第七十三話 禊と憧憬
「……昼間の会議で、公害症の診断基準の話があっただろう?」
ミリトは机上端末の画面から目を離さずに言った。恐らくはそこに、本日の議事録があるのだろう。
「ああ……診断基準が変更された影響で、認定者が急増しているとかの……」
「そうだ。シラを切ってはいたが、その公害症の診断を行っている組織、『救世隊』の実質の責任者はグリド教主だ」
「……なぜ、彼は質問に答えなかったんだ?」
「こちらが裏まで掴んでいないと思ったんだろうな……表向きの管理責任者である院長を盾にしてだんまりを決め込んだ。あの場をやり過ごせば、後はどうにでもなると思っているのだろう」
「それが分かっていながら……追及はしないのか?」
「したところでまた教義に逃げこまれるだけさ。それに……元をたどれば月企業連合の採掘事業が原因で起こった災害だからな」
「いくら月側に負い目があるからと言って……何もしなければこの星はこのまま、人々は苦しみ続ける。君たちはそれでいいのか……?」
「見損なってくれるな、ディランよ……我々だってこの状況を変えなくてはならないことは分かっている。だが、大きな問題が二つ。公害の発生源の封鎖、そして治療法の開発。これが非常に困難なんだ」
「発生源の封鎖は……月の技術もってしても難しいのか?」
「技術は進歩している。だが、公害の発生源であるアクオーネはこの星の聖地とされていてな。月側の技術介入はことごとく拒絶された」
「バカな……」
「だからこそ困難なんだ。実はな、災害発生当初、月側による封鎖作業は試みられたがことごとく失敗したらしい。その歴史も持ち出して反対してくる」
「……それなら、治療法だ。私が手に入れた治療法、これに投資してほしい」
「まあ待てディラン……治療の研究も全く行われてこなかったわけではない。これまで何度も失敗が繰り返された。彼らが『かりそめの希望』という言葉を使うのにも理由はある」
「失敗……」
ディランの喉から漏れた声は、相手に届かぬほど弱々しかった。
室内が静まり返る。
現実がゆっくりと、しかし容赦なく胸を抉っていく。
母が残した治療理論は完璧だった――少なくともディランにはそう思えた。数式も、薬理モデルも、病変組織への作用機序も、一片の破綻すら見いだせなかった。
だが、実際に救われた患者は、一人として確認されていない。
教団は母の研究を隠したのではない。握り潰したのでもない。
試したが、失敗した……そんな考えが、冷たい刃のようにディランの胸を貫いた。
「……とはいえ、ディラン。優秀な君が推薦する治療法だ。これまでの物より期待できる。その治療法もこちらに共有してくれないか? 我々も医師を連れてきている。彼らに見てもらえば、新たな知見が得られるかもしれん」
「……済まない。今、手元にないんだ」
そう答え、ディランは手元へと視線を落とし続ける。
「実はシプタに預けている」
「何? ……大丈夫なのか? 教団側の人間なんだぞ?」
「その点は心配ない。彼女は信用できる」
「いや、そんなものを渡せば彼女の立場が危うくなるのでは?」
「……確かに」と、それだけ言ってディランは口を閉ざした。
シプタが書庫で見せた表情を思い出す。
教団に忠実であろうとする彼女に、危険性も説明せず資料を押し付けてしまった。
「……うまくやってくれると思うが、グリドに知られては厄介かもしれないな……いや、そんなことより、あの治療法が有効でないものであったらと思うと……非常に申し訳ないことをしてしまったな……」
「グリド、か……」
「……君はなぜ、グリドがシプタ・ロジインに固執すると考えている?」
「さぁ……分からないな。彼に関しては分からないことだらけだ」
ミリトは少し苦い顔をして、ゆっくり口を開いた。
「ふむ……どうやら以前、他星系を遊説していた頃に莫大な借金を抱えたらしい。債権者から、この政府にまで差し押さえの照会が来るほどだ」
「……何だって?」
ディランの眉がひそめられる。ミリトもまた呆れたように息を吐いた。
「……奴が実権を握ってから、この星の教団はいよいよ黒いうわさが絶えない。次期教皇として失墜した権威を取り戻し求心力を得るために、『星の希望』と言われるシプタ・ロジインと婚姻を図っている。そんなところか」
「すると彼は……個人的な欲望のために、この星そのものを犠牲に……シプタが一体どんな想いで、留学までして医術を学んだと……!」
ディランの肩が、わずかに上がった。
それを制するように「落ち着け、ディラン」と、ミリトの声が割って入る。
「……落ち着いているさ。ただ、それが真実なら余りにも外道だと思ってな」
「君がそこまで言うのは珍しいな……だが、教団を下手に追求すれば奴らは軍すら動かすかもしれない。そうなれば我々も危ない。せめて、第四師団本隊が到着するまでは耐えてくれ……」
「耐える……か」
ミリトが気付く――ディランの目つきが変わった、と。
学園時代、無数の議論を終わらせてきたときのそれ。真実へ向かうときの、冷たい眼差し。
「それでミリト、教団に支払われているという補償額の資料はあるか?」
「……え? ああ。もちろん。え、ああ。ちょっと待て」
ミリトはその資料を取り出しかけ、ふと動きを止めた。
その瞬間、ミリトはディランが何と戦おうとしているのか、その輪郭の大きさを感じ取った。
義憤などという小さな動機ではない。なにか、宿命と立ち向かうような、そんな覚悟を表情ににじませている――
「これだ……この資料にアクエッタ人に対する保障額が書いてある」
「これか。ちなみに、補償金の使途については?」
「いや、月側はあくまでも患者数に応じて額を決めているだけだ。本人たちに渡っている。少なくとも、そう報告を受けている」
「……そうか」とだけ答え、ディランは資料へ目を落とした。
ページを送る指先が、せわしなく動いている。
「おう、ディラン……何か気づいたなら、共有してくれよ?」
だが、そのミリトの言葉に対する返事はない。ディランはただただ資料を目で追いながら、何かを推理しているかのように小さく口を動かしている。
「おい、聞いているのか?」
……ミリトはたまらず、焦りをにじませて呼びかけた。
だが一向に、ディランはまるで気付かぬように没頭している。
――と、思えば突然、
「補償額は……年齢によって差をつけているのか?」
と呟くように尋ねてくる。
「え? ああ。そういう取り決めになっている。後遺症の影響が大きいとされているからな」
「なるほど……」
ディランの視線がさらに鋭くなっていった――
――ミリトは、身震いしていた。
――ああ、この感覚。
この眼を、ミリトは知っている。
かつてミリトは学生の時分、全く身に覚えのない試験不正の嫌疑をかけられたことがあった。その際に、教師を相手取り弁護をしたのがディランである。
当時、二人は全く顔見知りではなかったし、その時のことを後で伝えてもディランは覚えていないと言う。
何よりミリトの印象に残っているのは、教師陣を論破したディランに感謝を伝えた時、自分を一瞥だけして立ち去ってしまったこと。その視線の、理知と不気味さが織りなす底知れなさ――彼には勝利の喜びも、正義感に酔うような考えも、同等に全くの無意味なのだろう。
そんなことを思い返しながら、ミリトはディランが資料を読みふけるさまを無言で見守っていた。
――恐らく、師団長ニコスから託された「監視役」としての仕事など、とっくに忘れていただろう。彼はただ一人の観客として、ディランが真実へ辿り着く瞬間を思い描いていた。




