れ隠しです」
「そうでしょうか」
その冬、北方聖アウレリア修道院では、久しぶりに孤児たち全員が腹いっぱい食べることができた。
湯気の立つスープを夢中で頬張る子供たち。パンをもう一つ取ってもよいのかと、恐る恐る尋ねる小さな声。新しい毛布にくるまり、暖かな寝床ではしゃぐ姿。
少し前まで青白かった頬に赤みが戻っていくのを見ながら、セシリアは何度も目頭を押さえた。
♢
奇妙なことが起き始めたのは、その翌年の春だった。
「マザー・セシリア。お願いがございます」
北方修道院の門を、一人の女性が叩いた。粗末な外套を着ているものの、立ち居振る舞いには長年貴族家に仕えていた者特有の品がある。
名をアンナ。王都の公爵家で、侍女をしていた女性だった。
「こちらで働かせていただけないでしょうか」
「……働く?」
「はい」
セシリアは戸惑った。
「どうして北へ?」
アンナは俯いた。
「お仕えしていたお嬢様が、南へ送られました」
「……南へ?」
「悪役令嬢として」
アンナは唇を噛んだ。
「お嬢様は何もしておりません。それでも婚約者だった公爵家のご令息が、男爵令嬢を虐げたと……。お嬢様が南へ送られたあと、私どもお嬢様付きの使用人も、多くが暇を出されました」
「あなたまで?」
「はい。お嬢様がお屋敷を離れられましたので、『これまでと同じ人数を置いてはおけない』と」
セシリアは何とも言えない顔になった。
「南へ行こうとは?」
「行きました」
アンナは少しだけ笑った。
「ですが、お嬢様に言われました。『あなたまで私についてくる必要はありません』と」
「……」
「それから、南のマザーにも」
「マザー・マルグリットに?」
「はい」
アンナは遠い目をした。
『あぁ? テメェまでここに残るだぁ?』
『お嬢様のおそばに』
『アホか!』
『……』
『テメェの主人はもう自分の足で立ってんだよ! テメェも自分の人生歩け!』
「……言いそうですね」
「はい」
あの豪快なマザーなら、確かにそう言うだろうと思えた。
「それで、なぜこちらへ?」
「南の方から聞きました。北は人手が足りないと」
セシリアは沈黙した。
確かに足りない。
何もかも足りない。
「何ができますか?」
その問いに、アンナは一瞬驚いたように瞬きをした。
「裁縫は得意です」
「裁縫?」
「お嬢様のお召し物の手入れや繕い物は、長く私が担当しておりました」
その日の午後、セシリアは試しに、孤児の一人が着ていた服をアンナに渡した。袖口は擦り切れ、膝には何度も繕った跡がある。
「……これを?」
「直せそうでしょうか」
アンナは服を広げ、傷んだ箇所を確かめた。
「ええ。これくらいでしたら」
翌朝。
「マザー! 見て!」
昨日まで膝の破れていた服を着た子供が、嬉しそうにセシリアの前でくるりと回った。
「まあ……」
破れていた箇所には丁寧に当て布がされ、擦り切れていた袖口もきれいに直されている。しかも、ただ繕っただけではない。小さな花の刺繍まで添えられていた。
「かわいいでしょう?」
「とっても!」
子供は満面の笑みだった。
「少し手を入れただけです」
そう言って微笑むアンナの前には、いつの間にか自分の服を抱えた子供たちが列を作っていた。
アンナはそのまま、北方修道院の衣類の管理と子供服の修繕を任されることになった。
ところが、それで終わらなかった。
翌月。また一人やってきた。
「お仕えしていた侯爵令嬢が南へ」
「……またですか」
「暇を出されました」
「何ができます?」
「読み書きと算術を教えられます」
彼女は家庭教師だった。孤児院に小さな教室ができた。
その翌月。
「お嬢様が南へ」
「何ができます?」
「パン作りを」
固く焼くだけだったパンは、発酵の取り方や焼き方が見直され、少ない小麦でも以前よりふっくらと仕上がるようになった。
翌々月。
「お嬢様が南へ」
「何ができます?」
「陶器作りを少々」
「少々?」
「ご領地の窯場の管理を十年以上任されておりました」
「少々ではありません」
ほどなくして、北方修道院に小さな窯が造られた。食器や保存壺を自分たちで作れるようになり、余った品は近隣の町へ売られるようになった。
その次。
「お嬢様が」
「南ですね?」
「はい」
「何ができます?」
「乳製品の加工です」
牛乳からバターやチーズを作れるようになり、余った乳を無駄にすることがなくなった。保存も利くようになり、冬場の貴重な食料にもなった。
さらに来た。料理。洗濯。農業。簿記。子守。看護。製紙。石鹸作り。家畜の世話。帳場仕事。
なぜか皆、働き者だった。
