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二十万円の笑顔  作者: 鍵しっぽハンター


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第一章 春の軽さ


 四月というのは、なんとなく始まった気がするだけで、実際には何も始まっていない。

 橘ゆうとはそんなことを考えながら、教室の窓から校庭の桜を眺めていた。もう散りかけている。入学式のころはあれほど騒がれていたのに、三年生になったゆうとたちにはもう誰も何も言わない。桜が散っても、散ったと言う人間がいなければ、それはただの風景だ。

 「ゆうと、聞いてる?」

 田中が隣の席から顔を突き出してきた。丸い顔に丸い目。笑うと歯茎まで見える男だった。

 「聞いてる」

 「嘘つけ。どこ見てんだよ」

 「桜」

 「お前、入学したてかよ」

 田中が笑った。ゆうとも笑った。何がおかしいのかよくわからなかったが、笑うのが自然だった。

 ホームルームが終わって廊下に出ると、西村が壁にもたれて待っていた。西村は背が高く、いつも少し眠そうな目をしていた。

 「進路希望調査、書いた?」と西村が言った。

 「まだ」とゆうとは答えた。

 「俺も。どうすんの」

 「どうすんだろうな」

 三人で笑った。笑ったあと、誰も何も言わなかった。進路という言葉は、笑い飛ばすと軽くなった。軽くなったものは、ポケットにしまっておけばいい。ゆうとはそういうふうにして、これまでいろんなものをポケットに入れてきた。


 放課後、ゆうとと田中と西村は駅前のファストフード店に入った。窓際の席。田中がポテトを頼んで、全員でつまんだ。

 「大学どうする?」田中が言った。

 「どうするかなあ」ゆうとは言った。

 「どこでもいいじゃん、正直」

 「そうなんだよな」

 西村が炭酸をストローで吸いながら、「お前ら本当に考えてないな」と言った。西村は三人の中で一番成績がよかった。でもそれを自慢しない。だから西村といるのは楽だった。

 「西村はどうすんの」

 「法学部とか。親がうるさいから」

 「偉いな」

 「偉くはない。面倒くさいだけ」

 また笑った。外では制服姿の生徒たちが行き交っていた。みんな同じ顔をしているわけではないのに、なんとなく同じに見えた。ゆうとはその中の一人だった。それは別に悪いことではなかった。

 スマホに彩花からLINEが来た。




彩花 16:41

今日暇?


彩花 16:41

会えない?

 



ゆうとは即座に返した。




ゆうと 16:42

いるよ

どこ来る?

 



田中がのぞき込んできた。「彩花ちゃん?」

 「うん」

 「呼べよ」

 「嫌だよ」

 「なんで」

 「お前らといるとこ見せたくない」

 田中が「ひどい」と言って笑った。西村も笑った。ゆうとも笑った。


 彩花が来たのは十七時過ぎだった。

 橋本彩花は同じ高校の三年生で、ゆうとと付き合って七ヶ月になる。背は低く、髪を耳のあたりで切っていた。笑うと少し目が細くなる。

 「田中くんも西村くんもいるじゃん」と彩花は言った。怒っていない。ただ確認している。

 「呼んでないのに来た」とゆうとは言った。

 「自分で来たくせに」と田中が言った。

 「お前は黙ってろ」

 また笑い声が起きた。彩花も笑った。ゆうとは彩花の隣に席を詰めて、四人でしばらく何でもない話をした。好きなアーティストの話、最近見たドラマの話、誰かのSNSが炎上している話。話題はふわふわと漂って、どこにも着地しなかった。それで全員が満足していた。

