Ep.X 小さな取り立て人
翌朝、ベルンが目を覚ますと、ヴィオラは既に寝台の脇の小さな卓に向かい、四隅のすり切れた古い羊皮紙に何かを書きつけていた。薄い肌着の肩に外套を引っかけただけの背中は、二十五年間一度も見たことのないほど無防備で、ペン先の走る音だけが朝の静けさに響いている。
「……それ、今書くのか」
「当然でしょう。昨夜の分よ。利子は安くしないって、二十五年前に言ったわよね」
残高の欄の数字が、一つ書き換えられた。ようやく振り返ったヴィオラの少女のような顔は、窓から差す朝の光の中で、ほんの少しだけ赤らんでいた。
「これからは毎晩書き足すことになるんだから、今のうちに慣れておかないと」
寝台の上で頭を抱えたベルンを眺めて、ヴィオラはくつくつと笑った。それもまた、二十五年間一度も見たことのない笑い方だった。
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二人は旅をやめ、王都の外れに小さな家を借りた。庭に古い林檎の木が一本あるだけの、二人で暮らすには少し広すぎる家だった。ベルンは王都で依頼を受けては出かけ、ヴィオラは家に残った。もう戦場に同行できるだけの魔力は残っていなかったが、市場へ買い出しに行く時だけは、彼女は必ずついてきて、当然のようにベルンの腕に自分の腕を絡めた。二十五年間一歩後ろを歩き続けた女が、今は肩の触れる距離にいた。
「あらあら、仲のいい親子だこと。お嬢ちゃん、お父さんと買い物かい?」
八百屋の女将にそう声をかけられた時、ベルンは石のように固まった。だがヴィオラは、一瞬目を丸くしただけで、すぐにベルンの腕へさらに強くしがみついてみせた。
「ええ、そうなの。この人、私がいないと何にもできないのよ」
三百歳以上も年下の男の娘に見えるなんて光栄だわ、と、帰り道のヴィオラは本当に楽しそうだった。それからも市場のあちこちで同じ勘違いをされ、そのたびに彼女は否定もせず腕にしがみついた。英雄ベルナルドには娘がいるらしい、という噂が冒険者たちの間に広まり始めたのは、その頃からだった。
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最初の白い髪が見つかったのは、二人で暮らし始めて一年が経った頃だった。銀糸のような淡い髪の中に混じった、たった一本の色の抜けた筋。鏡の前で動かなくなったヴィオラは、後ろから覗き込んだベルンに気づくと、慌てて髪を押さえた。
「……見ないで」
震える声だった。三百年以上変わらなかった顔が、これから変わっていく。人間の街で変異したエルフは、若さを失った瞬間から燃え尽きるように老いていく。知識としては知っていても、それが自分の身に訪れることの意味を、彼女は本当には分かっていなかったのだ。
ベルンはその白い一本を指でそっと摘まみ、鏡越しにヴィオラを見た。
「前にも言ったけどさ。俺は、今の君のほうが、ずっと好きだよ」
二十五年前、泥水をすする旅の中で、肉の削げ落ちた体を嘆いた彼女に告げたのと、同じ言葉だった。
「……相変わらず、口説き文句が下手くそね、ベルン」
返ってきたのも、あの夜と同じ言葉だった。ただその目元だけが、あの夜とは違って濡れていた。
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さらに二年が過ぎた初夏、ヴィオラは自分の体の異変に気づいた。初めはまた老化が進んだのだと思ったが、続く倦怠と、食べ物の匂いへの嫌悪と、ひどく鈍った魔力の巡りが、別の答えを告げていた。
「子供ができたわ」
夕食の席で、まるで天気の話でもするようにそう告げられ、ベルンの手から匙が落ちた。エルフは滅多に子を宿さない。人間とのあいだなら、なおさらだ。だがベルンの顔がみるみる歪んだのは、喜びのためだけではなかった。底の見えてきた彼女の魔力で子を産めば、残された数年の命は、きっと根こそぎ持っていかれる。
「だったら――」
「どうせ、あと数年よ。何もしなくても、私はこのまま醜く老いて、崩れていくだけ。……その残りの時間を何に使うかくらい、私に選ばせてちょうだい」
紫紺の瞳が、真っ直ぐにベルンを射抜いた。それから彼女は、自分の腹にそっと手を当てた。
「私のお母さんはね、私を産んで、すぐに死んだの」
その話は、これまで何度か聞いたことがあった。いつも冷たく突き放すような口調で語られる話だった。それでもその途中で、ヴィオラは時折、ふと自分の母親を「お母さん」と呼ぶことがあった。恨んでいると言いながら、その呼び方だけは、まるで小さな子供のようだった。
「ずっと恨んでたわ。どうして私を置いていったのか。掟のため? 種族のため? そんなもののために命を使うなんて、馬鹿げてるって。……今でも、お母さんの気持ちなんて分からない。でも、この子を産みたいって思ってる自分のことは、分かるの」
言いかけて、ヴィオラはふいと顔を逸らした。
「……あなたの借金の取り立てを、引き継いでくれる人がいないと、困るでしょう」
ベルンは何も言えず、ただその細い肩を抱き寄せた。二十九年前、彼女を身請けしたいと申し出たあの夜から、彼はこの女に、何一つ逆らえたためしがなかった。
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秋が深まる頃、ヴィオラの腹は目に見えて膨らみ始め、それと同じ速さで、髪からは色が抜け、肌からは張りが失われていった。小さな命が育つほどに、彼女の命が削られていく。二人とも、そのことを口にはしなかった。