理由は単純だった。南へ送られる令嬢は、一人で生きていたわけではない。侍女、家庭教師、乳母、衣装係、厨房係、帳簿係――その暮らしを支えるため、多くの女性がそれぞれの仕事を担っていた。
彼女たちは長年、主人である令嬢を支えるために働いてきた。
ところが令嬢が修道院へ送られると、その令嬢付きだった使用人たちの中から、暇を出される者も出た。令嬢が戻る予定がない以上、それまでと同じ人数を屋敷に置いておく必要がなくなるからだ。
南方聖ロザリンド修道院には、すでに多くの令嬢がいた。
そして、北方聖アウレリア修道院が深刻な人手不足であることを、南の者たちは知っていた。なにしろ、小麦を十二台もの荷馬車で送りつけた仲である。
だから、マルグリットは職を失って南へやってきた女性を見るたびに言うようになった。
『北へ行け』
北方聖アウレリア修道院は人手不足らしい。そこでなら働ける。もちろん行くかどうかは本人次第だ。
だが南へ令嬢が一人送られるたび、その周囲で職を失った女性が一人、二人と北へ向かうようになった。
三年後。
「院長様」
「はい」
「今年の収支です」
「…………」
セシリアは帳簿を見た。
「黒字……?」
「はい」
「北方修道院が?」
「はい」
「本当に?」
「三回確認しました」
セシリアの手が震えた。
「黒字です……」
「黒字です」
「豆の数を数えなくても?」
「はい」
「スープに三つ入れても?」
「もっと入れてください」
「五つ!」
「もっとです」
「十!」
「好きなだけ入れてください!」
セシリアは泣いた。修道女たちも、涙をこぼしながら笑った。孤児たちは何が起きたのかよく分からないまま、その様子につられて笑い、やがて何人かは一緒になって泣いた。
南方聖ロザリンド修道院ほど裕福ではない。
葡萄園もない。金貨五百枚の寄付もない。
けれど、誰も空腹で眠らなくてよくなった。冬には全員分の毛布がある。子供たちは文字を習える。病気になれば薬もある。
それだけで、北の人々には十分すぎるほどだった。
そして一方、南方聖ロザリンド修道院も、ヴィクトリアをはじめとする令嬢たちの働きでますます発展していた。
「マザー」
「あぁん?」
「塩の仕入れ値が高すぎます」
「……は?」
「商会が相場の一・六倍を請求しています」
「なんだと?」
「さらに油の仕入れにも不自然な上乗せがあります」
「……」
「契約を見直します」
「やれ」
三か月後。南方修道院の年間支出が一割以上減った。
半年後。ヴィクトリアは交易にも手を入れた。
一年後。南方修道院の収益はさらに増えた。
「……テメェ、本当に悪役令嬢か?」
「そのように言われました」
「元婚約者、バカなんじゃねぇのか」
「否定はいたしません」
意見が一致した。
♢
さらに一年後。王宮で聖教会創立三百年記念式典が開かれた。
北方聖アウレリア修道院と南方聖ロザリンド修道院の院長も、ともに招待された。
「……怖いです」
王宮の控え室で、セシリアは小さく呟いた。
「何がです?」
隣にいるアンナが尋ねる。
「マザー・マルグリットです」
「どうして?」
「三年前の手紙に、『礼なんか言ったらシメる』と」
「まだ覚えていらっしゃるのですか」
「当然です!」
荷馬車十二台分もの食料を送ってもらった。毛布も薬も薪ももらった。
そのおかげで、あの冬を越せた。感謝してもしきれない。
しかし同時に、
『礼なんか言ったらシメる』
とも書いてあった。
会ったら礼を言うべきなのか。言わない方がいいのか。
セシリアは王都へ向かう馬車の中でずっと悩んでいた。
そのときだった。
「おい」
低い声が響いた。
セシリアの肩が跳ねた。ゆっくり振り返る。
大柄な女性が立っていた。黒い修道服。白い頭巾。腕を組み、眉間には深い皺。
「ひっ」
「あぁん?久しぶりじゃねぇか。北のマザー」
「ご、ご無沙汰しております、マザー・マルグリット」
「相変わらずビビってんな」
「び、びびってなど……」
「顔に出てんぞ」
「こ、このたびは」
「あぁ?」
「……」
言ったらシメられる。
セシリアは口を閉じた。
「なんだよ」
「いえ、その……」
「言えよ」
「でも」
「なんだ!」
「お礼を申し上げたらシメると!」
「三年前の手紙まだ覚えてんのかよ!」
「覚えています!」
「クソ真面目か!」
マルグリットは頭を掻いた。
「……北、持ち直したらしいじゃねぇか」
「はい」
「よかったな」
「……ありがとうございます」
「あぁ?」
「ひっ」
「……まあいい」
シメられなかった。