 「ゆうとって、卒業したら何するの」と彩花がふいに言った。

 「大学」

 「どこの」

 「どこかの」

 「どこかのって何」

 「どこかの大学」

 彩花が「もう」と言って、ゆうとの肩を軽く叩いた。怒り方が彩花らしかった。本気で怒っていないときは、叩く力がいつも同じだった。ゆうとはそれを知っていた。

 田中が「こいつ全然考えてないんですよ」と彩花に言った。

 「知ってる」と彩花は答えた。

 「心配じゃないですか」

 「心配してないの?ゆうと」

 ゆうとは少し考えた。考えた、というよりは、考えるそぶりをした。

 「まあ、どうにかなるかなって」

 「どうにかなるかな、ってどうにかなった試しがないよね」と彩花は言った。

 それも笑いになった。


 夜、家に帰るとリビングに母親がいた。夕飯の準備をしていた。エプロンをしていた。テレビがついていた。いつもと同じ光景だった。

 「遅かったね」と母親が言った。

 「ちょっとみんなといた」

 「ご飯、もうすぐだよ」

 「わかった」

 ゆうとは自分の部屋に上がった。ベッドに転がって、スマホを見た。彩花からLINEが来ていた。




彩花 19:03

今日楽しかった

また会おうね


ゆうと 19:11

うん

またな




 スマホを置いて、天井を見た。天井には何もなかった。何もないのは別に問題ではなかった。

 下から母親の声がした。「ゆうと、ご飯だよ」

 「はーい」

 ゆうとは立ち上がった。


 夕飯は肉じゃがだった。

 父親は仕事から帰っていた。弟の航太は中学二年で、今日の部活の話をしていた。サッカー部で、今日の練習で何かがあったらしい。ゆうとはなんとなく聞いていた。

 「ゆうとは進路、どうなってるの」と父親が言った。

 「考えてる」とゆうとは答えた。

 「考えてる、って具体的には」

 「いろいろ」

 父親は何か言いたそうだったが、母親が「まだ四月だから」と言った。それで話は終わった。

 ゆうとは肉じゃがを食べながら、「考えてる」という言葉について少し思った。考えているというのは本当だった。ただ、何を考えているのかを言葉にできないだけだった。言葉にできないということは、まだ考えの途中ということだから、「考えてる」は正確だった。

 そういうことにしておいた。


 部屋に戻ってから、ゆうとはスマホでバイトを検索した。別に今すぐ働きたいわけではなかった。ただ、漠然とお金がほしかった。理由はない。お金があれば何かできる。何かはわからないが、何かできる。

 求人サイトをいくつか開いた。コンビニ、ファミレス、引越し、倉庫作業。時給がいろいろ書いてあった。どれも面接が必要だった。面接というのが面倒くさかった。なぜ面接をしなければならないのか、なんとなく理解できなかった。むこうが雇いたければ雇えばいい。こちらは働いてもいいと思っている。それで十分ではないのか。

 検索しているうちに、タイムラインに流れてきた投稿が目に入った。




@quick_job_info

【急募】都内近郊/短期/高収入

 日払い可・身分証不要

 興味ある方はDMへ

 ※詳細はDMにて

[いいね 312 / リポスト 89]

 



ゆうとはその投稿を一秒見て、次の投稿に流れた。特に何も思わなかった。

 しばらくスクロールして、また戻ってきた。

 「日払い可」というのが目についた。身分証不要というのも気になった。気になった、というのは、怪しいと思ったということではなく、ただ気になったということだった。

 ブックマークした。

 それだけだった。スマホを伏せて、ゆうとは眠った。


 翌朝通知が来ていた。

 フォローもしていないアカウントからDMが届いていた。

 ゆうとは通知の文字を一瞬読んだ。開かなかった。

 制服に着替えて、朝ご飯を食べて、家を出た。


 五月になっても、桜の代わりに何かが咲くわけではなかった。街路樹が青くなって、それだけだった。

 ゆうとの毎日は変わらなかった。朝起きて学校に行って、田中と西村と話して、彩花とたまに会って、家に帰って飯を食って寝る。進路希望調査の紙は机の引き出しに入れたまま、まだ出していなかった。

 授業中、先生が話しているのを聞いている振りをしながら、ゆうとはよく窓の外を見た。窓の外には別に何もなかった。空と、フェンスと、その向こうの住宅街。見ていて何かが変わるわけではなかった。ただ、そちらのほうを向いているほうが楽だった。