ある日の昼下がり、焼きたてのパンの包みを抱えたロゼッタが訪ねてきた。宿の女将になって数年、すっかり貫禄のついたその腹もまた、ヴィオラと同じように大きく膨らんでいた。三人目なのだという。上の二人が男だったから今度こそ女の子がいい、とあの無口なアルドが珍しく口に出したのだと聞いて、二人は顔を見合わせて声を立てて笑った。
実をつけ始めた林檎の木の下で取り留めのない話をした後、ヴィオラはぽつりと言った。
「ロゼ。もし、この子が生まれて、私がいなくなったら……この子に乳をやってくれる人がいないの。あの人は、そういうことにはからきし向いてないから」
縁起でもない、と遮りかけたロゼッタは、白いものの混じった髪と張りを失った頬の中で、紫紺の瞳だけが、幼い日に裏庭から見上げた時と何一つ変わっていないことに気づいて、言葉を飲み込んだ。
「……任せとくれ。姐さんがあたいを拾ってくれたみたいに、あたいがちゃんと育てるよ。だから、姐さんも、ちゃんと見てておくれよ」
ヴィオラは答えず、ただロゼッタの手を握った。その手は、ロゼッタが覚えているよりもずっと細く、冷たかった。
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冬が来ると、ヴィオラはほとんど家から出なくなった。それでも昼間は卓に向かい、何枚もの書類と帳簿を広げて書きつけを続けた。何をしているのかと問えば、この子が困らないように色々と、とだけ答え、あなたに任せておいたら三日で飢え死にするわよ、と付け足した。その束に何が記されていたのか、ベルンは最後まで知らなかった。
夜になると、ベルンは寝台に横たわるヴィオラの腹に耳を当てるのが習慣になった。
「聞こえるか。父さんだぞ。それで、こっちが――お母さん」
なぜ自分は父さんで、私だけお母さんなのよ、と眉をひそめたヴィオラに、ベルンは少し照れくさそうに頭を掻いた。
「君、自分の母親の話をする時、ときどき『お母さん』って呼ぶだろ。恨んでるって言いながら、そこだけ、小さい子供みたいな声になるんだ。……だから俺の中じゃ、母親ってのは『お母さん』なんだよ。この子にとっても、きっとそうだ」
ヴィオラは何も言わなかった。顔も知らない、恨むことしかできなかったはずの相手を、自分はふとした時に、子供のような呼び方で呼んでいたのだ。そんなことを、彼女は一度も意識したことがなかった。
「……馬鹿ね」
ベルンの頭を膨らんだ腹の上にそっと押しつけるように撫でたその声は、ひどく優しかった。名前はもう決めてあるのかと尋ねると、生まれたら教えてあげる、と彼女は悪戯っぽく笑うばかりだった。
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二月の、雪の夜だった。
二月ほど前に生まれたばかりの末の息子をアルドに預けて駆けつけたロゼッタが、産婆と二人がかりで湯を運んでいる。ロゼッタの子は結局、三人目も男の子だった。
産声を上げた赤ん坊は、わずかに耳の尖った愛らしい女の子だった。銀糸のようだった髪はすっかり白くなり、少女のようだった頬はこけ、紫紺の瞳だけが窪んだ眼窩の奥で静かに光っている。かつての美貌を失い老い衰えたその姿で、ヴィオラは愛おしそうに我が子を胸に抱いた。ベルンが震える指を伸ばすと、小さな手が、驚くほど強い力でそれを握り返した。
かつて幼い自分を残して先に逝った母への恨み、寂しさ、疑問――そのすべてが、胸の中で静かに融解していくのを、ヴィオラは感じていた。
(……お母さん。あなたも、こんな気持ちだったのね)
森の掟のためでも、種族の繁栄のためでもない。ただ愛した者への祈りとして、己の命の灯火を削ってでも残したかったのだ。
「エレナよ……」
約束どおり、彼女はようやくその名を教えた。
「私の……可愛い、小さな取り立て人……」
ベルンの腕の中で、ヴィオラは穏やかな微笑みを浮かべたまま、静かに息を引き取った。
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夜が明ける頃、雪は止んでいた。泣き腫らした目のロゼッタが赤ん坊に乳を含ませ、小さな唇が懸命にそれを吸う音だけが、静まり返った部屋に響いていた。
ベルンは枕元に残された古い羊皮紙を手に取った。二十九年前、娼館の一室で交わした借用書。その残高の欄には、この四年間ヴィオラが毎朝のように書き足し続けた数字が、びっしりと並んでいた。彼は涙で滲む視界の中、震える手でペンを握り、貸主の名を静かに書き換えた。
債権者:ヴィオラ → エレナ
「……ちゃんと、完済するよ。この子に、取り立ててもらいながらな」
ロゼッタの腕の中で、小さな取り立て人が、満足したように小さなあくびをした。
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それから、十七年と少し。
王都の宿の一室で、黒髪のハーフエルフの少女が、寝台に寝転がりながら四隅のすり切れた古い羊皮紙を眺めていた。残高の欄に並ぶ、途方もない数字。父と母が、二人で積み上げてきた数字。
「……全然、減らないなあ」
苦笑交じりに呟いて、少女は羊皮紙を丁寧に畳み、枕元の小箱に仕舞った。窓の外では王都の冬の雪が静かに降り続け、階下からはロゼッタの呼ぶ声と、焼きたてのパンの匂いが届いてくる。
「よし。今日も、稼ぐぞー」
寝癖を手で押さえつけながら、少女は軽やかに階段を駆け下りていった。
借用書の債権者の欄には、今も、その少女の名前が記されている。
これでこの物語は完結となります。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。