その日の式典には、王家をはじめ多くの貴族が集まっていた。
そして。
「ヴィクトリア……?」
一人の青年が、信じられないものを見るように立ち尽くした。ヴィクトリアの元婚約者だった公爵家嫡男である。
彼の前にいるヴィクトリアは、南方聖ロザリンド修道院の修道服をまとっていた。飾り気のない質素な装いだったが、それでも目を奪われるほど美しかった。
艶のある赤褐色の髪はきちんとまとめられ、深い緑の瞳には、かつて彼の顔色を窺っていた頃にはなかった静かな自信が宿っている。背筋はまっすぐに伸び、その立ち姿には、華やかな宝石やドレスなどなくとも人目を引く気品があった。
青年は、しばらく言葉を失った。
こんなにも美しい女性だっただろうか。いや、違う。美しかったのだ。最初から。ただ、自分がそれを当たり前のものとして扱い、見ようともしなかっただけだった。
婚約していた頃、彼女はいつも自分の隣にいた。聡明で、礼儀正しく、どこへ連れていっても恥ずかしくない令嬢だった。それを自分は、一時の熱に浮かされて手放した。
今さら、その事実が胸の奥へ重く落ちた。
ヴィクトリアと視線が重なる。青年は、耐えきれずに目を逸らした。
それでも、何か言わずにはいられなかった。
彼女の瞳には、未練も、恨みもなかった。それがかえって苦しかった。
「なぜ君がここに……」
「式典に招かれましたので」
「君は修道院へ送られたはずだ」
「ええ」
「それなのに……なぜ、こんなふうに人前に出ている?」
マルグリットの眉がぴくりと動いた。
「あぁん?」
元婚約者がびくりと肩を揺らした。
「マザー」
ヴィクトリアが静かに制する。
「私がお話しいたします」
「……チッ」
ヴィクトリアは、改めて元婚約者へ向き直った。
「私が修道院で泣き暮らしているとでも思っていらしたのですか?」
「……」
「私は、修道院へ捨てられたのだと思っておりました」
「……」
「すべてを失ったのだと」
婚家を支えるために学んできた。領地経営。財政。法律。語学。礼儀。社交。商取引。
何年もかけて身につけたものすべてが、あの一夜で無意味になったのだと思った。
「ですが、違いました」
ヴィクトリアはゆっくりと振り返る。
そこにはマルグリットがいた。
そして、ともに働き、ともに笑い、ときに悩みながら歩んできた女性たちがいた。
「私は、修道院へ捨てられたのではありません」
ヴィクトリアは穏やかに笑った。
「そこで、人生を拾っていただいたのです」
その笑顔に、青年は再び息を呑んだ。
かつて自分に向けられていた笑顔よりも、ずっと穏やかで、ずっと美しい。そしてもう、その笑顔が自分に向けられることはない。
そのことを、彼はようやく理解した。
マルグリットが鼻を鳴らした。
「拾ってねぇよ」
「マザー?」
「テメェで立ったんだろ」
「……」
「アタシはケツ蹴っ飛ばしただけだ」
ヴィクトリアは一瞬目を見開き、それから、ふっと笑った。
「では、そういうことにしておきます」
「そういうことだ」
少し離れた場所で、セシリアもその光景を見ていた。
ヴィクトリアの穏やかな笑顔を見つめながら、胸の奥がじんわりと温かくなる。
悪役令嬢として南へ送られた女性たちは、そこで人生を終えるのではない。居場所を与えられ、自分の力でもう一度立ち上がっている。
そして、その女性たちのそばにいた者たちが、今度は北へやってきて、新しい人生を始めている。
南と北。
遠く離れた二つの修道院が、こんな形でつながっていることを思うと、不思議な気持ちになった。
すると。
「あの」
一人の伯爵夫人が近づいてきた。
「マザー・セシリアでいらっしゃいますか?」
「はい」
「北方聖アウレリア修道院の?」
「はい」
そこで、セシリアの胸に嫌な予感がよぎった。
この確認のされ方には、覚えがある。
「悪役令嬢を集めていらっしゃるという」
「それは南です!」
思った以上に大きな声が出た。
大広間に響き渡った自分の声に、セシリア自身が一瞬固まる。
「おい!」
案の定、マルグリットが振り返った。
「はい!?」
「なんでそこでウチを出すんだよ!」
「だって実際に悪役令嬢と呼ばれた方々を受け入れているのは南でしょう!」
「そりゃそうだが!」
「そのせいで、こちらがどれだけ迷惑したと!」
「知らねぇよ!」
「寄付金が半分以下になったのですよ!」
「なんでだよ!」
「あなた方と間違われたからです!」
「アタシに言うな!」
「地図を見てください!」
「だからアタシに言うなっつってんだろ!」
大広間が静まり返った。
一拍置いて、誰かが吹き出した。