 「橘、今の問題わかるか」

 現代文の先生に当てられた。ゆうとは教科書をもう一度見た。問題は「作者がここで言いたいことを述べよ」だった。

 「えっと……人間は、自分の見たいものしか見ない、ということだと思います」

 「まあ……大外れではないけどな」と先生は言った。

 田中が小声で「かっこいい答え方」と言った。ゆうとは笑いをこらえた。


 放課後、田中と西村と三人でゲームセンターに行った。クレーンゲームをやって、西村がぬいぐるみを取った。取ったぬいぐるみを困った顔で持っている西村の写真を田中が撮って、「かわいい」とコメントをつけてSNSに上げた。西村が「やめろ」と言った。

 ゆうとはプリクラのそばで二人を待ちながら、スマホを見た。

 通知欄に、まだ開いていないDMの件数が表示されていた。

 1。

 ゆうとはその数字を見た。見て、スマホをポケットにしまった。

 「ゆうと行くぞ」と田中が言った。

 「おう」


 六月。梅雨が来た。

 ゆうとは毎朝、折り畳み傘を持って出るか持たないかを迷った。だいたい持たなかった。だいたい降られた。でも濡れて帰ってきても別に困らなかった。困ることが起きるより前に、晴れることのほうが多かった。

 バイトは、まだ決まっていなかった。求人サイトを見ることもなくなっていた。

 「バイトどうする気なの」と彩花が言った。二人で駅前のカフェにいた。雨だった。

 「どうにかなるかなって」

 「どうにかなるかな、はもうお腹いっぱい聞いた」

 「そうかな」

 「毎回同じこと言ってる」

 ゆうとはアイスコーヒーをストローで吸いながら、「言ってるか?」と言った。

 「言ってる」

 「そっか」

 彩花が「そっかじゃなくて」と言った。怒っているのか笑っているのか、中間みたいな顔だった。「夏休み、どこか行きたいよね。お金ないと行けないじゃん」

 「そうだな」

 「そうだな、って」

 「考える」

 「また考えるだ」

 「今度は本当に考える」

 彩花は少し黙って、コーヒーを飲んだ。「ゆうとは何も焦らないよね」と彩花が言った。

 「焦ったほうがいい?」

 「わかんない。ただ、たまに心配になる」

 「大丈夫だよ」

 「何が大丈夫なの」

 ゆうとは少し考えた。

 「全部」と言った。

 彩花はまたあの中間みたいな顔をした。


 七月。

 期末試験が終わった日の夜、ゆうとは部屋でスマホを触っていた。試験の手応えは特になかった。手応えがないということは、多分可もなく不可もなくということで、それはいつものことだった。

 試験勉強をしていたら彩花から「終わった?」とLINEが来た。




彩花 22:14

終わった?

おつかれ


ゆうと 22:15

終わった

明日でいっか残りは


彩花 22:15

だめだよ笑

やること決めてやりな


ゆうと 22:16

そうする


彩花 22:17

ほんとにね

おやすみ


ゆうと 22:17

おやすみ




 会話を閉じて、ゆうとはタイムラインを開いた。特に何も起きていなかった。友人の投稿、芸能人の投稿、広告、知らない人のバズった投稿。流れていくだけだった。

 スクロールしていると、ブックマークに保存した投稿のことを思い出した。

 あの投稿を保存したのは四月だった。三ヶ月前だ。三ヶ月間、ゆうとはそれについて何も考えなかった。考えなかった、というのは、考えようとしたが考えられなかったということではなく、ただ思い出さなかっただけだ。

 ブックマークを開いた。

 投稿はまだあった。




@quick_job_info

【急募】都内近郊/短期/高収入

 日払い可・身分証不要

 興味ある方はDMへ

 ※詳細はDMにて

[いいね 312 / リポスト 89]




