Ep.1-4 それぞれの日常
夜も明けきらぬうちから、宿の厨房には香ばしい匂いが漂い始めていた。
「よし、次」
アルドの短い声に合わせて、ローワンは焼き上がったばかりのパンを次々と受け取っては、手早く冷まし台に並べていく。熱々のパンを危なげなく掴み、間隔を空けて並べ、粗熱が取れたものから順に、迷いのない手つきで商品棚へと移していく。無駄のない動き、危なげのない手際――毎朝繰り返してきたことの積み重ねが、そこにはあった。
「今日は少し多めに焼いたな。市場の方で祭りがあるらしい」
「あ、それで昨日、母さんが小麦多めに仕入れてたのか」
親子の間で交わされる会話も、言葉少なでいて息はぴったりと合っている。パンが焼き上がるそばから棚が埋まっていく様は、まさに手慣れた職人の仕事だった。
もっとも、こうした早朝の光景を、エレナもユリウスも見たことがない。エレナは毎朝ぎりぎりまで寝ているし、ユリウスは日が昇りきる前には既に街へ調べ物に出てしまう。この宿で誰よりも早く動き出している人間が、実はローワンだということを、二人はまだ知らなかった。
朝食の時間帯が終わり、厨房が昼食の仕込みへと切り替わる頃になって、ようやくエレナが欠伸をしながら食堂に降りてきた。
「おはよ……もうそんな時間か」
寝癖のついた頭のまま、パン屑の残った皿を横目に椅子へ座る。ローワンは既にエプロン姿で、次の仕込みに取り掛かっていた。
「あ、エレナ、おはよう」
「ローワン、今日も朝から?」
「まあ、いつものことだから」
こともなげに答えるローワンに、エレナはしばらく彼の手元を眺めていたが、やがてふと思いついたように言った。
「ねえ、ローワンもさ、剣使えるようになった方が良いと思うんだよね」
「え、急に?」
「急にってわけでもないけど。ほら、いざって時、自分の身くらい自分で守れたほうがいいでしょ」
ローワンも一応剣は持っている。冒険者になると両親に告げたその日に、アルドが突然裏の納屋から持ってきて「持って行け」と渡したものだ。
「え、で、でも僕、そんな筋がいい方じゃ……」
「大丈夫大丈夫、私が教えるから!」
どうやら断ることは出来ないらしい。
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昼下がり、宿の裏庭。
「そこ、もうちょっと腰落として。あ、それだと逆に重心ブレるから」
エレナの指導のもと、ローワンは木剣を構えて何度も素振りを繰り返していた。研修クエストからしばらく経ち、次の研修まではまだ日がある。手持ち無沙汰な午後は、こうした自主練習に充てるのも良いかもしれない。これならギルドの訓練所まで行かなくとも、空いた時間で出来る。
「戦闘じゃほとんど役に立たないの、自分でも分かってるんだけどさ……」
息を切らしながらローワンが零す。エレナは腕を組んで、少し考えるように首を傾げた。
「別に、ローワンが最前線で斬り合う必要はないと思うけどね。でも、いざって時に自分の身くらい守れないと、私もユーリも安心して索敵任せられないでしょ」
「……うん、そうだよね」
「まあ、気長にやろ。半年後にはそれなりに様になってるって」
「気長すぎない!?」
裏庭に、二人の笑い声が響く。井戸端で洗濯物を干していたロゼッタが、その様子を見て目を細めていた。
一方、ユリウスはといえば、その日の午後を裏庭ではなく、宿の一室で書き物に費やしていた。朝早くに買い求めた発行されたばかりの今週号の新聞に目を通し、市場の相場や依頼の傾向を几帳面に書き留めていく。冒険者としての実戦だけでなく、こうした情報収集も、彼にとっては欠かせない日課の一つだった。
――――――――
日が暮れ、三人がそれぞれの夕食を終えた頃。他の宿泊客もそろそろ寝静まった時間になって、ユリウスはようやく机に向かい、ランプの灯りの下で羊皮紙にペンを走らせ始めた。
――拝啓 父上、母上
書き出しの一文を記し、そこで一度ペンを止める。何から書くべきか、頭の中で要点を整理してから、再びペンを走らせ始めた。
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拝啓 父上、母上
すっかり夜も更けましたが、お変わりなくお過ごしでしょうか。
先日お伝えした通り、無事に冒険者ギルドへの登録を終え、初回の新人研修クエストも問題なく突破いたしました。討伐対象はゴブリンが五体でしたが、会敵した数を丸ごと討伐するという、講師や同行のメンターも驚くほどの成果を上げることができました。
以前手紙でお伝えした通り、パーティーはかねての狙い通り、あの英雄ベルナルド殿のご息女――エレナと組むことができました。実際に行動をともにしてみて、彼女の実力は事前の想定を遥かに上回るものであると確信しております。単なる腕力だけでなく、幼少期より父君について実戦経験を積んでいたとのことで、判断力・危機察知能力ともに、とても駆け出しの新人とは思えぬ域に達しています。
彼女とパーティーを組めたことは、私の冒険者としての目算において、想像以上の好材料と言えるでしょう。
