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Ep.0 愛の値段

※本作は本編の前日譚プロローグとなります。

少し重めの導入ですが、本編からは明るく賑やかな展開になっていきますので、安心してお読みいただければ幸いです!

歓楽街の裏路地には、甘ったるい香と安酒、そして人間の濃密な欲望の匂いが淀んでいた。


石畳の階段を上がり、重い扉を開けた先の部屋で、女主人のヴィオラは煙管から細く紫煙を吐き出した。煙がヴィオラの長い耳の先をくすぐる。この娼館は、この歓楽街で唯一のエルフの経営する娼館だ。手違いで客が溢れ返った夜、自ら部屋に招き入れたのは、先輩冒険者たちに担ぎ込まれた十五歳の少年だった。名をベルナルドという。王都の先輩冒険者たちはウブな彼をすぐに気に入り、気安くベルンと愛称で呼んだ。


ベルンは、王都を少し離れた田舎村の出身だ。両親を早くに亡くしたが、幸い頑強な身体に生まれていたので、十五歳の成人を機に村を出て冒険者として身を立てようとしていたのだ。そしてギルドで登録したその日、先輩たちの熱い歓迎パーティーの末に、成人祝いをかねた寄せ集めの端金とともにこの娼館に放り込まれた。


「ツイてないわね、坊や。私の部屋しか空いてないのよ。高いわよ?」


薄絹を纏った豊満な胸元を揺らし、ヴィオラは妖艶に微笑みかけた。森の精霊の器たる神秘を失い、人間の脂ぎった食事と粗悪な欲望を啜って肥え都合よく熟れたその肉体は、その無垢な少女のような顔に反して人間好みの毒婦そのものだった。 だが少年は、彼女のあまりの美しさに息を呑み、耳まで真っ赤にしてがたがたと震えていた。そして恐る恐る銀貨を卓上に並べると、ヴィオラの指先一つ触れることなく、脱兎のごとく部屋から逃げ帰った。


それから三日後の夜。ベルンは泥に汚れた革袋を胸に抱え、再びヴィオラの前に現れた。


「あんたを、身請けしたい」


そのあまりに無垢で世間知らずな申し出に、ヴィオラは乾いた笑いを漏らした。 かつてエルフの森の境界で奴隷狩りに遭い、娼館に売られ商品として生かされ、何世代もの人間の移ろいを見送りながら自分の肉体を買い戻した。人間社会で生き延びる術はそれしか知らず、傾いたこの娼館を買い取って主人となった。三百余年ものあいだ退屈と虚無の底に沈んでいた彼女にとって、少年の言葉はあまりに滑稽な冗談に聞こえた。


「身請け? 私を買い戻すのにいくらかかると思ってるの、坊や。そうね……大金貨三百枚よ。あなたの寿命が三回尽きても払えないわ」


「……稼ぐ。どんな魔物だって討伐して、絶対に返す。あんたをこんな場所に置いておきたくないんだ」


(こんな場所、ね……今は私が主人なのだけど……)


金勘定と欲望の駆け引きしか知らなかったヴィオラの胸に、ふと悪戯めいた衝動が走った。死んだように平穏なこの日々に、この青臭い勘違い小僧がどう足掻いて破滅するか見てみたくなったのだ。それはこの世界に飽きつつあったヴィオラの仄暗い興味だった。


「いいわ。じゃあ、私があなたに金を貸してあげる。店を畳んで、借金取りとしてついて行ってあげるわ。返せないときは……魂ごといただくわよ?」


一枚の羊皮紙に、途方もない金額が記された。 債権者ヴィオラ、債務者ベルナルド。 奇妙で歪な二人の旅が、そこから始まった。


――――――――


ベルンは無我夢中で剣を振るった。 危険な討伐任務、泥沼の国境紛争、誰もが避ける死線へ自ら飛び込んだ。借金を早く返し、彼女の心を自由にするためだけに。


傍らに立つヴィオラもまた、煙管を吹きながら魔術の嵐を放ち、少年の背中を支え続けた。自然の調和を説くだけの森のエルフなら到底使えない、生き血と泥に塗れた超実戦の魔力制御。二人はいつしか、無自覚のまま数々の戦功を挙げ、国中から一目置かれる凄腕のコンビへと駆け上がっていった。


歳月は残酷で、同時に優しい。


十五年が過ぎた頃、夜営の焚き火を挟んで、ヴィオラは自らの胸元を見下ろして悪態をついた。


「見てよこれ。昔はあんなに柔らかくて立派だったのに、あなたと泥水すすって野宿ばかりしてるから、すっかり縮んじゃったじゃない。……女としての価値が落ちたって、利子は安くしてあげないからね」


「俺は、今の君のほうがずっと好きだけどね。背中を預けるのに、余計な肉なんて邪魔なだけだろ?」


「……相変わらず、口説き文句が下手くそね、ベルン」


娼館で蓄えた過剰な肉は過酷な冒険の日々で削ぎ落とされ、ヴィオラの身体はしなやかな戦士のものへと変わっていた。その肉体は森のエルフの細い肉体とも違う、引き締まった冒険者のそれだ。


ある夜、薪をくべながら「人間とエルフだって、ちゃんと話せば仲良くできるはずだ」とナイーブな理想を口にしたベルンに、ヴィオラは冷ややかな視線を投げた。


「平和な森の民? 本気でそう思っているの? あれはただ閉鎖的なだけよ。共同体を維持すること以外に何の意味もなく、ただただ閉じた輪の中に閉じこもっているだけよ。人間の理屈が通じると思わないほうがいいわ」