 三ヶ月経っても、いいねの数は変わっていなかった。

 ゆうとはDMの通知をもう一度確認した。

 まだ開いていなかった。

 開いた。




@quick_job_info → 橘ゆうと 4月9日 23:14

はじめまして。投稿を見ていただきありがとうございます。

詳細についてお話しできればと思います。

簡単な仕事で、報酬は一回につき相談になります。

もしご興味あれば返信ください。




 ゆうとはそのメッセージを読んだ。

 「簡単な仕事」というのが何なのかは書いていなかった。「報酬は一回につき相談」というのは、つまり金額を言いたくないということだった。

 やばいかもしれない。

 そう思った。

 でも「やばい」という言葉の中身については、考えなかった。やばいかもしれない、で止まった。それ以上先に進まなかった。

 ゆうとはメッセージを閉じた。

 返信はしなかった。

 スマホを充電器に挿して、ゆうとは眠った。


 翌朝。

 ゆうとが目を覚ましたとき、スマホの充電は百パーセントになっていた。

 通知を見た。彩花からLINEが来ていた。母親のLINEグループに既読がついていた。あとは何もなかった。

 顔を洗って、制服を着た。

 朝ご飯を食べながら、スマホをテーブルの端に置いていた。母親が「ゆうと、スマホ片付けて」と言った。ゆうとはスマホをポケットにしまった。

 「今日は何時に帰るの」と母親が言った。

 「普通に帰る」

 「そう」

 航太が「俺今日部活だから」と言った。ゆうとは「そうか」と言った。それだけだった。

 家を出た。駅まで歩いた。

 改札に入ったところで、ゆうとはスマホを出した。昨夜のDMをもう一度開いた。

 返信しようとした。

 何と返せばいいか、思いつかなかった。

 「詳しく教えてください」と打ちかけて、消した。

 電車が来た。乗った。

 吊り革につかまって、画面を見た。

 「興味あります」と打った。

 送信した。

 電車が動き出した。


 返信が来たのは昼休みだった。




@quick_job_info → 橘ゆうと 12:31

ご連絡ありがとうございます。

仕事の内容は、指定された場所へ行き、

指示に従って作業していただくだけです。

リスクはありません。

報酬は一回につき二十万円になります。

詳細は直接お会いしてお話しします。

よろしければ日程を教えてください。




 ゆうとは教室で弁当を食べながら、そのメッセージを読んだ。

 田中が「何見てんの」と言った。

 「なんでもない」とゆうとは言った。スマホをしまった。

 二十万円。

 ゆうとは弁当の蓋を閉めた。残りは半分あったが、もういいと思った。

 二十万円というのは、ゆうとがバイトをせずにここまで生きてきた十八年間で、一度に手にしたことのない金額だった。二十万円あれば、夏に彩花とどこかに行けた。何か買えた。何かできた。何かは、後で考えればいい。

 「リスクはありません」というのが気になった。気になったのは、怪しいと思ったからではなく、なぜそこだけ強調するのかがわからなかったからだ。リスクがないなら、そう言わなくてもいい。でも、言っているということは、言う必要があるということだ。

 その先を、考えなかった。


 放課後、田中と西村と別れてから、ゆうとは一人で帰った。

 歩きながらスマホを開いた。

 返信を打った。




ゆうと → @quick_job_info 17:22

いつでも大丈夫です




 そう送信して、スマホをポケットにしまった。

 帰り道の商店街を歩いた。肉屋のおじさんが「いらっしゃい」と言った。ゆうとは買わなかったが「どうも」と言った。花屋があって、八百屋があって、古い薬局があった。いつもの道だった。

 スマホが振動した。




@quick_job_info → 橘ゆうと 17:25

ありがとうございます。

では今週土曜日はいかがでしょうか。

場所は〇〇駅改札前で十四時はいかがでしょうか。




 ゆうとは歩きながら読んだ。

 行くとは言っていなかった。

 でも、断るとも言っていなかった。

 「わかりました」と返した。

 返したあと、ゆうとはスマホをしまって、空を見上げた。七月の空だった。青かった。入道雲が出ていた。

 何も考えていなかった。

 というより、考えるべきことがあると気づいていなかった。


 その夜、ゆうとの部屋の窓から見える空には、星がひとつも見えなかった。

 雲が出ていた。

 ゆうとはベッドに横になって、スマホで動画を見ていた。特に好きなわけでもない動画だった。ただ画面が光っていると、何かをしている気になれた。

 彩花からLINEが来た。




彩花 22:58

今日どうだった?