もう一人のパーティーメンバー、ローワンについても触れておきます。彼は当初、戦闘面での貢献は未知数と見ておりましたが、実際には索敵における観察眼が非常に優れており、私やエレナが見逃した気配にいち早く気づいていたこともありました。慎重さと冷静さを兼ね備えた、得難い人材だと考えております。
なお、私自身についても、些少ながら成果をご報告いたします。討伐の際、私の得意とする閃光魔法を即興で展開し、これが勝負を決する重要な役割を果たしました。同行のメンターからも「完璧です」との評をいただいており、今後もこうした実戦での対応力を磨いていく所存です。
こうした状況ですので、当初の想定よりも早く、まとまった資金を確保できるかもしれません。もちろん冒険者稼業は水物ゆえ、過度な期待は禁物と自らを戒めておりますが、良い兆しであることは確かです。
学園への入学、そして家の再興という目標に向けて、着実に一歩を進められていることをご報告できるのは、何よりの喜びです。
まだまだ穏やかな季節ではありますが、健康には気をつけてお過ごしください。
敬具
ユリウス
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書き損じもなく書き終えた手紙を、ユリウスは満足げに一度読み返した。しかし、ふと閃光魔法の一節に目を留め、少しだけ眉を寄せる。
「……『完璧です』は、いささか誇張が過ぎたでしょうか」
誰に問うでもなく呟き、けれど結局そのまま、手紙を丁寧に折りたたんだ。
鎧戸を上げた窓の外からは、少し離れた歓楽街の喧騒が僅かに聞こえる。外征に出ていた部隊が一部帰ってきているという噂も聞いた。もし良い戦果を持ち帰っているのなら、しばらくは歓楽街が騒がしいかもしれない。
「……関連する依頼が出ているかもしれませんね。明日はギルドに行ってみましょう」
折りたたまれた手紙を昼に手紙屋で買い求めた専用封筒に収め、ランプであぶった封印と封蝋で閉じる。そのまま文机に置いたところでふと思いついて、封筒の端に月見草の絵を描いた。
――――――――
翌朝、ユリウスはいつも通り日の出前に宿を出て、街の様子を見て回った後、ギルドへと足を運んだ。掲示板には、確かに見慣れない依頼がいくつか貼り出されている。〈帰還部隊への物資搬入補助〉〈装備点検の人手募集〉――どれも、討伐でも採集でもない、後方支援めいた依頼だった。
「今日はやけに賑やかですね」
近くにいた顔見知りの冒険者に声をかけると、男は得意げに声を潜めた。
「おう、聞いたか? 北方に出てた外征部隊が、一部戻ってきてるんだと。景気づけに、歓楽街もこの通りの騒ぎだ」
「戦果を上げての凱旋、ということですか」
「さあな、そこまでは知らねえが。まあ、悪い話じゃねえだろ」
男はそう言って笑い、雑談もそこそこに去っていった。
ユリウスは、その場に立ち尽くしたまま、掲示板をもう一度眺めた。
――何かが、噛み合わない。
戦果を上げての凱旋であれば、もっと華々しい触れ込みがあってもいいはずだ。だが、貼り出されている依頼はどれも地味な後方支援ばかりで、戦勝を祝うような浮ついた空気は、少なくともギルドの中には見当たらない。それに、“一部”戻ってきている、という言い回しも引っかかった。全軍の帰還ではなく、なぜ一部だけなのか。
商人の家に生まれ育った者の勘が、小さな引っかかりを覚えさせた。もう少し詳しい話が広まれば、はっきりするだろう。
「……まあ、考えすぎですね」
軽く肩をすくめると、ユリウスはあっさり気持ちを切り替え、掲示板を離れた。
懐にしまっていた昨夜の手紙を思い出し、足を手紙屋へと向ける。この国では、手紙や小荷物の輸送は、各地を巡る行商人たちがまとめて請け負っている。窓口に手紙を差し出すと、店主は宛先を一瞥した。
「南か。じゃあ大丈夫だ、明日の行商にちょうど乗せられる」
「助かります」
「北って言われたら、しばらく出せねえかもって答えるところだったけどな」
「北、ですか?」
「ああ。北方面の道、なんか荷運びの連中が渋ってるらしくてよ。理由は知らねえが、しばらく便が減るかもしれねえ」
それだけ言うと、店主は慣れた手つきで受理の印を押し、次の客へと向き直った。
礼を言って店を出ると、朝の光の中、人々が忙しなく行き交っていた。ユリウスはそれ以上深く考えることもなく、いつも通りの一日を始めるべく、街の雑踏へと足を進めた。
――――――――
その頃、エレナは一人、王都の外れにある墓地を訪れていた。
初回の研修クエストを終えた報告がてら、ふらりと足を向けたのだ。手には、小さな花束――のようなものが握られている。
「父さん、久しぶり。研修クエスト、ちゃんと五体全部倒せたよ」
素っ気ない墓石の前にしゃがみ込み、エレナは持ってきた白い花を、そっと墓前に供えた。
「これ、月見草っていうんだって。飾ってあげるね」
満足げに頷き、しばらく墓石を眺めていたエレナは、供えたばかりの花に、うっとりと目を細めた。
「綺麗でしょ。私が選んだんだから」
墓地のある丘には穏やかな風が吹いていた。
「じゃあね、父さん。また来るから」
良いことをした満足感に浸りながら、エレナは軽い足取りで墓地を後にした。墓前には、月見草とそれに似た毒草が不器用に束ねられ、風に微かに揺れていた。
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