彼女は自らの細い指先を炎にかざし、淡々と続けた。


「私は生まれてすぐ母を亡くしたわ。父のような、里の有力者と繋がりの薄い者やその子孫の役割は、外縁の警備、ただの矢避けよ。私が人間の罠にかかった時も、森の結界を解くリスクを避けるために一瞬で切り捨てられたわ。境界の外縁で網にかかった個体は、その瞬間に『領域外の損失』として処理される。防衛の計算としては百点満点の正解よ。……人間は欲深くて残酷だけど、自分の欲望で動いている分、まだ話が通じるわよ」


森を追われ、人間に買われ、それでもベルンの隣でだけは、彼女は「ヴィオラ」という一人の女として生きていた。 ベルンは借金の誓いを頑なに守り続け、どんなに想いが募ろうと、決して一線を越えようとはしなかった。


――――――――


出会いから二十五年。 ベルンは四十歳の、無数の傷と頑強な肉体を持つ歴戦の英雄になっていた。


そして、その時は訪れた。


「ベルン。私の魔力、もう濁りきって底が見えてきたわ」


決戦の前夜、天幕の中でヴィオラが告げた。 人間の街で変異したエルフの肉体は、千年の寿命を保てない。若さを失った瞬間から、わずか数年で急速に老化し、燃え尽きるように死に至る。


「私の命は、あと数年よ。……ねえ、私が老いて醜く崩れ落ちる前に、抱いてくれない?」


冗談めかした声音の奥で、細い指先がかすかに震えていた。 かつて街で見かけた仲睦まじい人間の老夫婦への羨望。森の同胞のように自然に還ることもできず、醜く衰えていく恐怖。


「……捨てないでね、ベルン」


二十五年間の誓約が、音を立ててほどけた。 ベルンは何も言わず、ただその震える肩を強く抱き寄せた。大金貨三百枚とその利子が積み上げた借金などとうに意味を失い、そこには互いの命のすべてを分かち合う熱だけがあった。抱かれるたびにヴィオラが書き足すその残高は、まるで二人が分かち合った愛の回数を数えるかのように、しっかりと増えていった。


それから四年後。 ヴィオラの老化は残酷なほど速かった。肌の張りは失われ、髪には白いものが混じり、魔力は急速に枯れ果てていった。


だが、その急速に縮みゆく命の最後に、一つの奇跡が宿った。


産声を上げた赤ん坊は、わずかに耳の尖った愛らしい女の子だった。 かつての美貌を失い老い衰えた姿で、ヴィオラは愛おしそうに我が子を胸に抱いた。かつて幼い自分を残して先に逝った母への恨み、寂しさ、疑問――そのすべてが、胸の中で静かに融解していくのを感じていた。


(……お母さん。あなたも、こんな気持ちだったのね)


森の掟のためでも、種族の繁栄のためでもない。ただ愛した者への祈りとして、己の命の灯火を削ってでも残したかったのだ。


「エレナよ……」


ヴィオラはかすれゆく声で紡いだ。


「私の……可愛い、小さな取り立て人……」


ベルンの腕の中で、ヴィオラは穏やかな微笑みを浮かべたまま、静かに息を引き取った。 エルフとしてはあまりに短く、人間としては途方もなく濃密な、幸福な生涯だった。


枕元に残された、四隅のすり切れた古い羊皮紙。 ベルンは涙で滲む視界の中、震える手でペンを握り、貸主の名を静かに書き換えた。


債権者:ヴィオラ → エレナ


――――――――


それから十五年。


王都の外れで、一人の偉大な老英雄の葬儀が執り行われていた。 死ぬ数ヶ月前まで前線で戦い続けたベルンの棺の前に、十五歳になったハーフエルフの少女――エレナが立っていた。彼女は涙ひとつ見せていなかった 。


「英雄の子とはいえ、やはりハーフエルフ。感情がないのかしら」


「薄情な娘だ」


心ない囁きが、人並み外れて優れた耳に届く。 エレナは母譲りの切れ長で美しい目を細め、腰のショートソードに手を当てて振り返ると、からかうように笑い飛ばした。


「何言ってんの。泣かれて喜ぶ奴なんていないって。笑って送ってやってよ、そのほうが父さんも喜ぶからさ!」


眩しい笑顔の目尻に、拭ったばかりのわずかな湿り気が残っていることに、誰も気づかない。


――――――――


葬儀を終えた数日後の朝。


常宿となっていた一室で、エレナは旅支度を整えていた。 腰には幼い頃に父から買い与えられた使い古しのショートソード。背には母の形見である黒塗りの魔弓。


革の鞄へ荷物を詰め終えた彼女は、卓上に置かれた一枚の古い羊皮紙を手に取った。 四隅がすり切れ、幾重にも折り目が刻まれ、焚き火と煙草の匂いが染み付いた奇妙な契約書。


そこには、二つの異なる筆跡で、同じ名前が刻まれていた。


債権者:エレナ

債務者:エレナ


「まったく……お母さんの莫大な貸金を受け継いだと思ったら、父さんの途方もない借金まで丸ごと相続させられちゃってさ」


呆れたように息を吐きながらも、その口元には母譲りの悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。 丁寧に折りたたんだ羊皮紙を胸ポケットに収めると、彼女は振り返ることもなく宿の扉を押し開ける。


降り注ぐ朝の光の中へ、ハーフエルフの少女は軽快な足取りで踏み出していった。

最後までお読みいただきありがとうございます!


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ちなみに「相殺すればいいのでは」問題、実は主人公エレナ自身も自覚しています。それでも完済にこだわる理由は、次話以降で明かされる予定です。

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