それをきっかけに、あちらこちらから笑い声が上がる。
セシリアは顔を赤くし、マルグリットは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「ったく。だったら北も、間違えられねぇくらい有名になれ」
「え?」
「南は悪役令嬢」
「その呼び方はいかがなものかと思いますが」
「うるせぇ。北は?」
セシリアは言葉に詰まった。
そして、北へやってきた女性たちの顔を一人ずつ思い浮かべた。
アンナをはじめ、令嬢付きだった侍女、家庭教師、料理を得意とする者、陶器作りに通じた者、乳製品の加工に長けた者――。
貴族ではない。多額の寄付金を携えてきたわけでもない。
けれど、誰もが自分の手で培ってきたものを持っていた。
そして何より、もう一度、自分の人生を歩こうとしていた。
「北は……」
セシリアは、ゆっくりと微笑んだ。
「行き場をなくした女性が、新しい居場所を見つけるところです」
マルグリットが一瞬目を細める。
「いいじゃねぇか」
そう言って、にっと笑った。
セシリアも笑った。
♢
――ところが。
それでも風評被害はなくならなかった。
半年後。
「院長様!」
北方修道院の院長室へ、修道女が駆け込んできた。
「今度は何です?」
「入会希望者です!」
「まあ! 何人です?」
「十二人です!」
「十二人も!?」
北へ働きに来る女性は増えた。けれど、風評被害が始まって以来、普通の信者や巡礼者はめっきり減り、修道院を訪れる者そのものがほとんどいなくなっていた。
それが、十二人。
ついに。ようやく。
「すぐにお会いしましょう!」
応接室には、十二人の若い女性が並んでいた。
「皆様、北方聖アウレリア修道院へようこそ」
一人の令嬢が立ち上がった。
「マザー! 私、根性を叩き直していただきたくて参りました!」
「……はい?」
「婚約者に依存する自分を変えたいのです!」
「私もです!」
「私も南のマザーに『テメェの人生だろうが!』と怒鳴っていただきたく!」
「…………」
セシリアは目を閉じた。
「皆様」
「はい!」
「ここは北です」
「え?」
「マザー・マルグリットがいるのは――」
大きく息を吸う。
「南です!」
「えええええ!?」
「間違えた!」
「一月以上かけて来たのに!」
「どうしましょう!」
セシリアは頭を抱えた。
またか。
またなのか。
そのとき。
「では」
一人の女性が手を上げた。
「私は、ここに残ります」
「え?」
「花や香草を育てることができます」
「……」
「南でも北でも構いません。ここで誰かの役に立てるなら」
別の女性も手を上げた。
「私も」
「私はお菓子作りを」
「私は木工を少し」
「私は麦酒作りを」
「私は革細工なら」
気づけば、十二人のうち七人が残ると言っていた。
「よろしいのですか?」
「はい」
「南のように裕福ではありませんよ」
「構いません」
「冬は寒いです」
「知っています」
「豪華な食事もありません」
「聞いております」
「私はマザー・マルグリットのように怖くありません」
「それは少し残念です」
「残念なのですか!?」
笑い声が上がった。
北では今日も、行き場をなくした女性が一人、新しい居場所を見つける。
南では今日も、悪役令嬢と呼ばれた女性が一人、新しい人生を始める。
そして南方聖ロザリンド修道院では。
「マザー! また令嬢が送られてきました!」
「あぁん?」
「婚約者の愛人を虐めたと言われているそうです!」
「本人はなんつってる!」
「やっていないと!」
「飯食わせろ!」
「はい!」
「風呂も!」
「はい!」
「話はそのあとだ!」
マルグリットは大股で玄関へ向かった。
そこには泣き腫らした目をした少女が立っている。
「おい!」
少女がびくりと震えた。
「テメェが今日からウチの子か」
「……え?」
「腹減ってんだろ」
「……はい」
「まず飯だ」
マルグリットは踵を返す。
「泣くのも反省すんのも喧嘩すんのも、腹いっぱいになってからにしろ!」
少女は呆然とその背中を見つめ、やがて、おそるおそる後を追った。
――王国のどこかでは、今日もまた。
「悪役令嬢を集めてる修道院って、北だっけ?」
「いや、南じゃなかったか?」
「どっちでも同じだろ。修道院なんだから」
そんな声に応えるように。
「それは南です!」
遠く離れた北方聖アウレリア修道院では、今日もまた、マザー・セシリアの悲鳴にも似た声が響いていた。
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