ゆうと 23:01

普通

田中と西村と帰った


彩花 23:02

そっか

土曜日暇?


ゆうと 23:03

用事あるかも


彩花 23:03

そっか

なんの用事?


ゆうと 23:04

ちょっとね

またあとで


彩花 23:05

うん

おやすみ


ゆうと 23:05

おやすみ




 会話を閉じた。

 「用事あるかも」と書いたとき、ゆうとは何も考えていなかった。嘘をついているという意識もなかった。ただ、説明が面倒だった。説明が面倒なことは、説明しなくていい。それだけのことだった。

 動画を閉じた。

 充電器に挿した。

 目を閉じた。

 土曜日のことを考えようとした。

 考えが進まないうちに、眠った。




〔母親断片 ①〕


 ゆうとが最近、以前よりも家にいる時間が長い気がした、と橘美穂は思った。

 バイトもしていないし、部活もやめてしまったから、当然といえば当然だった。でも何かをしているわけでもなく、部屋でスマホをいじっているか、ぼんやりしているかのどちらかだった。受験生なんだから勉強してほしいとは思うけれど、それを言うと夫と同じことを言ってしまいそうで、美穂はあまり口に出さなかった。

 今日の夕飯は肉じゃがにした。ゆうとは好きでも嫌いでもない顔で食べていた。それはいつものことだった。




 土曜日の朝、ゆうとは八時に目が覚めた。

 起きる理由は特になかったが、眠れなくなった。

 昼前に起きてきた航太と一緒にテレビを見た。バラエティ番組だった。芸人が何かをして笑われていた。何がおかしいのかはわかったが、笑わなかった。航太が笑っていた。

 「兄ちゃん笑わないじゃん」と航太が言った。

 「まあな」

 「おもしろくなかった?」

 「おもしろかったけど」

 航太は不思議そうな顔をして、またテレビを見た。

 昼ご飯を食べて、ゆうとは部屋に戻った。

 十三時になったとき、着替えた。普段着。ジーンズと、特に気に入っているわけでもないTシャツ。

 財布を持った。

 スマホを確認した。

 メッセージは来ていなかった。

 ゆうとは部屋を出た。階段を降りた。

 リビングで母親が本を読んでいた。

 「出かけてくる」

 「何時に帰るの」

 「夕方には帰る」

 「夕飯、家で食べる?」

 「たぶん食べる」

 「そう。気をつけてね」

 「うん」

 玄関で靴を履いた。ドアを開けた。外に出た。

 七月の午後の空気が、むわっとした。

 ゆうとは駅に向かって歩き始めた。

 何を考えているわけでもなかった。

 ただ、足が動いていた。


 指定された駅の改札を出ると、人が多かった。土曜日の午後だった。家族連れと、カップルと、若者のグループ。みんなどこかに向かっていた。

 ゆうとは改札の前で立った。

 時刻は十三時五十八分だった。

 スマホを取り出した。DMを開いた。相手のアイコンは無地の灰色だった。プロフィールには何も書いていなかった。フォロワーは十二人だった。

 十四時になった。

 「橘さんですか」

 声がした。

 ゆうとは顔を上げた。

 男がいた。三十代くらいに見えた。背は普通で、体格は普通で、服装は普通だった。目立たない人間というのがいるとしたら、こういう人間のことを言うのだと思った。

 「そうです」とゆうとは答えた。

 男はうなずいた。「では、少し歩きながら話しましょう」

 ゆうとはうなずいた。

 男の顔を、ちゃんと見なかった。

 見なくていいと思った。

 見るべき理由が、思いつかなかった。


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